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2009/12/30

12月30日水曜日

 3カ月ぶりに多摩川を渡った。電車の中から見える河原は黄土色で、所々が少し緑だった。大晦日を明日に控えて、電車は少しばかり忙しなくみえる人々で混んでいた。

 ダックスフンドをベビーカーに載せて乗り込んできた母と娘。驚くほど顔が似ていて私は何度も二人の顔を交互に見てしまった。彼女たちは座ってからずっと銀座のなんとかというお店の話をしている。ベビーカーのダックスフンドはおとなしく顔をうずめていた。明日で2009年も終る。何の感慨もない。頭の中の有象無象が沈殿したまま年を越しそうだ。

2009/08/27

手紙の整理

 十年も二十年も前に届いた葉書、手紙、カードの類。折を見て捨てているのだけど、部屋の片付けのついでに埃まみれになって整理している。もう二度と会えなくなった人々からのものは最新のものだけにし、会うつもりのない人からのものはビリビリ破いては捨てている。資源ごみにしてそのまま捨てるのは気がひけるからね。 

 パソコン上のメールだと、削除してしまえばそれっきりだが、現実の紙類の処分、年々億劫になってきて、気がつくとすぐに溜まっていく。それでも昔に比べたら、ポストに届く私信は激減した。 

 紙類といえば、真新しい原稿用紙、レポート用紙が各10冊ずつほどまとめて出てきた。原稿用紙に手書きで書くこともなくなったことを改めて思い知る。パソコンの前はワープロだったしね。 

 あと捨てられないのは、自分の手帳、夢日記、日記メモ風走り書き。字の勢いやそのときの雰囲気まで思い起こされて、結局また「思い出箱」に収めることになる。未練がましいなあ。家人は呆れている。

2009/08/21

韓国エンターテインメント記事

 工事の人が出たり入ったりの忙しない中、気分転換に韓国のサイトを見て、あら驚いた。秋冬のファッションコレクションに集まった女優たちの眉毛が揃いも揃って形がそっくり。色も薄墨色に統一されていた。どう見ても同じメーキャップ・アーチストがやったようにしか思えない。みんな同じような顔立ち。変だな。 

 明日は暑さが戻るらしい。来週は少しマシになって、そうこうするうちに秋になるといい。夏らしい8月ではなかったから、残暑が厳しくないまま、涼風が吹くといいな。日脚もだいぶ部屋の中まで伸びてきたしね。

2009/08/19

公共の乗り物

 先日、JR車内で見た光景。5人は座れるスペースに幼女二人を連れた母親が席を占め、家のリビングにいるみたいにくつろいでいる。車内は適当に混雑していたが、そんなことにはおかまいなしに幼女たちは靴をはいたまま、足底を当方の側に向けてぶらぶらさせたり、座席を汚したり。しかし、母親ははまるで頓着しない(鈍い)。ついに私は母親に、娘たちのお行儀の悪い足元に喚起を促した。 

 当人びっくりして形式的に謝ったが、その後、行儀の悪いアホ娘たちに改善のきざしがみられないまま、下車するときにこの母親、ギロッとこちらをひと睨みする。何が悪かったのか、親子共々てんでわかっていなかった。 

 今日、バスで見た光景。乳母車に幼女を連れて、乳母車と重そうな大袋で通路を占拠し(通路の邪魔にならないようにとか、遠慮がちに置くという配慮がまるで感じられない)、前に娘を後ろに自分が座った。その直後、聞こえてきたのだ。サウンド・オブ・ミュージック英語版の音楽が。周囲の乗客はびっくり。都合3回にわたって車内に鳴り響いた。幼児用英語の教材だね、明らかに。 

 思考力もないのに、英語なんかお勉強して、どうするのか? こういう不行き届きの親子を注意しないバスの運転手さんも問題だと思う。 

 公共の乗り物を我が家のリビング代わりに思って傍若無人の振舞いをする輩は、実は年齢を問わず、後を絶たない。いつからこんなになったのか? ワンマンバスをやめて、昔のように車掌さん乗車のバスに、電車ももう少し乗務員を増やしてはどうだろう。失業対策にもなるし、何よりも安全と快適な公共の乗り物という従来の姿を取り戻せるのではないかと夢想するのだが。

2009/08/15

野球が嫌い、相撲が嫌い

 炎天下の高校野球、昔から大嫌いだった。応援もうるさい、NHKとNHK教育放送との連携放映もうざったい、何よりもそのユニフォーム姿が胡散臭い。そうでなくとも8月は頭がからっぽになるような気がするのに、この上大騒ぎして大切な何かから逃げる気なのだろうかといぶかってしまう。そして9月。また相撲の月だ。うざったい。

2009/08/14

OO検定

 OO検定というのが多過ぎる。検定業者を儲けさせるだけだ。他人に認めてもらわなくとも、自分で知らないことを知り、知ったことを使ってさらに知らないことに挑むということを楽しめばよいものを。もちろん検定を社会的ライセンスとして利用しなければならない人々もいるだろうけど。まっ当方はそんな世間とは無縁のいい年齢に達したということか。ああ楽ちん、いい身分。

2009/08/11

久しぶりね。

 連日、地震に驚き、台風が通り過ぎたことはいいにしても、ヒョンビンはソン・へギョと付き合ってるという話だし、はっきり言って、面白くない。しばし北からの涼しい風に憩うことにしよう。明日は真夏の陽射しか。

2009/07/31

輪島漆塗り

 母が彫った鎌倉彫の手鏡を漆塗りに出していた。昨年の11月に信濃町の漆塗り専門店に持って行ったら、半年はかかりますよと言われた。輪島の漆塗り職人も数が減っている。 

 予定よりだいぶ遅れて「仕上がりました。いい出来です」と葉書が来た。昨日、早速取りに行く。 

 思った以上の仕上がりだ。今は黒漆が勝っているが、使い込むうちに赤漆も出てきて、いい色合いになっていくと言う話だ。乾燥は禁物。天袋など、高い所に入れて保存するのは避けて下さいねと念を押された。 

 japanと言われる漆の技術。高温多湿の土壌で育った世界に誇る技術だ。

2009/07/29

洗濯物は溜まるし

 東京は梅雨明け宣言してからだいぶ経つというのに、雨が降ったり止んだりの曇り空が続いて洗濯物は溜まる一方。3,4日に一度の晴れ間を利用して洗濯しても、その量は半端じゃない。カラッと乾かなくて、いつまでも重たいまんま。なんだかね、この天気。 

 天気図を見ると、朝鮮半島から日本列島にかけて梅雨前線が太くたなびいている。西日本も韓国も集中豪雨による被害がこれまた半端じゃない。亜熱帯地方が雨季に入ったような感じもする。雨季の亜熱帯には行ったことないけど、水上生活する人々の群れを思い浮かべてしまう。 

 これで前線が北上したら、一気に熱帯の日々に突入するのかね。なんだかね。お米の出来も気になるしね。

2009/07/23

神話の国から戻ってきた

 松江、出雲、浜田という島根の町から戻ってきた。飛行機に乗って1時間5分。日本列島をまたいで日本海を見てきた。出雲の神話と出雲風土記、そして日蝕と集中豪雨による被害が一辺に頭上を掠めて去っていったという感じ。不思議の国出雲についてはまた別のところで書きたい。  

 それにしても浜田ののどくろという刺身の美味しかったこと! 地を這っていく距離感から言うと、飛行機でひとっ飛びの沖縄より遠いかもしれない。次にこの魚に会えるのは一体いつのことになるだろうか。

2009/07/18

日本語能力試験2級 

 7月5日の日曜日に行われた日本語能力試験。その2級に知り合いが合格した。昔、その試験問題を見たことがあるが、日本人でも答えるのがむずかしそうな難問が並んでいた。試験嫌いの私としては、生涯お目にかかりたくない試験(もちろん私が日本語を受ける機会は幸いなことにないが)だなあと思った。

 彼女に昨年末ソウルで会ったとき、1級を是非とも受けたいと張り切っていたが、学院の講師から、もう少し我慢してまずは2級を受けるようにと言われていたそうだ。確実に進んだ方がいいタイプなので、さすがに学院の講師はよく見ているなと思った。2級に受かったという報告メールをもらって、本当にうれしかった。来年1級を受ける前に、もう一度韓国のどこかで会いたい。

2009/07/16

児童虐待

 児童虐待の連鎖は断ち切れるのだろうか。例えば、マイケル・ジャクソン。実父から虐待を受けていたことは有名で、自らも自分の子供に虐待を加えていたという容疑がある。虐待を受けた幼児は、障害そのトラウマから抜け出せないで、自分が受けたと同じように自分の子供を同じ運命にしてしまうと聞いた。絶望するしかないのだろうか。何か抜け出す道はないものかと考えてしまう。  

 やはり人は、育てられたようにしか自分の子供を育てられないのかもしれない。生理的早産といい、なんと厄介な代物なんだろうか、人間という存在とは。

2009/07/14

水浸しのアパート

 天気図を見ていると、梅雨前線が朝鮮半島を濃く覆っているのがよくわかる。梅雨の末期的症状と言ったらいいのか、この時期、豪雨が集中する。 

 知り合いは京畿道の某市に暮らしているが、チョンセの価格高騰のせいで、半地下に暮らしている。週末の集中豪雨で部屋が水浸しになったとメールで書いてきた。メールを書けるくらいには復旧したと思われるが、日曜日は一日中水出しと清掃に追われたと泣いていた。 

 このところ、漢江の水位が高いままだ。中州は水に覆われてしまい、あるサイトの情報によるとセブンイレブンが一夜のうちになくなってしまったとか(トレーラー式の移動店だったのか)。  

 11年前も漢江が警戒水域に達したことがあったっけ。これは自然の復讐によるもののように思えてならない。開発、開発のつけが何年にも渡って回ってきたのだ。異常気象を作ったのも人間だということを人は忘れている。

2009/07/13

コンピューターのせいで仕事ができない人が増えた?

 大体どこも蛸壺式なのよね。全体を見回して、今どの位置にどういう風に存在するのかという基本的なことすらわかっちゃいない輩が増えた。問い合わせの電話だって、一つの部署どころか、一つの部門の一つの項目別に分かれていて、それ以外の質問(関連質問でさえ)をすると、対応できなくて、折り返し電話します。となる。

 折り返し電話ほどかったるい代物はない。こっちだって必要があって電話してるわけで、それをまた折り返しやられた日には要件が死んでしまう。全体を見回すコンピューターでも出現すれば、一人や二人また首切られてもしょうがないね。でも本当に必要なのは心ある人間の対応なんだけどね。

2009/07/12

Bag

 私はバッグに目がない。ショルダー、トート型、ボストン、ビジネスバッグ、リュックサックに至るまで、新しいデザインを見つけては、自分に似合うかどうか鏡の前に提げて立ってみないと気がすまない。もちろん、実際に買うのは何年に一度、気に入ったデザインの中のほんの一部に過ぎない。 

 学生時代、ある私鉄沿線の駅ビルにずっと飾ってあったバッグがあった。高価なものだったので、なかなか買い手が現れず、ずっとウィンドウーに飾ってあった。デザイン、機能性は申し分なく、値の張るものでなければ買っていたのにと、今でもそのバッグのことが思い出される。 

 週2回の家庭教師ではとても払いきれる値段ではなく、向こう何ヶ月も教えなければ手にすることのできないそのバッグを見るたびにため息をついていた。早く大学を卒業して、早く一人前に稼いで、自分の納得のいくものを月に一つでも買えるような身分になりたいと、そのことばかりを考えていた。 

 今でもその人の身の丈にあった装飾品とは思えないものを身に着けている女性を見ると、哀れな感じがするのはどうしてだろうか。それはたぶん、身の程を知らないというそのことに対する憐憫の情を催すからかもしれない。黄色い肌に黒い髪の女性にはルイ・ヴィトンは似合わない。八頭身に合わせてデザインされたであろうカバンに引きずられるようにして持ち歩いているつもりなのも見苦しい。

2009/07/10

Taxi

  日本は交通費がやたら高いということで名が知れている。韓国と日本を行ったり来たりしていると、日本の電車、バス、そしてタクシーの殺人的な値段に絶望してしまうほどである。もちろんソウルの交通費はこの12年の間に約2倍から3倍に跳ね上がった。それでも東京のそれと比較すると、比較する必要のないほど、安く、それはもしかすると基本的人権の侵害にも及ぶ話になるかもしれないほどである。  

 ソウルでタクシーに乗るとする。5,000ウォンあれば、目的地に悠々着く。日本円にして約400円足らず。地下鉄の複雑な乗り換えを考えると、2人以上であればいかに安くつくかわかるだろう。地下鉄を厭わなければ一人900ウォン×2=1,800ウォン。これは日本円で二人分150円にも満たない。 

 先日ソウルで会った知り合いの韓国人に言われた。日本でもめている年金問題についてもよく知っている彼が、「よく暴動が起きないですね。韓国だったら考えられない。どうしてそんなにおとなしいんですか? 日本人って」私は言葉もなかった。 

 自分の生存権が脅かされ、日々の馬鹿高い交通費(移動の自由の侵害)にもなんの文句も言わずにひたすらおとなしく生活している日本人って何? 彼が気味悪がるのもしょうがないかもね。

2009/07/06

貴金属を売りに出す。

 昨年の夏、売りに出していたフェンディのサングラスが思いの外高値で売れた。ケースも保証書もあったから、ちょっと前のモデルでも、私にはいいお小遣いになった。コンタクトレンズをやめて、眼鏡に変えたものだから、度のないサングラスの処分に困ったあげく、某リサイクルショップに出品したのだ。  

 すっかり気をよくしたので、いらない貴金属をまとめてその店に持っていった。質屋に持っていくということも考えたが、お金に困っているわけでもないし、最初から使ってくれる人の手に渡るのも悪くないと思い、件の店に出した。

 目利きの聞く担当者が言うには、随分値の張る高価なものばかりだとのこと。デザインも品がいいそうだ。私が買ったものではないし、ネックレスをすれば肩が凝るし、指輪ははめたとたんに外したくなるしで、思い切って持ち込んだ。ただし、実際に買ってくれる人が現れるかどうかはしばらく様子を見ないとわからない。

 それにしても、これらの宝飾品を私に譲ってくれた人は、随分贅沢な人だったということが今さらながらわかった。私も最近、手ごろな値段の癒し系天然石に興味を持ち始めたので、宝飾品の類に全く興味がないわけではない。既にもらっていたいくつかのものも、私好みのデザインにリフォームして身に着けることだってある。 

 でも、持ち重りのする大きなタイプにはほとんど関心がもてない。ほんの小さなものを何気なく着けるのが好きだし、別にダイヤモンドやルビーのような高価なものでなくとも、気に入ったものであれば価値のないものでも大切にしたいと思っている。 

 たとえ何千円のものであっても、買う段になると、私は実に慎重に考えた上で買う。1万円だろうが、数千円だろうが、それだけのお金を稼ぐのがどんなに困難なことであるか、痛いほどよく知っているからである。

2009/07/05

生まれ育った家が今でもある人

 生まれてから、何回転居したかわからない。赤ん坊の時代に少なくとも2回、幼稚園は3回、小学校は4回変わった。高校に入って1回、結婚して2回、都合12回になる。生まれた家は、確か間借りだと聞いた。12回のうち一戸建ては2軒だけ。そのうちの1軒は隣家のドジな主婦のせいで全焼した。持ち家でなかったからよかったようなものの、住む家はいつも仮住まいだった。  

 知人の中にたまにいるよね。生まれて育った家に今も住み続けている人、結婚して出たけど、今もその家が存在する人って。私からすると、まるで宇宙人のように思える。根無し草の私から見ると、いつでも帰っていく家があるってこと、うらやましいような、かったるいような。  

 プラス思考で考えれば、私は世界のどこに行っても適応できるような気がする。根っこがないからタンポポの種のようにフワフワとどこにでも飛んで行って、そこに落ち着くことができるような気がする。根っこのない気安さ、身軽さしか知らないから、安定した住まいという喜びにも関心がない。  

 繊細な感受性と、どこに行っても暮らせるたくましさとの両方を兼ね備えているとしたら、こんなに強いことはないんじゃないか。人は財産でも持ち家でも、あるからそれに固執する。なんて愚かしいことなんだろう。裸で生まれて裸で死んでゆくのにね。

2009/07/03

車の登場で人は堕落した。

 昔はどこへ行くにも歩いていた。Walkingが趣味の私として実感することは、人は歩かないと退化していくばかりだということ。足だけではなく、直結している脳も退化する。
 
 選挙目当てなのか、高速道路料金が安くなった。この不況でも、なぜかマイカーの数は減らない。マイカーを持つ気も持つ予定もないからどうもわからないのだが、マイカーの維持費ってけっこうかかるのではないか。税金、駐車場料金、ガソリン代、その他諸々を併せると、年間どれほどの負担になるのだろうか。  

 子育てのときは車が必須アイテムだと主張する輩がいる。バスだって地下鉄だって走っている。子供が一人だろうが二人だろうが、ゆっくり時間をかけて公共の乗り物に乗せたらいいじゃない。一辺にマイカーで行こうというその根性が安易で浅はかだ。そういう効率最優先の考え方がそのまま子育てに反映し、いつも先へ急げ急げとなる。子供の時代は長いよ。ゆっくりやればいいじゃない。何を他所様の目を気にするのか。 

 年に1度しか顔を出さない親戚の者がこう言う。「家族4人で電車に乗っていくと、交通費がすごいんですよ」首都圏の話である。それも年1回きりでしょうが。そのために二酸化炭素を排出しながら危険なドライブをするわけだね。それ以上にその肥満、車にばかり乗ってるからそうなったとばかりも言えないけど、もうちょっと歩いたらどうなの?と私は言いたいが、年に1回では言う暇もありゃしない。 

 コードの違う人とは話をしないことにしてから、随分経つな。

2009/06/30

昨年の6月。

 昨年のことは忘れてしまったが、東京の梅雨、今年はよく雨が降るね。沖縄は平年より5日早く梅雨明けしたそうだ。  

 昨年の手帳を見てみた。6月は会ったことのない韓国人から2通もEMS(国際特急便)が届いた。一人は教保のブックログの女性、もう一人は私の本の読者の男性。どちらも20代で二人とも日本語の勉強をしていた。  

 来月初めに日本語能力試験が行われるが、彼らは今回2級を受ける。女性の方は大学卒業後勤めていた地元の銀行を止め、それ以降、日本語学習に専念している。男性の方は今年の秋に大学を卒業するので、今就職活動に忙しいのだが、2級の準備もしていると言って私を驚かせた。 

 男性には昨年11月に、女性には12月にソウルで初めて会い、その後も何度か会う機会を持った。メールのやり取りだけで終るかと思っていたら、実際に会って付き合いが始まった。 
 
 能力試験の2級はかなり難しいそうだ。3級から急に高度になると聞いた。最善を尽くして、さらに1級に挑戦し、今後とも日本語の勉強を続けていってほしい。

2009/06/26

JALに対する要望

 韓国で航空チケットを買う場合、一番安いのがJAL。ちなみに、日本で一番安いのがKALだ。もちろん日韓線の話だ。JALもKALもその始まりは、いわゆる国策会社。国の威信をかけた航空業だった。後発会社に比べると、今でもなんかエリート意識がプンプンとしてるよね。 

 韓国滞在中に散々利用していたから、マイレージの関係もあって帰国後も相変わらずJALを利用していた。家人が勝手にJALカードなんかに加入したもんだから、なおのこと利用してポイントを貯めることだけ楽しみにしていたというわけ。 

 でも、よく考えると、日本発は全日空だって、アシアナだって、KALだってある。今までの搭乗経験から言うと、食事がまあまあよかったのが、アシアナ。あとはあまり差がない。でも、JALは最低!と言ってもいいような内容。あんなコンビニでも売ってないようなお粗末な冷たい空弁だったら、ない方がマシというもの。食事よりは温かい飲み物とケーキセットの方がどれほど気が利いているか知れない。 

 客室乗務員、今はアテンダントって言うんだっけ? 納得のいかない高い料金はほとんど、彼女たちの化粧代に消えていっているのではないかと、私は乗り込むたびに彼女たちの顔をじっと観察する。紫外線が入り込むとも思えない機内にしては、厚化粧だね。そして揃いも揃ってアイシャドーの濃いこと。目張りもすごいよ。マスカラも厚く塗りたくっている。昔、エアーホステスと言われた時代の名残りだろうか。 

 早割りに変更が利かないということは承知の上だが、国土交通省の直属優等生らしく、本当に融通の利かないお役所的仕事をする会社だ。  

 利用する側としては、金属疲労した機体はさっさと始末して、安全第一に考え、やけに高い料金でも納得できるような洒落たもてなしをしてほしいということだ。それができないんだったら、料金体系の見直しを求めたい。その方がいいね。洒落たもてなしは望むべくもないからね。

2009/06/25

S君からのメール

 昨日の朝、S君からメールの返事が来た。  

 「(印刷所の)社長は近日中に手術を受けるらしい。無事終ることを祈るしかない」とのこと。悪い予感が当たってしまった。詳しいことはわからないが、とにかく手術が無事終わり、養生して早く元気な社長に戻ってほしい。 
 
 夏の雑誌編集作業は、とりあえず延期にしよう。JALのチケットは早割りを買ってしまったので、変更が利かない。ほかに用事を作ってソウルに行くか、キャンセル料を払うしかない。どうするかもう少し考えてみよう。  

 羽田利用が高い理由は、チャーター便扱いだからだと言う。成田利用の2倍から3倍もする。チャーター便扱いなどにせず、通常便扱いにすればいいだけの話だ。国土交通省のやることは、全く気に入らない。将来、羽田は国際線滑走路が増設されることになっている。いつまでもチャーター便はないだろうに。

2009/06/24

6月12日金曜日 快晴 N社長のこと

 ソウル滞在もあとは土日を残すのみ。初めの2日間にあらかた回ることができたので、気持ちに余裕がある。母もオフィステルライフにすっかり慣れ、そこでずっと暮らしているみたいなどと言って、機嫌がいい。

 今日はN社長に会うことになっている。朝9時に出勤途中、オフィステルに寄って、事務所まで車に乗せて行ってくれると言う話だったが、「朝、病院で検診を受けることになった」とのこと、私たちだけで事務所に行くからと伝えた。  

 このところの社長の健康状態が心配だ。ソウル到着早々、私の携帯の発信が出来なかったのも何か関係があるような気がする。でも、電話の声を聞くと、「心配いらない」と言って、思いの外明るく振舞うのだ。 

 ウルチーロ3街まで地下鉄で行く。約束の時間より早めに着いたので、映画館に敷設されたカフェで社長を待つことにした。やがて元気そうなN社長が登場。モシ(ヨモギ)で作ったお餅を持ってきた。「ぺク病院で毎週金曜日にしか売らないんです。お母さんにと思って」と言って、緑色のお餅を皿に出して、カフェの女の子からナイフを借りて切り分けてくれた。  

 「身体の方は大丈夫なのか」と聞くと、「定期健診ですよ。何も心配する必要はない」と言う。顔を見る限りは元気そうだ。薬の副作用でホルモンバランスが悪くて、年末より少し太った感じだった。事務所に行ったが、夫人の姿は見えない。「教会でお祈りを捧げている」とのこと。やはり心配だ。  

 9月の日程のことや、マックの入力の問題など少し話をしたが、表面をさっと、かするという感じの対応。9月のホテル予約は社長の名前ですぐにしてくれた。近所の行きつけのカフェでお茶を飲む。出されたメシル茶がやけに苦い感じがして、私はひとくち口をつけただけだった。私の舌がおかしいのか、メシル茶自体が変だったのか。社長は終始にこやかなのだが、気力がない。

 「来週、検査の結果が出るけど、たぶん大丈夫だと思う」。でも私は心配だ。 

 帰国後、写真を送ったら、2,3日して「ありがとう」と返事。STESSAカフェの書込みにも、「2006年に手術したときからあった瘤の細胞組織検査の結果が23日には出る。医者も大丈夫だと言っていた。心配しないで」と書いてあった。カフェのメンバー公開の書込みにこんな個人的なことまで書いてもいいのかなと思いはしたが、楽観的に考えていてもいいと言うのだから、まあかまわないかとも思っていた。  

 ところが。昨日、社長関連の書込みが一切削除されていた。結果が悪かったとしか思えない状況だ。そんな状況で、こちらから国際電話をかけて確認するのは気が引けるし、気分も重たい。しばらくほおっておくしかしない。 

 ソウルのS君にその旨メールを送っておいたが、彼からも何の返事もない。彼もきっと社長と連絡が取れない状態なのだろう。最悪の事態を考えておく必要があるかもしれない。でも、再発したとしても、癌は治る病気だ。希望を捨ててはいけない。

2009/06/22

ACEのスーツケース

 以前、このブログでも紹介したが、ACEというカバン製造会社はなかなか良心的だ。小売店の態度の悪さを補うかのように、長年使っていた黒のスーツケースを無料で修理してくれたことは既に書いた。次回スーツケースを買うときは、ACEにしようと決めていた。

 まだ先のことになるが、いずれUSAにも行くことになっている。スーツケースの鍵はUSA特別仕様でなければならないらしいし、四輪駆動のものに慣れると、旧式のスーツケースはいかにも使いにくい。そこで1週間ぐらいの旅用にアメリカにも持っていけるタイプのものを注文した。  

 到着したスーツケースは満足のいく高品質のもので、まず、その軽いのに驚いた。ふたを開けると、リサイクル用の書類が入っていた。

 「お買い上げのお客様の手元にある古いスーツケース」をどこのメーカーでも引き取るというシステムだ。すぐに電話して手続きをとり、その日の午後には30年前に買い求めたサムソナイトの大型スーツケースを取りに来てくれた。引き取り無料である。 

 資本主義社会においては、消費者が企業を育てるという意識が必要だ。その会社の株を持っていなくても、消費者の側もちゃんと勉強して、態度の悪い企業姿勢にNo!と言い、互いに育て合うのが望ましい。優れた会社、企業は最後まで残る。 

 今まで消えていった会社、企業にはそれなりの理由がある。すなわち消費者不在、顧客無視という姿勢が災いしたのだと思う。本来、株式会社というものは株主がその会社を育てるというシステムだったはずだ。いつ頃から、利鞘稼ぎだけを目的にする輩が跳梁跋扈するようになったのか。

2009/06/21

6月11日(木)快晴

          
       北岳山 八角亭より  

 6月にこんな快晴は珍しいとソウルの人々も言った。こちらはもちろん梅雨(チャンマ)には入っていない。梅雨の時期も東京に比べれば、ジトジトといつまでも降る雨ではなく、スコールのようにザッと降って、その翌日は埃っぽい町並みがさっぱりと洗い流され、それはもう爽快な気分になる。 

   母をヒョッチャに預けたので、非常に気が楽。昼間、以前から会うことになっていたブログの隣人のひとり、ニックネーム工場長がオフィステルまで迎えに来てくれた。ブログで大体どんな人物か知っているし、その人の書くものを見れば、その人柄がいやでも出るものだ。

 彼の車で昨日行った北岳山スカイウェイへ。昨日も行ったけど、今日みたいな天気にもう一度見てみたいとお願いしたのだ。昼は大学路(テハンノ)で焼肉定食。彼は、私が昔半年ほど通っていた成均館大学の卒業生だった。専攻は心理学。英語がよく出来るので、今は受験生に英語を教えている。

 恵化(ヘファ)のカフェで、彼はエスプレッソ、私はキャラメルマキヤージュ。ここはギャラリーカフェでその日も小さな展示会があった。店内は広々としていて、すわり心地のいい椅子に座ればゆったりとした時間が過ごせそうだった。カフェのマダムが昔日本に留学して写真の勉強をしていたことがあると言って、工場長が紹介してくれた。とても感じのいい美しい人で、名刺交換をして再会を約した。 

 工場長もアルバイトが入っているので、午後の早い時間に別れた。9月にまたソウルに来たら、そのときはゆっくり話しましょうと言って、またオフィステルまで見送ってもらった。非常に頭の回転の速い好青年だった。

2009/06/19

江川紹子さん

 女性ジャーナリストの質もかなり向上してきたが、その中でも江川紹子さんは優れたジャーナリストだと思う。あのオウム事件のときにテレビに出ずっぱりだったが、命の危険を覚悟して、いつも毅然とした態度で出演していた。女子アナや、女性タレントによく見られるチャラチャラして、薄っぺらなところがない。  

 ソウルへ行くとき、羽田朝8時台の便を使うことが多い。家を5時過ぎに出て、タクシーで向かうのだが、吉田照美の早朝番組に江川さんが出演していて、こんな朝早くからもう活動しているのかと驚いたことがあった。レギュラーらしい。 

 ニュースの読み方みたいなコーナーで、吉田照美が次々に発する質問に対して、実にわかりやすい言葉でコメントしているのだ。飄々とした雰囲気の吉田と、冷静で適切な解説をする江川のコンビは聞いていて気分がよかった。 

 こんな世の中、力入れて感情たっぷりにやられても疲れるだけだし、自分が本当に考えて発する言葉というものは、聴いている者にとってさわやかな印象を与えるのではないかと思った。

2009/06/17

6月10日(水)うすぐもり、風強し

 2日間のソウル踏査が無事済み、今日から母はヒョッチャの家に一泊することになっている。2001年にヒョッチャが東京に来たとき、母の家に3日ほど泊まったことがある。8年ぶりに会った二人はうれしくて小躍りしていた。牧師さんの運転で、オフィステルから仁寺洞に向かう。日本語を勉強していたことのあるヒョッチャだったが、普段使わないから片言の怪しい日本語しか出ない。覚悟はしていたものの、昨日、一昨日に引き続き、私はほぼ同時通訳に徹する。

 通訳も初めのうちは和やかな気分でやっている。おしゃべりが弾むと、通訳はしだいにその存在が無視され、食事の時など、食べることに集中できなくなる。最初は通訳の存在をありがたがっていた当人たちも、それが当然のことになって、やたらペラペラ話すのだ。仕事でもあるまいに、だんだん私は二人の王女に仕える召使のような気分になっていく。「食事の時ぐらい黙っててちょうだい」。そう言っても関係者はみな笑うばかり。  

 北岳山スカイウェイを通って、八角亭に上る。生憎の天候で、せっかくのソウル大パノラマも雲と靄に包まれてソウル周辺の山は霞の中。それでも母は初めて見る景色に大興奮。  ヒョッチャのご両親、私の息子同然のウォニも一緒に全部で8人、近所のすき焼き屋で夕餉を囲む。8時から礼拝があると言うので、私たちは母を託して、マウルボスと地下鉄を乗り継いで麻浦まで戻った。大きな娘を預けて、気分爽快になった。

2009/06/16

あら、東京は入梅してたのね。

 大陸と島国の湿度の違いについていまだに驚いてしまう。爽快なソウルから湿度70%以上の東京に着くと、まず木々の緑の深いこと、こんもりしていることに目が奪われる。そして皮膚感覚。梅雨に入って、気温がさほど高くないからまだ我慢できるけど、じとじと、じめじめはいかんともしがたい。TVでは盛んにカビ防止、食中毒予防策を報じている。 

 梅雨には梅雨の楽しみ方があるように思う。洗濯物は乾かないし、空気は淀んだ感じになるけど、しばらくはRainy Seasonを楽しむしかない。 

 それにしても、厚生省に女性局長が一人しかいなかったんだね。福祉、介護の分野も担当するお役所に女性局長が一人とは。ちなみに公務員30万人のうち、局長の数は全部で100人。そのうち女性はたったの2人だそうです。 

 官僚制は腐敗するしかないというマックス・ウェーバーの主張を今さらながらかみしめる。

2009/06/15

成田は遠い。

 昨夜、帰国したんだけど、いや~、成田は遠いわ。3時過ぎに着いてリムジン使って、電車に乗り換えて帰宅したら6時過ぎよ。もう一度成田を発ってソウルまで行ってしまえるよ。何をか況や。

  仁川空港が世界一のサービスと収益を上げているのもむべなるかな。ソウル中心部まで1時間くらいしかかからないし、リムジンバスはソウルの隅々まで快適に行き渡っている。値段だって9,000ウォン。日本円にして750円!日本はその4倍近くするんだから、韓国人の言うように殺人的な高さと言ってもいいね。このままだと、成田はたぶん衰退するだろう。ハブ空港として上昇気流に乗っている仁川には追いつけないね。 

 かと言って羽田を利用しようとすれば、航空運賃がべらぼうに高くなる。成田利用の倍以上かかるのよ。需要が多けりゃ、値段下げるべきでしょうが。ハルマリオッタ、チョンマル。

2009/06/10

6月9日(火) くもり時々小雨

 予報通り雨模様だが、気温が低め(日中が21℃ぐらい)なので母にはいいかもしれない。10時前に李さん到着。彼は盆唐(ぶんだん)の方から市内まで来てくれるので、車で1時間半近くはかかる。2日目の踏査は徳寿宮(とくすぐん)から始まった。  

 大漢門の前には、TVのニュースで見た通り、盧武鉉前大統領の分霊場がしつらえてあって、女性国会議員や盧武鉉支持者がテントを張って、49日まで(たぶん7月10日あたりか)ここで故人の霊を慰めている。私も記帳してお参りさせてもらった。お参りの仕方がわからないので、李さんに教えてもらいながらお祈りした。遺影を前にすると、本当に惜しい人を亡くしたという思いが湧き上がった。

  徳寿宮は昨年の11月、紅葉の季節に来て以来だが、緑したたるこの季節も気持ちがいい。母は幼いときにしょっちゅう遊びに来ていたので、童心に帰ったように顔をほころばせている。パスポートを提示して65歳以上無料で入れてもらった。

  旧京城第一高女跡地へ。徳寿宮の塀沿いに歩く。貞洞のあたりは、裁判所、市立美術館、救世軍本部(1928年創立)、アメリカ大使館、ロシア大使館などが並んでいる。母が卒業した女子校跡は移動派出所の車が留まっているだけで、あとは昔の校庭にえんじゅの大木が1本あるだけだ。門の鉄扉は閉まり、時折警察関係の車両が出るときだけ、門が開き、すぐに閉じられる。部外者が入る雰囲気ではない。鉄扉の隙間からえんじゅの木を撮影したが、扉が邪魔で全体は撮れなかった。李さんの話では、この跡地は本来徳寿宮の敷地内にあって、解放後はソウル市から米軍に渡ったが、今は警察の管理に置かれ、この先何に転用されるのか決まっていないという。  

 京城中学は、建物は撤去されたが、その敷地はソウル市立歴史博物館に生まれ変わった。2002年のワールド・カップ開催の年だ。ここはソウルの昔と今の歴史がパノラマや地図、史料、植民地当時ゆかりの品々を見ることでわかりやすく展示されているのだが、けっこう規模が大きくて、江戸東京博物館のことを思い出した。 

 明洞。昔の明治町。6月5日に植民地当時あった明治座が明洞芸術劇場としてリニューアルした。母は、ここで映画を見に行った記憶があるそうだが、今は演劇専門の劇場になっている。TVでおなじみのベテラン俳優が出演しているお芝居もかかっている。次回、機会があったらぜひ見てみたい。  

 明洞聖堂。当時は小高い丘の上の聖堂がこのあたりでも一番高い建物だった。けっこう急な坂道を上って、私たちは初めて聖堂の中に入ってみた。シスターや一般の信者が静かに祈りを捧げていた。  

 お昼は明洞餃子の店。マンドゥとコンククスなどを食べた。昼時で行列が途切れることがない。お店の人が手際よく案内してくれて、すぐにテーブルにつけた。

  明洞までたっぷり見物できて母は満足そうだ。今日はこれでお開き。母をいったんオフィステルに送って、私たちだけソウル歴史博物館に連れて行ってもらう。  

 夜は東北アジア研究所の研究員、李さんの先輩女史も一緒に母を交えて楽しい夕餉を囲んだ。日本に10年留学していた人や、日本語ぺらぺらの人が加わったので、気が楽だ。慣れない通訳で少々疲れが溜まっていたのかもしれない。日本語がありがたかった。 

 今日で李さんともお別れだ。母は感謝の気持ちをどう表していいかわからないと言って、頭を下げていた。今後とも李さんにはお世話になる機会が増えるだろう。晋州で初めて会って引き続き雑誌を通して交友が続いていたことに感謝したい。  

2009/06/09

6月8日(月) 晴れ

 朝9時半きっかりに李さんがオフィステルの前に現れた。車はクライスラーの黒。お父さんの車だとか。車内は手入れがよく行き届いていた。乗り心地は満点。運転も上手だ。  一路景福宮へ。空は晴れ上がり、暑くなりそうだったが、湿度が低いので吹く風もさわやか。母も慣れ親しんだソウルの風土の中で元気一杯に見える。王宮の復元は完成に近づいていた。植民地時代の朝鮮総督府の跡地には本来通り王宮が再生され、鮮やかな色に縁取られた朝鮮王朝独特の瓦屋根が6月の空の下で輝いていた。  

 次は、母が最後に暮らしていた町へ。青瓦台に向かう一直線の道を辿った先にある新橋洞(昔、新橋町しんきょうちょうと呼んでいた)だ。セコムのプレートが貼り付けられたお金持ちの家が並ぶ。その一角に母が暮らしていた2軒長屋もあった。  

 14年前まではそのまま残っていたが、さすがに今は取り壊され、囲いがしてある。そのうち何か建つのだろう。母はすっかりしょげてしまったようだ。急な石段を上って、当時の通学路まで行ってみるかと聞いても、弱々しく首を振るだけ。石段の前で記念写真を撮る。

  その家はもう70年以上前に移り住んだ日本式家屋で、母の頭の隅にいつまでも残っていたのだろう。近くにある盲学校の前の銀杏の大木はそのままだった。この木はいつまでもありますように。  

 北村(プクチョン)の高級韓式の食堂へ。メニューを眺めていた李さんが「高いなあ」とつぶやいた。小食の母にも食べられそうなキノコのスープもあって、私も同じものを注文。香りがよくて、のどが温まって本当においしかった。副菜も味がよかった。隣の部屋は椅子式になっていて、ワイングラスがたくさんぶら下がっていた。次回はここでゆっくりワインでも楽しみたいね。  

 昔の京畿中学跡地へ。建物はそのままに図書館に生まれ変わっている。学校自体は江南の方へ引っ越したそうだ。当時の建物は、今見ても重厚な感じでどこか趣がある。平日だというのに学生がたくさん来ていた。夏休み前の期末考査の時期だから、そうなのか。  

 ソウル教育資料館へ。朝鮮時代から近現代にかけての学校生活を再現してある。植民地時代や解放後の教科書、表彰状、学校のバッチなどが並んでいた。母も私たちも李さんも育った時代は違っても、木の机や椅子、黒板、掃除用具、週番の腕章、制服や、学校行事(運動会、遠足)に使われた品々などを懐かしく見た。 

 李さんは72年生まれだが、彼の時代の学校生活と私たちのそれとは思いの外ギャップがないのだ。解放後も植民地時代の残滓が韓国社会のあちこちにこびりついていて、親子ほども違う李さんの世代でも、私たちとさして変わりない学校生活を過ごしていたことがよくわかった。 

 母が朝からの見物で疲れてきた様子なので、カフェに入ってゆっくり休んだ。この日の踏査(タプサ)はこれでお開きに。明日もあるので無理をさせないことにした。母をオフィステルに送り、私たちだけ再び李さんと出かけた。行き先は西大門の刑務所跡。ここの博物館は一度は行ってみようと思っていたのだが、月曜日なので休館。外から写真を撮り、李さんの解説に耳を傾ける。彼の韓国語はとてもわかりやすく、私もしゃべることにも次第に慣れてきて、言いたいことを何とか韓国語で伝えられるようになった。 
 
 明日も午前中と午後少しだけ踏査をして、母を一度オフィステルに戻して昼寝する時間を設けることにした。夜は別の人も交えて、皆でゆっくり夕食を取りたいと思う。  

 李さん、今日は本当にお疲れ様でした。

2009/06/08

6月7日日曜日、晴れ。携帯の発信が出来ない?!

 久しぶりの仁川空港だった。羽田-金浦が便利なのだが適当な時間帯がなくて、今回は成田-仁川にした。飛行機代は羽田利用より2分の1近く安くなる。羽田路線がいかに儲けているかと思うと、ちょっと腹が立つ。  

 夕方、仁川に到着。リムジンバスを利用。母は窓に顔をくっつけて景色に見入っている。子供時代に海水浴に来たことのある仁川だと言って、もうそれだけで涙ぐむ始末。「今浦島だわ」と言って、見慣れない景色に圧倒されている。残念なのは、ソウルの空が大気汚染で赤茶けていることだ。  

 リムジンバスに乗り込んでしばらくすると、ヒョッチャから電話入る。うれしくて大声で話していたら、近くの中国人観光客からにらまれてしまった。 

 麻浦のオフィステルに着き、月火と案内してくれることになっている李さんに連絡を入れてみる。ところが...な、なんと「あなたの携帯からは発信が出来ません」とのアナウンス。もう一度落ち着いて聞いてみたら、「料金未納のため、発信は出来ない。業務は朝9時から夜7時まで。ただし、日曜日はお休み」と言っている。なんてこった。すぐにオフィステルの電話機でN社長の携帯に電話してみるも、出ない。一体どうなっているんだ?  

 さっきリムジンでヒョッチャから電話がなかったら受信できることに気がつかなかったかもしれない。もうこうなったら今夜は必要な人だけにオフィステルの電話で連絡するしかない。李さんにその旨伝えて、受信可能かどうか、もう一度確認の電話をもらった。  

 N社長には、不満たっぷりの声でメッセージを残しておいた。このところ、彼にメールを送っても一切音沙汰なしだ。大切なメールのときは、「メール送ったんですけど」と国際電話で知らせたこともあった。彼がマネージャーを買って出たカフェにもお知らせ事項を掲載しておいたが、何の反応もなし。何かあったのだろうか?  N社長とはどうもタイミングが悪いことが多い。人生、タイミングだ。ほかに何があるというのだろう。タイミングを逸したら、その気があってもすべて「おじゃん」である。いつからいつまでソウルに行くから、携帯の停止を解除しておくようにと頼んでいても、ちゃんとやっておいてくれたことの方が少なかった。今回は携帯の新しい契約で2年間は停止にできない。だから韓国に行けば、スイッチをオンにしさえすれば、いつでも意のままに使えて便利だった。それなのに発信が出来ないとは。  

 そうこうするうちに社長からオフィステルに電話が来る。元気のない声だ。発信については月曜日に解決させるとのこと。彼は定期検診を火曜日に控えて、最近はずっと別荘の方にいたらしい。メールを送っても、詮ないことだったのだ。「ソウル訪問日程はどうなっているのか」と言うので、日程についてはかなり前にメールを送っておいたはずなのにと私は不満気に言ったが、身体の調子がイマイチのようなのであまり強くも言えない。元気いっぱいのN社長の声がこんなに気弱に聞こえるなんて、尋常ではない。

  「火曜日さえ終わったら、いつでも会える」と言ってくれたが、私は当初の予定通り「金曜日に会いましょう」と言った。検査の結果は来週出るとのこと。健康なら何も望まない。それ以外のことは実は大した問題ではないのだ。

2009/06/06

明日から半年ぶりにソウルへ。

 雨がよく降るね。でも緑が瑞々しくていいね。さて明日からのソウル。天気はどうだろ。こちらより湿度が低いことはわかっていても、この時期のソウルは2007年以来だからピンとこない。一昨年は暑かった。すでにあちこちクーラーが入っていた。東京の感覚だと、クーラーはまだ早いんじゃないの?と思ったが、人々の服装はすでに夏だった。クーラー対策に羽織るものと、レインコートは入れなきゃね。  

 今回の目玉はソウル踏査(タプサ)だ。高齢の母のために車であちこち回りましょうと知り合いが言ってくれて本当に助かる。今までは全部歩いて経巡っていたし、地下鉄では景色が見えないものね。昨日5日は明洞に劇場が復活した。植民地時代に「明治座」と呼ばれていた映画館が今回新たに「明洞芸術劇場」として復活したのだ。  

 ソウルの再開発はすごい勢いで進んでいるが、植民地時代に建てられた建造物は頑丈だからか、旧朝鮮銀行は貨幣博物館になり、京城府民館はいまだにソウル市議会会議場として使われている。市内中心部に残っていた日本家屋は崩壊の一途を辿っている。母が卒業した今の京畿女子高(昔の京城第一高女)は、昨年の11月に行って見たところ、跡地はそのまま残って米軍関係の車両が留まっていた。100年を超えたエンジュの大木が倒されたという噂も聞いたが、さてどうなっているか。

 ヒョッチャの家にも母だけ一泊させることになっている。ヒョッチャが東京に来たとき、母のアパートに泊まったことがあるのだ。母と同年代のお父さんとの対面もある。このお父さんは戦前、故郷から突然日本に連れていかれて北海道で労働させられた人だ。日本語を今でも上手に話される。12年前、私たちのために通訳を買って出て下さったり、ハングルで書かれた聖書の一説を日本語で翻訳して私に解説して下さったこともあった。  

 「日本を恨んでいませんよ。日本に行ったとき、女の人に可愛がられたし、楽しいこともたくさんあった」と言われ、こちらはびっくり恐縮するばかりだった。解放後は軍人から伝道師に転職し、敬虔なクリスチャンだったヒョッチャのお母さんともども教会に身を捧げている。帽子のよく似合うお洒落な方だ。 

 「あなたのお母さんも引揚げで苦労なさったでしょう。私も韓国に戻るとき大変な目に遭いましたからね」そう言われたときは、言葉もなかった。母にこのことを伝えると涙ぐんだ。 

 日程は余裕をもって設定した。母を預かってもらっているうちにブログの仲間と会ったり、例のN社長に会って8月の雑誌製作スケジュールを詰めたりと、ついでにやることはそれなりにある。前もって会うと約束している人は2名だが、まだ余裕が出来るようであれば、緊急招集すればいい。6月は大学も夏休みに入る。突然の電話でも都合がつけば会いに来てくれるだろうし、駄目なら次回にすればいい。携帯に保存された電話番号は増加の一途を辿っているが、「この人、誰だっけ?」と、そのままにしている人々もいる。やがて自然淘汰されていくだろう。必要な人はいつだって私を助けてくれる。

2009/06/02

傲慢な人間

 自殺する人の大半は病気だ。人間は本来、生存意欲というものが遺伝子の中にあらかじめインプットされて生きている。誰も死んでみたことがないから死に対する恐怖がある。生きているときはあまり死を意識しないで、日々の瑣末的なことに追われて生きている。  

 それでも死は生と隣り合わせにある。よく生きることは、よく死んでいくことだ。「死にたい」は 実は「よく生きたい」という欲求の裏返しだ。よく生きられないから死んでしまいたい、いっそ死んだら楽だろうなどと考えるのだ。 

 ウツ病にかかったら、昔なら死んでしまうしかなかった。バージニア・ウルフも深刻なウツ病で結局自殺した。絶望という死に至る病は、簡単には治せない。でも現代は医学が多少なりとも発達して、対処療法であるにしても、死んでしまいたいという思いを緩和させるようにはなった。それでも人間の脳に関してはわからないこと、わかっていないことが多過ぎる。原因がわからないから対処療法しかないのだ。 

 強大なエネルギーを発揮しなければならない政治家は、どこか無神経にならないとやっていけないのかもしれない。でもたまにノムヒョンのように良心的で繊細な神経の持ち主もいる。もう少し家族や社会が死に至る病に関して理解していたなら、彼は助かっただろう。  

 「明日、病院に連れていこうとした矢先に自殺されてしまったという家族を今まで何人見たか知れない」という精神科医の言葉は重たい。「頑張れ」とか、「病は気から」、「甘えているのよ」などと利いた風なことを言う輩が後を絶たないが、人間が一体どこまで自分をコントロールできると思っているのだろうか。それは、あまりにも傲慢な考え方だと思う。 
 
 虚栄心や無知によって、多くの助かる命が失われていく。

2009/05/31

ノムヒョンの悲劇

 手っ取り早く言えば、彼は早く生まれ過ぎたのかもしれない。社会を先導する者にありがちなことだが、大衆の先を行き過ぎていて、大衆はその彼に過大な期待をし過ぎて、自らを葬らせてしまったという感じがしてしかたない。   

 私の留学時代はそのままノムヒョン政権と重なる。既成の政治家には見られない先見的な感じのする彼が大統領に就任したものの、社会的基盤さえまともに構築されていないのだから、やるべきことは山積みだった。在任中、ノムヒョンには失望したという声を私は何度となく聞いたものだ。  

 軍事政権が終わり、形式的には1992年に初めての文民大統領が出たといっても、解放から47年、それまでの道のりを考えると、人々の意識はおいそれとは変わらない。誰もが食べて生きていくのに精一杯だった。

 永訣式に臨んだ人々の様子を映像で見る限り、失ってみて、改めて思い知ったノムヒョンの存在感に打ちひしがれているという感じだ。1988年に釜山から立候補して国会議員になるときの演説は、「とにかく誰もが安心して食べていける世の中を作りたい」というものだった。その年はソウルオリンピックが開かれた年だが、実態はオリンピックどころではなかったのだ。  

 白いお米を何不自由なく食べていけるようになったのは、それほど昔のことではないということ。これは隣の国の人間として銘記すべきことのように思える。

2009/05/30

KBS On lineで見たノムヒョン前大統領永訣式

 夜明けに生まれ故郷を出発して、ソウルの景福宮(キョンボックン)に到着したのが、午前11時。ノムヒョン政権時代の首相経験者であるハンミョンスク女史の弔辞に心を打たれた。彼を失ってしまった悲しみと悔しさ、そして思いやりに満ち溢れていた。 

 ソウル広場での一般国民とのお別れ。招魂の儀式、詩人による自作詩の朗読、舞踊とパンソリなど、韓国特有の風俗と文化を垣間見た。詩人アンドヒョンによる詩が正直に真情を吐露していたようで印象的だった。「コマウォヨ、ミアネヨ、イロナヨ」(ありがとう、ごめんなさい、起き上がって(ノムヒョン))という3つの言葉に、ノムヒョンの死を悼む気持ちが簡潔に表されていた。 

 その後の様子は長時間に及ぶので見なかったが、水原(スウォン)で火葬され、遺骨を首から提げた息子の様子は憔悴しきっていた。そして遥か故郷への道を目指したのだろう。 

 ソウル広場に集まった群衆は20万人とも30万人とも言われる。全国で焼香した人々は300万を超えるそうだ。故郷からソウルに向かう沿道には人々の群れや車が数珠繋ぎになって、故人を悼み、偲ぶ気持ちが果てるということがないように見えた。 

 外国の政治家が亡くなってこれほど心が痛くなったことは私も初めてだった。

2009/05/29

感受性の問題

 電車に乗るたびに不愉快な思いをする。ファッションはその人の好きに自由にしてもいいにしたって、TPOをわきまえないと、みっともないことになる。女子高生の改造制服(超ミニスカートにして、太ももを露にする、特に冬場は見ているだけで寒くなる)、下着と見紛う猥褻としか言いようのない女の子の服装(とてもレディには見えない。年齢はけっこう行っていても、女の子と形容するしかない)などを見せ付けられると、不愉快極まりない。なぜこちらばかりがこんな思いをしなくちゃならないのか。 

 
 見なきゃいいのだが、電車内は公共の場。破廉恥なスタイルで乗り込んで来れば、見ちゃうでしょうが。昨日もそうだった。某私鉄電車。この私鉄はホームも終日禁煙になって久しいが、地下駅から乗り込んできた女の子。タバコの匂いをさせて乗り込んできたのよね。そのみっともない服装に普段吸っているらしいタバコの匂いがこびりついていたと見えて、雨模様の高湿度の中、匂うこと。  

 そのスタイルは、ホットパンツに黒いストッキング+フリフリのガーターベルト。車内のおじさんたちは一斉に彼女の方に視線を投げていた。乗り込んで私の隣に座っている間中、携帯を覗き込んでいるんだよね。横顔を見ると、まあすごい厚化粧。 
 
 ファッションはその人自身だ。他人のライフスタイルをうるさく言うつもりは毛頭ないけど、公然猥褻罪、すなわち、本来なら人前をはばかるべき物事をおおっぴらに行うことに対する罪で訴えたいぐらいだったね。  

 最近は女子大生とキャバクラ嬢、風俗勤務の女性の区別がほとんど出来なくなりました。

2009/05/28

呆れてものが言えない。

 ノムヒョン前大統領の死を巡って、あっと驚く事実が次々に明らかにされている。なんと、岩山から身を投げたときに、警護員がそばにいなかったというのだ。青瓦台からの命令で配属された45歳の警護員の陳述が二転三転した。本当に21世紀の話なのかと、疑いの目を持たざるを得ない。

 警察の取調べ、与野党の応酬、ノサモ(ノムヒョンの親衛隊というか、ファンクラブとでも言おうか)の人々による強硬な姿勢、そして、自分たちが直接選んだにもかかわらず、2MB(イミョンバク)総スカンの国民大合唱。そして、すでにこの世にいないノムヒョンに対する思慕と伝説化がものすごい勢いで突き進んでいる。 

 移民を本気で考え始めたという人もいれば、失望して毎日ソジュを飲む若い会社員、一体何を信じて生きていけばよいのかと落胆する若者、このところの一連の騒ぎを一切無視する人、こんな混乱、今に始まったことではないと驚かない振りをする人など、反応は人さまざまであるけれど、それにしてもねぇと、お隣の国のことと突き放して考えられない者としては、ため息をつくしかない。

2009/05/26

北朝鮮では地下核実験するし。

 朝鮮半島はもうメチャクチャだ。何でもありのカオス状態だ。  

 イデオロギーは違っても、北朝鮮も韓国も本当の意味での言論の自由がない。このところのノムヒョン騒動を見ていると、韓国という国が「インターネット劇場」と化しているという感がして仕方ない。世界一のインターネット大国は、数だけ世界一かもしれないが、その実態は非常に質が悪い。  

 一体韓国に本当の意味の健全なジャーナリズムがあるのか、大いに疑問だ。その国の成熟度はその国のジャーナリズムを見ればよくわかる。いくら経済的に奇跡の発展を遂げたと言っても、その中身はちっとも成熟していない。 

 韓国は噂社会だ。こういう印象を持ってかなり経つが、その思いはますます強くなるばかりだ。正当な手続きを経て、コツコツと取材して記事にするというジャーナリストの基本も身に着けていない連中が多すぎる。
  
 インターネットによって登場、支持されたノムヒョンは、パソコンに遺言を残したまま、絶望して自ら命を絶った。こんな象徴的なことがあるだろうか。

2009/05/24

なぜ政治家の家族はお金にルーズなのか?

ノムヒョン氏の遺書 

   衝撃的なノムヒョンの死は、どうやら自殺だったという結論が出たようだ。本人のコンピューターに残された遺書を読むと、かなり深刻なウツ状態だったことがよくわかる。なぜ、家族や側近は病院に連れていかなかったのか。執務室に閉じこもりっきりでいたらしいが、4月30日に検察の取調べでソウルに行くときの弱々しい表情が妙に印象的だったことを思い出すと、そのウツ状態はかなり前から進行していたと思われる。 

 夜明けに登山に行き、朝7時前に岩山から身を投げたようだが、夜明けや朝方はウツの状態が最も深刻さを増す時間帯だ。なぜもう少し配慮しなかったのか。ノムヒョンのような政治家は後にも先にももう出ないだろう。正義感の塊のような人物で、日本の政治屋には見られない高い志の持ち主でもあった。

 そして思うのだ。なぜ政治家の家族はお金にルーズになるのだろうか。今回の収賄容疑も、たぶん、本人はお金をもらっておらず、兄弟、夫人、子供たちがノムヒョンの預かり知らないうちにお金を得ていたと想像される。不徳の致すところだと言えばそれまでだが、金泳三も金大中も結局、親族がお金を受け取って問題を起こした。 

 大統領はこの上ない権限を持つから、人々が群れるのは仕方ないことだろう。ノムヒョンも前の轍を踏まないように、娘や息子をわざわざ遠ざけるために国外に送っていたのに、その国外で莫大なお金を手にしていたという話だ。ノムヒョンの心情は察するに余りある。その無念さは計り知れない。高い志も、一番身近な家族によって汚されてしまったということだ。 
 
 韓国はこれからどうなるのだろう。6月にソウルに行く頃は政治的にかなり荒れているのではないかと思う。ノムヒョンを慕う人々による現政権への非難が強まるばかりだろうし、そうでなくとも、最近、労働争議が頻発している。2MB側がどう出るか。 2MB OUTの声が高まるばかりだろう。

2009/05/23

ノムヒョン前大統領が死亡した。

 さっき偶然、インターネットのニュース速報が入ったのだが、なんと、あのノムヒョン前大統領が亡くなったそうだ。朝、登山中に事故に遭ったらしいが、自殺の可能性もあるとの報道だ。転落事故だと思いたい。詳しいことはこれからわかるだろう。もう二度とあの姿に会えないのかと思うと、胸が痛い。金海からソウルに連れて行かれた、ちょうどその日、私たちも金海にいたので、なおのこと切なさが募る。思いがけないニュースに言葉もない。

2009/05/21

なんだかなあ。

 6月に母を連れてソウルに行く。母はなんと14年ぶりのソウルだ。私たちがソウルにいたときも、私が晋州で留学していたときも再三来るように行っていたのに、身体の調子や、家族の不幸が重なって、とうとうその機会を逸していた。 

 インフルエンザ騒動もなんだかかまびすしい。日本人はよほどマスクが好きなんだねと、韓国のブログ仲間は不思議がっている。関西に続いて東京でも患者が出た模様だが、これはアメリカから帰国した高校生だった。  

 インフルエンザとしては、通常とさして変わりない弱毒性のものらしい。いっそのこと蔓延して、全員抗体を持ってしまった方がいいのでは?などと思ったりする。ワクチン作製も予定より遅れるらしい。いずれにしても6月の成田と仁川での検疫、検査で待たされるかと思うと、気が重い。 

 教保文庫のブックログのコメント、ポスティングが突然出来なくなった。コメントを書こうにも、更新するにもいちいち「本人確認」の窓が開くようになった。韓国在住の外国人の欄はあっても、外国在住者の欄がない。基本的に韓国国内だけを見ているわけね。本人確認云々は、あくどい書込みを封じ込めるためのもので、最近急にうるさく言うようになった。教保は、昨日5月20日から突然、この窓が開くようになって、ちょっとびっくりした。 

 現政権の思惑も多分にあるのではないか。あのYou Tubeが原則として匿名で書けることに対して、韓国側が難色を示し、結局、You Tubeは韓国を除外処分にしたという話をだいぶ前に聞いた。匿名性を認める言論の自由を駄目だと言う韓国の了見の狭さに、韓国社会の問題点がモロ出ている。世界一のインターネット王国である韓国が自ら自分の首を絞めているのではないかとも思える。

 李ミョンバク政権が言論統制の方向に向かっているのは確かだ。教保は昔から融通の利かない所だという認識があるので、別に驚かないが、独占に近い形で韓国のある種のエリート層を抱え込んでいるだけでは、先がないように思う。結果として、外国人排斥のようなことをされたのだから、当分気分の悪い日々を過ごさねばならない。なんだかなあ。

2009/05/19

アイス・ワイン

 光州へ行ったとき、知人の家でアイス・ワインなるものを振舞われた。なんでも氷結した葡萄から偶然作られるようになった代物で、値段も割高だ。ビンのデザインが華奢でおしゃれだ。  

 帰国して酒屋を何軒か回ったが、どこにもアイス・ワインは置いてない。恵比寿の三越にもなかった。ところが、先日松本に行ったら、イトーヨーカ堂にあったのだ。別のスーパーにも何気なく置いてあった。 

 松本という所は面白い。東京で見つからない物が案外簡単に見つけられるからだ。以前、カゴメのラグベジという、石榴の入ったジュースを松本で見つけたことがある。おいしかったので東京でも探してみようとしたが、いまだに売られている所を見たことがない。カゴメのホームページには確かに載っていて、インターネットショッピングで手に入れるしかない。  

 松本はもしかしたら、新商品の反応を試す地域になっているのかもしれない。確かに新し物好きがたくさんいる。観光以外にさして産業のない地域だが、都会より鋭く反応するような気がする。アンテナ・ショップならぬ、アンテナ都市だったりして。  

 とにかくアイス・ワインが松本で普通に販売されていたことは特筆すべきことだった。

2009/05/15

ヒスンさんからのメール

 ヒスンさんのことを覚えている人がいるだろうか。楽天で書いていたとき、晋州時代の友人としてよく登場していた女性だ。小学校のベテラン教師で、敬虔なクリスチャン。私が2年間暮らしたワンルーム・アパートに程近い所に暮らしていたので、週に1度は会っていた。保証人の先生の奥さんが同僚の彼女をわざわざ紹介してくれたのだ。 

 晋州を去るとき、彼女は巨済島に引っ越していたので、会うのはむずかしかったが、たまたま実家に戻ったときに連絡が入り、ワンルームまで顔を見に来てくれた。私も病気ですっかり元気を失くし、彼女も巨済島での生活がつらいと言って、二人でため息をつき、玄関でしばらく抱き合って別れを惜しんだ。  

 その後、メールのやり取りをするでもなく、韓国に行くたびに彼女のことを思い出していたが、電話もせずにそのままにしていた。昨日、そのヒスンさんからメールが来た。筆不精の彼女からメールが来るなんて、ちっとも期待していなかった。光州から釜山に戻るとき、途中ワンルームのある町を通過して、涙が出そうになったが、ヒスンさんもあの町にはもういないしなあと思ったりした。 

 彼女のメール。「晋州に戻ったのよ。上の娘も地元の高校の2年生、下の息子は中学生になった。あなたのことは以前ブログで知っていたけど、コンピューターの調子が悪いまま、アドレスもどこかへ行っちゃって。元気なんでしょ? とにかくメール下さい」とあった。慣れない巨済島を去って、故郷の晋州に戻ってきたんだ。本当によかったね。子供たちもいつのまに大きくなったんだろう。そうだね、あれから4年経ったんだね。 

 あの光州行きがなんだか呼び水のようになって、またヒスンさんに会えたような気がする。不思議な気分だ。6月に韓国に行ったら、電話してみよう。私は早速長い返事を出した。

2009/05/11

釜山 海雲台のチンチルパン

by Nikon Coolpix / 25 April 2009 / 해운대 찜질방에서

 5年ぶりに再会したヨンミさんはサービス精神に溢れた人だ。5年前に釜山で会ったときも車であちこち連れて行ってくれた。昼食の後、梵魚寺(ポモサ)、海雲台、彼女が勤務する小学校などを見物して、海岸沿いにある映画館でヴィム・ベンダースの映画を見て、夕食は彼女の同好会の仲間たちと一緒に海の見えるレストランで会食した。昼前に高速バスターミナルで会ってから、再びバスターミナルで別れたときは11時近かった。フルコースの歓待を受けて、晋州行きの最終バスに乗った私は疲労困憊して泣きたいぐらいだった。

 そのときの体験があるので、ヨンミさんのペースに唯々諾々としていると、疲れ果てるに決まっている。夕べは雨の中、ホテルまで送ってもらった。今日は午後、テグに向かえばいいのだから、午前中は少しゆっくりしたいと申し出た。彼女の心積もりでは、郊外のお寺に行って、写真を撮ったり、東洋一と言われる釜山のショッピングモールに行ってお昼を食べたり、教保も覗いてみようということだったらしいが、お寺は次の機会にして、海の見えるサウナでのんびり過ごしたいと言った。

 釜山駅まで家人を送り、駅の駐車場でヨンミさんを待った。家人は一足先にテグに行って、学会発表のコメントをしなければならない。時間がないので、9時発のKTXに乗って行ってしまった。20分くらい待ってようやくヨンミさんから電話あり。トランクに一眼レフの重そうなカメラを積んできた。

 土曜日で学校はお休み。ご亭主も集まりがあるとかで「今日は午後遅くまで付き合えることになったのよ」とうれしそうに言う。私もありがたい。一路、海雲台へ。瀟洒なフィットネス。海側は全面ガラス張り。3階から海がよく見える。77度、51度など、微妙に温度の違うサウナを少しずつ楽しむ。50度前後だと、そのまま横になって眠ってしまいそうになるほど。ヨンミさんものんびりムードに浸りきっている。横になりながら家族のこと、仕事のこと、趣味の写真のこと、今後やりたいと思っていることなど、じっくり話した。彼女はおしゃべりが好きだ。淀みなくしゃべる彼女を見ていると、このまま永遠にしゃべり続けるのではないかと思われるほどだ。うれしいことに彼女の言うことがほとんど聞き取れる。韓国語を続けててよかった。5年前は今ほどは聞き取れなかったものね。

 彼女が教師として悩んでいること、少しでも子供たちのためになるように不断の努力をしていることなどを聞いて、すっかり感心してしまった。今回で2度しか会ってないのに、昔からの友人のように話は尽きない。興味の対象が似ているからかもしれない。私たちは芸術をこよなく愛するという点で一致している。写真が取り持つ不思議な縁を思った。

2009/05/10

オボイナルの電話

 5月8日は、韓国ではオボイナルと言って、母の日と父の日が2つ合わさった日だ。一度に済むからいいかもしれない。ソウルに暮らしていたとき、友人が「明日はオボイナルだから、姑に何かプレゼントを買わなきゃ」と言って、一緒にデパートに出かけたことがある。姑にも贈り物をするのかと感心した。
 
 父の日の記憶はさしてなくても、母の日の思い出は誰でもあるのではないだろうか。アメリカから来たこの習慣だが、赤いカーネーションを贈る。母のいない人は白いカーネーションだった。  私たちも、母とシオモニ(姑)に小さなプレゼントを用意して、子供の日に、練馬のイタリアンでお昼を食べた。そのレストランは裏に大きな畑を持っている。そこで取れ立ての野菜を使っておいしい食事を出す。母もシオモニも喜んでいた。

 5月8日の晩、韓国から電話が入った。ソウルの自称息子(オリンワンジャ)からだった。「週末に電話しようと思ったんだけど、プチョニムオシンナル(お釈迦様の誕生日)で、故郷に戻って、家族で山寺に行ったんだよ。従兄弟の子供を負ぶって山に登ったものだから、疲れて電話できなかった。それで今日、オボイナルまで待って電話したんだ」  

 うれしかった。オボイナルに私を思い出してくれたなんて。  

 「本当のお母さんには電話したの?」と聞くと、「したよ。土曜日にはお小遣いもあげた」と、ボソッと言う。孝行息子だね。お父さんはとっくに亡くなっているということをこの日初めて知った。  

2009/05/09

立ち遅れている韓国の学問世界

 歴史が浅いからなのか、韓国の学問の世界はどう見ても遅れている。遅れているというより、基礎研究が立ち遅れているのだ。高学歴志向の韓国、博士は掃いて捨てるほどいるが、どうも私の周辺の研究者を見ていると、こんなことも知らないのかというほど、基礎的手段を知らないことが多い。  

 うがった見方をすると、学問の仕方を知らずにライセンス取得にばかり血道を上げているという風情だ。晋州で大学院国文学科に在籍していたときも、40前後の遅いスタートを切った人々がライセンス獲得にやけに熱心なことに鼻白むことが多かった。生涯教育ということが言われて久しい日本からみると、韓国の教育は功なり名をとげるための手段の一つに過ぎない。現世的ご利益を重視する儒教文化圏だからそうなんだろうかと、初めのうちは彼我の差を思わずにいられなかった。 

 「その年齢で修士(韓国では碩士「そくさ」という)を取って、どうするのか、碩士を取ったら、博士に進むのか。」「日本に戻ってからどうするのか。韓国語を教えるのか」などと随分質問された。私を除く人々は必死に碩士を取って、博士に進み、あわよくば地方の国立大学で時間講師の一つでもやって、そのうち専任の道も開けるだろうなどと野心満々である。

 私のように動機が不純のまま大学院生をやっている者など一人もいなかった。中学校の国語教師をしながらグレード・アップを目指していた女性が、ある日、「あなた、ライセンスのためでないでしょ。ここで(遊びながら)韓国を観察しているんでしょ?」と言った人が一人いたが、この人さすがに鋭いなあと思ったものだ。教師は人をよく見ているものだね。  学問にも段取りというものがある。日本で博士を取って韓国に帰国し、ようやく就職できた人がいるが、時々メールでびっくりするようなことを頼んでくるのだ。そんなこと、あなた専門家のはずでしょうが。なぜ素人の私に頼むのかと、驚くばかりなのだが、ハタと考えた。彼女は基本的なアプローチを間違っている。まずやるべき手段を知らない。適当な指導教師がいない。ジャーナリストの端くれのような私に随分細々としたこと、それもその専門だったら当然知っていてしかるべきことまで尋ねてくるのだ。日本の学問レベルから言ったら、失格だ。よくその程度で博士号を取れた、いや日本側は上げたねえとため息をついてしまうのだ。 

 インターネットの発達で、碌に勉強しないでも、検索の鬼と化せばほどほどの資料は手にすることができる世の中だ。それでも自分の足で資料を収集し、インタビューを試み、関係機関と連絡を取って研究を進めることには変わりない。そういった基礎的アプローチを学ばないで何が博士だ。ウッキンダ、チョンマル。

2009/05/08

飛ぶ矢は飛んでいない。

 その昔、大学の哲学の講義で老教授が繰り返し言っていたゼノンの「飛ぶ矢は飛んでいない」というパラドックス。結局、この講義で唯一心に残った一節だ。「飛ぶ矢は飛ばない」。「飛んでいる矢」を微視的に観察すると、止まっているというのだ。永遠に目的地に届かないというのだ。わかったようなわからないような話に当時はキョトンとしていた。今ならわかる(ような気がする)。 
 
 死んでしまった者はこの世には生きていないけど、いつまでも私の心の中で生き続ける。生きることはほんの束の間の話に過ぎない。でも、死んでしまったら永遠の生を得る。よく生きることはよく死ぬことだ。  

 二律背反とういうか、パラドックスというべきか、最近、そういうことにハタと行き当たって、ニンマリしたりすることが多くなった。あの老教授はとっくに亡くなってしまったが、そのワンパターンの講義はあながち無駄には終わらなかった。

2009/05/07

釜山 海雲台(ヘウンデ)のブックカフェ・Luca


 4/24(金)。午後から雨になった。私が釜山に行くと、なぜか雨になることが多い。午後1時に金海に到着。ホテルにチェックインして、ヨンミさんに早速連絡。彼女は小学校のベテラン教師だ。まだ授業中なのか電話に出ないので、メッセージを残しておいた。折り返し彼女から電話が入る。久しぶりの釜山サトリを懐かしく聞く。予定通り地下鉄の駅で会う。なんと5年ぶり。彼女、ちっとも変わっていない。家人を紹介してヨンミさんの車で一路海雲台へ。彼女はかなりの方向音痴だ。今回はナビがあるからいいけど、5年前はけっこう慣れない道をあっちこっちと経巡った記憶がある。
  
 写真ギャラリーでヒマラヤ写真展を見る。チベットの少女や赤ん坊の澄み切った瞳が今でも忘れられない。アナログもあるけど、デジタル写真もけっこうあった。専門家の間でもデジタルはなんの抵抗もなく使用されているのだ。一眼レフの高性能デジタルも人気があるしね。
 カフェ・ルカへ。ここで写真評論家のジン・ドンソン氏に紹介してもらう。彼はこのカフェのオーナーであり、韓国各地で行われる写真や美術ビエンナーレの総監督としても活躍しているそうだ。非常に穏やかな人物で、フランスに留学していたらしい。著書も多く、日本の写真界にも造詣が深い。昨年11月にオープンしたばかりのこのカフェをお嬢さんに任せて、急がしい日々を送っている。
 4人で夕食後、再びカフェ・ルカへ。ルカはLucaと書き、LumiererとCafeを合わせた名前だ。雨の音を聞きながら写真の話に花が咲いた。

2009/05/04

旅の醍醐味

 久しぶりに沖縄のTINGARAを聞いている。今年は2月から旅が続いた。沖縄、仙台、大阪、韓国南部地方と、あちこち出かけたが、旅の日程もゆったりしていたし、3月はずっと東京にいたからか、それほど慌しい感じがしない。今月もしばらくはおとなしくしているつもりだ。

  旅から戻ると、旅を思う。旅に出ると、日常を思う。所詮、人生は旅みたいなものだ。韓国の高速バスの窓辺で疾走する風景を身体に感じながら、進行方向に向いた身体ではあっても、心は過去を遡り、また現在に戻り、そしてまた追憶に耽ったりして、そういった行きつ戻りつの贅沢な時間を味わえるのも旅の喜びの一つだ。 

 帰宅すれば、新聞が山のように溜まり、郵便物の処理、メールの削除、写真の整理、ブログの書込みなどを黙々とやるだけだ。私がいない間に起こった事どもはパソコンを開けば、把握できる。デジカメで撮った300枚ほどの写真を整理しながら、過ぎ去った時間に対する愛惜の念が芽生える頃、また次の旅を計画する。

2009/05/02

新型インフルエンザ

 新型インフルエンザについては、疑問だらけだ。なぜメキシコで犠牲者が多いのか。本当にブタが感染源なのか。新型と特定されたわけだから、ウィールスが活躍中であることは確かにしても、死に至る病とは、これいかに。昔からあったよね。スペイン風邪で何十万人も亡くなったとか。風邪といっても侮れない。  

 韓国滞在中にphase 4からphase 5に上がったことは知っていたが、関空に着いて、あら驚いた。入国手続きの職員が全員マスクをしているのだ。金海を出るとき、健康状態に関する書類を余分に書くよう指示されていた。住所、氏名もきちんと書かなければならない。鼻がムズムズするけど、これはミンドルレ(たんぽぽ)の種のせいだ。

 羽田に飛び、帰宅したときには8時半を回っていた。飛行機の乗り換えはさすがに疲れる。でも、今回の新型インフルエンザ騒ぎを見ていると、成田を利用しなくてよかったかもしれない。 

 6月にまたソウルに飛ぶ。それまで騒ぎが鎮静化していればいいけど。この騒ぎで、麻生政権は得したかもね。年金問題も総選挙もすっかりかすんでしまった感じよね。

2009/05/01

韓国南部地方の旅を終えて

 1週間の旅だった。釜山、テグ、光州と慶尚道の2つの都市と、全羅南道の都市を巡る旅は、天気にも恵まれ、知り合いの好意にも甘え、この上なく充実したものになった。4/30、帰国する日はちょうどノムヒョン前大統領が検察の事情聴取のため、故郷の金海市郊外の村からバスに乗せられてソウルに上京する日だった。朝からTV中継され、宿泊していたホテルからさほど離れていない所だったので、なんだか複雑な心境になった。受け取ったらしい金額は、歴代の大統領が得た額に比べれば、桁外れに少ないものだったらしく、ノムヒョンを慕う人でなくとも、こんな額で調べられるなんてひどい話だと感じる人が多いようだ。明らかに現政権の介入が大きい。 

   TV画面に映ったノムヒョンは「面目ない、国民を失望させて申し訳ない」という短いコメントを残してバスに乗り込んだ。ちょうとノムヒョン政権のときに留学していた私としては、本当に残念な気持ちで一杯だ。収賄の事実が出なければいいのにと思う。絶大な権限を握る大統領という職責に就いた者としての責任を問うことより、人権派弁護士として、韓国の民主化に寄与した彼の功績を忘れずにいることの方が大切なのではないかと思うのだが。

 写真は、ホテルの窓から金海空港方面を望んだものである。同じルートをソウルまで何度も行ったり来たりしたものだから、なおのことノムヒョンの上京は心が痛い。

2009/04/24

今日から韓国南部地方へ。

 羽田から釜山の金海までの直行便がない。国内線で関空まで飛び、国際線に乗り換えて金海まで行く。成田まで行けば、金海行きはあるのだけど、このところ羽田ばかり利用していると、成田がやけに遠くに思える。
 
 今回は人に会う旅でもある。釜山では5年ぶりに知り合いの女性に会う。留学時代に初めて知り合い、釜山を案内してくれたことがある。小学校の先生で、写真が趣味である。今回は彼女が釜山在住の写真作家に紹介してくれるという。いっしょに写真ギャラリーも訪問する予定だ。  

 テグでは、教保のブックログで知り合ったブックロガー3人と会う。そのうち一人は昨年ソウルに行ったとき、大田からKTXに乗ってわざわざソウルまで来てくれた女性で、今回もテグまで駆けつけてくれるとのこと。後の二人はまだ30そこそこの若い男性。一人は地元でビヤホールを経営していて、もう一人はその彼と同じ大学の後輩に当たる人だ。3人ともブックログをずっと続けていて、面白い本の紹介や日々の出来事などをユーモアたっぷりに提供してくれる。昔で言えば、ペンフレンドに会うという感じか。書かれたものを見れば、大体どんな人かわかる。  

 初めての光州では、10年来の知り合い夫妻が案内を買って出てくれた。二人とも地元の大学で教鞭をとっている。以前から遊びにおいでと言ってくれていたが、今回ようやく実現した。  

 週末は天気が悪いらしい。来週は晴れるようだ。4ヶ月ぶりの韓国。やはり胸が躍る。

2009/04/22

旅仕度

 あさってからの韓国南部地方の旅。スーツケースの中身を例によって出したり入れたり。初夏の陽気だったり、雨が降れば気温は低くなるし、内陸地方であれば、朝夕の気温差があるしで、ブログや書評ブログの仲間のアドバイスを参考に、半袖はやめた。長袖のシャツを折り返せばいいことだし、ダスターコートか、軽いジャケットも用意することにした。  

 昨年の今頃同じ地域に出かけた家人に聞いても、「覚えてない」のひと言。写真を一枚も撮らなかったので、なんの参考物件もない。もちろん昨年の気候がそのまま今年に当てはまるわけもないけど、人は毎年、何を着て生活していたか思い出せないものかもね。

2009/04/19

背中の痛みがなかなか取れない。

 背中の痛みといっても、それは打ち身なのだ。先日、地下鉄から降りようとしたとき、眼の前に立っていた女性が肩から提げていた馬鹿でかい袋物が、いやというほどまともにぶつかってきたのだ。痛かったので、にらみつけながら下車したのだけど、本人が気がつくはずもないよね。 

 最近、こういった手合い、背中に眼のついていない連中が増加の一途を辿っている。自分の部屋を持ち、好き放題自由に暮らしているからなのか、外に出てもおよそ配慮というものを持たずに街を闊歩している。闊歩というか、みっともない姿勢で、ヨロヨロ歩いているのよね。 

 そういえば、先日大阪の阪急電車に乗ったときも、関西大学の学生と思しき男子学生ががやがやと乗り込んできた。それぞれにこれまた馬鹿でかいリュックやカバンを提げていたんだけど、その中の一人のカバンが、座っている私の顔にぶつかりそうになったのよね。後ろ向きのまま友だちとしゃっべっているから、すぐ後ろの座席に人が座っているという当たり前の事実に気がつかないんだね。私ははっきり注意した。「すいません(私は何もすまないことはしていないけど)、荷物がこっちにぶつかってくるんですけど」。さすがにその学生、恐縮してまっすぐ姿勢を正した。でも、相変わらず不安定なポーズで友だちと話し続けているのよね。多少、きまり悪そうにね。 

 外に出たら、少なくとも公共の場所では、背中にも眼をつけなさい。ましてや車内で化粧するなんて、言語道断。家庭の躾けがなってないね、まったく。個室付きの家で、何不自由なく育つと皆そうなるとは言わないけれど、どうもその傾向にあるね。

 MP3の世界に浸り、どこに行っても自分のお気に入りの音楽を連れて、周囲にまったく配慮しない若者よ、一度耳からイヤーホーンを外して、周囲をちょっと見回したらどうでしょうか。若いのは今のうちよ。経ってみれば短いのよ。あっという間に高齢者になるんだから。高齢者なんて、自分とは縁のない世界の人々だなんて思っていたら大間違い。本当に近い将来、君たちも仲間入りよ。まあ、もっとも、そういう配慮のない若者はそのまま配慮のない高齢者になってしまうんだろうなあ。

2009/04/16

押入れ整理

 なんだか急に暑くなってきた。ウールの物をしまい、半そでのTシャツ、足首がすっかり出るジーンズなどを急いで出す。家の中にいるとそれほどでもないが、外に出ると、夏の陽光がいやおうなく射す。ソメイヨシノが散って葉桜になり、八重桜が重たそうにその枝を揺らす頃、突然、初夏の趣になるのは、この十何年の変わらぬ季節の移ろいだというのに、私はいつもたじろいでしまう。 

 スーツケースも出して、来週からの韓国行きの準備も始める。靴下にスニーカーはもはや暑いだろう。素足にサンダルで行こう。半そでのTシャツ、タンクトップ、日傘など、日差しの強い韓国南部に合わせて荷物を揃える。 

 アパートの前のワンルーム建設工事もこの2月末には終了し、すでに住人が住み始めている。夕暮れになると、曇りガラスの向こうに女性のシルエットが浮かび上がる。家賃9万円也。自由にしなやかにシングルライフを楽しんでいる風である。

2009/04/15

ノ・ムヒョン前大統領に失望する韓国国民

 韓国が大変だ。大変というより、非常に大切な時を迎えたという感じがする。ノ・ムヒョン前大統領が現役時代に100万ドルのお金を受け取っていたということが発覚し、それが収賄に当たるのか、目下、検察の調べが入っている。当時の100万ドルが何億ウォンに相当するのかよくわからないが、清廉潔白、政治とお金の癒着を誰よりも排除しようとしたノ・ムヒョンにして、そんな莫大な金を受け取っていたという事実は「ブルータスお前もか」と、大いなる落胆と失望を韓国国民に与えていることは事実だ。 

 所詮、権力にはお金が集まるものだという諦めにも似た感情が湧き起こっている。ノ・ムヒョンを支持した多くの民主化運動の人々や、イ・ミョンバク現政権に対するダーティイメージがないまぜになって、今、韓国は大いに揺れている。  

 当時は、ノ・ムヒョンを慕う会まで出来て、民主化闘争の人権派弁護士として今までに見られない新しいタイプの政治家の登場に熱狂し、数々の困難を乗り越えてとうとう大統領にまでなったのに。そしてインターネットの時代を象徴するかのように、無党派の若者をインターネット投票に駆り立てたのに。既成の古い政治家のタイプではない、身をもって韓国の民主化を体現してきたような彼も結局お金には勝てなかったということなのか。  

 イ・ミョンバク=以下、2MBと言おう。2MBは今、独裁に走っている。その端的な政策は、言論の自由を封殺していることだ。YouTubeという全世界を圧巻している動画サイトがあるが、ここは匿名で参加できる、ある意味無政府状態を許す世界である。そこが、実名でないと投稿できないという韓国政府の意向を拒否したのだ。 

 実名で投稿するなんて、そんな馬鹿なことがあるだろうか。匿名で好きなことを自由に投稿するからこそ、本当のことが見えてくるのだ。新聞、TVに対する韓国政府の介入は到底理解できない。そんな民主化に逆行している2MB政権の中で若者を中心に反権力の運動が盛り上がりを見せてきた矢先のノ・ムヒョン発覚というタイミング。 

 ノ・ムヒョン支持者の中には、それでも彼を支持したいというけなげな人々もいる。こんな2MB政権下だからこそ、真の民主主義を模索していくべきだという考えなのだと思う。そうでなければ、現政権の思う壺に入ってしまうではないか。 

 1992年に金泳三の民主政権が樹立して17年目、韓国は今、岐路に立たされている。成熟した民主化を成し遂げるためにも、今が正念場だと思う。一人の政治家だけで事が終わるのではない。長い眼で見たときの、その国の民主化の成熟度が問われているのだ。国民の意識の方が、一歩も二歩も先を行っていると思うから、私は期待して見ている。 

 それにつけても、日本はだらしない。民主化を自らの手で得なかったし、何の疑問も持たずに当たり前のこととして受け入れたからね。おぞましい自民党一党独裁の歴史が終わらないではないか。なし崩し的に国民は定額給付金を受け取って、飼い慣らされていくのか。民度の低い日本の政治、私は期待できない。 

 政治意識が芽生えてしかるべき学生たちは、いかに格好よく自分を見せようかとファッションに血道をあげるか、大麻に手を染めるかのどちらかだ。アホを通り越して、馬っ鹿じゃなかろうか。いや、馬や鹿には悪いけどね。

2009/04/13

旅の楽しみ

 3泊4日の大阪の旅から戻った。大阪も桜が舞い、散り、本居宣長の「もののあはれ」なんかを感じたりして、いい春の日を過ごした。 
 
 旅の楽しみの一つに旅先で知り合いに会うというのがある。見知らぬ風景の中に身をおいて旅愁を味わうのも一興だが、見知らぬ土地で見知った人々に再会する喜びはまた格別のものがある。 

 今回は、1年の研究休暇を大阪で過ごしている韓国人夫妻、晋州時代の日本語の教え子Yさん、そして高校時代の同期生、仙台で初めて会った元研究者の男性、この計4組の知人に再会した。 

 晋州時代、Yさんを含めて4人の大学院生に週1回日本語を教えていたのだが、彼女は助手の仕事が忙しくて宿題もあまりやってこなかったし、2年ちょっとの間にさして進歩もなく、教える側の非力さを痛感していた子だった。それが今回会って、あまりの向上ぶりに感嘆するほかなかった。  

 「先生、私、4時間の睡眠時間以外は日本語の勉強してました」とYさんは言う。すごい集中力というか、もうあとがないという切迫感から、彼女はついに日本語をものにしたのだ。若いということは、その気になればなんだって出来るということだ。で、昨年大学院に見事入学し、今年は修士2年目、論文を書いて来年には韓国に戻るつもりだと高らかに言ってのけた。努力する人に祝福あれ! 手伝えることがあれば、なんでも言ってちょうだいと私も高らかに言った。 

 高校の同期生。なんと四半世紀ぶりの再会だった。こっちも白髪頭だし、25年と言ったら、長いよ。会ってもわかんないんじゃないかと思っていた。ところが、西宮の駅の改札で待っていた彼女、全然変わってなかったのよね。向こうも「変わらないね」と言うのだが、お互い変わらないはずがないんで、一瞬たじろぎながらもその顔の奥に高校時代の顔を見つけるんだね。その亡霊のような青春の顔を25年という歳月を一気に無視して見つけてしまうんだね。すごいというか、無謀というか。 

 話は尽きない。人生の中でも最も光り輝く季節ともいえるこの四半世紀のことを3時間ぐらい過ごしただけでは語り尽くせるわけもない。お昼を食べて、コーヒーを飲みながら、互いの来し方を適当にはしょってしゃべり合った。話の最後にお互いの行く末に希望の影がちらりと見えたのは幸福だった。

 仙台から大阪に移り住んできた男性は、目下求職中。年齢よりもはるかに若く見えるし、人柄がよさそうだし、彼ならなんとかこの浪速で生きていけるだろう。6月に雑誌の編集会議をやることになっているが、そのときも呼んでくれとのこと。召集かけるに決まってる。8号の執筆者第一号だしね。 

 韓国からやって来た夫妻とも知り合って12年。晋州時代の私の保証人も引き受けてくれた。雑誌の顧問でもある。6月の編集会議は大阪でやる。大阪会議。1875年にあったね、そういう歴史的会議が。大久保利通らが集まって何を話したのか忘れてしまったが、とにかく明治維新では名高い大阪会議。仙台に引き続き、2回目となる大阪会議になんだか期待が持てる。

2009/04/07

明日から大阪へ

 12月に引き続いて2度目の大阪行きだ。桜も見頃は過ぎただろう。 

 今回の主目的は、  1)民族博物館に行くこと。  2)大阪遊学中の友人家族に会うこと  3)大阪留学中の教え子に会うこと  4)高校時代の友人に会うこと 

 1)は、3)の教え子と一緒に見学するつもりだ。彼女Y嬢、おっと先般結婚したからYさんと呼ぼう。Yさんとは2005年から会っていない。その間、私が釜山に行った折会うはずがうまく予定が合わなくて断念。その後、彼女が東京にやって来たときは、私が入院中で、これまた会えずじまいで、なんと今回4年ぶりに会う。晋州で週1回日本語を教えていたときは、それほどでもなかったのに、その後努力の甲斐あって、見事に日本語を身につけ、大阪の大学院に入学を果たした。歳月恐るべし。私とは携帯メールでやりとりする。あんなに日本語出来なかったのに。私の教え方にも問題があったのかもしれない。 

 4)の高校時代の友人とはもっと会っていない。20年以上は会っていない。この間、電話で話したことはあるが、高校時代そのままのしゃべり方だった。その後、私が韓国滞在、そして留学と、日本を思い出す暇がなかったので、このところの「浦島太郎」現象に拍車がかかっている。  

 9日木曜日は満月だ。何かが起こるかもしれない。

2009/04/05

中目黒の桜祭り

 いやー、目黒川沿いの桜、絶景でした。そもそもここの桜は、20年前だったか、護岸工事のときに、桜の古木が全部切り落とされたのだ。それが、5年経ち、10年経つうちに桜の若木がどんどん育って、今年、久しぶりに見に行ったところ、昔の古木を思い起こさせるほどの成長ぶりに、来し方行く末を思った。

 桜の見頃にここへやって来たのも、本当に久しぶりだ。留学前のことになるから、もう随分経つ。いや、あれはもしかしたら20世紀のことだったかもしれない。電車の窓から見えるものだから、現地に行くのはついつい後回しになってしまい、そうこうするうちに桜の季節が終わり、若葉に移行していたってことが多かった。

 桜も、染井吉野から大島桜までいろいろあって、花の色も微妙に異なる。桜もそうだが、花というのは、前の年に芽が出て、それが成長し、そして花と咲き、散っていくというこの1年間最後のハイライトなのだ。桜、4月、新年度というムードでも、それは人間の側から見た思いであって、桜からすれば、命の一区切り、花が散って、次の代に命が引き継がれるという季節なのだ。今年は思う存分桜を眺めた春だった。

2009/04/03

不具合なパソコン

 昨日からパソコンの具合がおかしくなった。ウィンドウズのファミリーセイフティーという機能がある。ウィンドウズなりのセイフティ機能と考えればいいのだが、これ、いつから私のパソコンに入ってきたのか、よく思い出せない。パソコンを起動させるときに、この機能のために、一度ログインしないとエクスプローラーに連結しなくなってから随分経つ。昨年のいつ頃だったろうか。  

 一時マックと格闘した末、結局ウィンドウズに戻らざるを得なくなったのだが、戻ってから異常が頻発するようになった。メール確認、お気に入りにあるサイトとの連結は問題なく出来る。ところが、メインのブログとして特に力を入れているネイバーのブログに入れなくなったのだ。オットケーヨー?  

 メールの確認はネイバーでも出来るし、カフェ更新も異常は見られない。ただブログだけには入れないのだ。おかしい。  

 自分のパソコンでブログの更新が出来ないというのは、非常に不便なものだ。貯蔵している写真を自由に掲載することもできないし、書き込みに対する返事もままならなくなった。家人のパソコンを使えば、画面に入ることは出来ても、書き込みによってはその文字が映らないこともある。返事のしようがない。
  
 ということで、昨日、ファミリーセイフティを外し、ウィンドウズの機能も最低限に整理し、エクスプローラーも8.0から従来の7.0に戻してみた。私のデスクトップは2002年製で、その司令塔はかなり古いものになってしまっている。後付で家人がいろいろとグレードアップをしてくれたらしいが、本体が古いままでは、いくら新機能を付け足しても、限界がある。メモリーを増やしても、容量を増やしても、本体が7年前の製品だから、自ずと限界があるのだと思う。肉体の老化に抗すことができないのと同じかもね。
  
 それで、起動させてみたのだが、やっぱりネイバーのブログだけ思うに任せない。自分のブログに入れているお気に入りの音楽だって聞けないのだ。なんてこったあ。音楽のない生活なんて考えられないのに。なんてこったあ。  
 
 桜が散る前に、今日は遠出でもしてくるかな。  

2009/04/02

違うことから出発するか、同じことから出発するか。

 反応がないというのは面白くないものだ。人は同じではない。こちらが感動したことでも、他の人にすればそれほどの感動とはならないこともある。こちらが勇んで、メールの返事を出しても、読んだのか、読んでないのか、何の音沙汰もなく、日々が過ぎていくと、なんだか虚しくなる。  
 
 感覚は人それぞれに違うにしても、こちらの意図したことがほとんど伝わらなくて、何の反応も返ってこないというのは、やはり寂しいものだ。これまでの経験では、女性同士はすぐに感応して、「あれはよかったわよね」とか、「あれは面白かったね」などと言い合って、共感することができるのだが、相手が男性だと、そういうことが少なくなる。ましてや男性同士が、共感しあって手を取り合っているなどという光景は一度も目にしたことがない。  

 女性同士の関係性は共感から出発するが、男性同士は対立から出発すると聞いた。確かに共感からはそれ以上のことは何も生まれない。対立はさらなる次元を生み出す可能性がある。だからと言って、常に対立から出発するのもしんどいだろうと想像する。  

 人は違って当たり前だ。違うことから出発すれば、腹も立たないだろう。でも、同じ人間としての素朴な喜びも悲しみも共通のものとして抱えている。たまには、共通項を互いに確認し合ってもいいではないか。

2009/03/30

韓国の劣悪な労働条件

 ILO(国際労働機関)で定めた、労働時間は週40時間を超えてはならないという規定があるよね。週5日制だったら、一日最長8時間×5=40で、ぎりぎりこの条件を満たしている。

 9時―5時勤務の場合、昼休みを除くと、一日7時間労働になる。7×5=35時間。これに、土曜出勤を考慮すると、土曜日はお昼まで勤務すると考えれば、+3時間、都合38時間になり、これも条件を満たす。 

   隔週土曜日勤務の場合は7×6で42時間になってしまう。35時間の週と42時間の週が交互にやってきて、平均すれば、40時間に満たないからOKということにはならない。週ごとに見て40時間を超えてはいけないからだ。 

 残業すれば、当然残業手当が出されなければならない。ところが、韓国で働いている20代、30代の会社員の実態を知るに及んで、驚愕するような事実にぶち当たった。

 残業手当もなく、夜中まで働いているのだ。隔週土曜日が休みだと言っても、土曜出勤の週の土曜日は平日と同じく5時6時まで働いている。いくら若いといったって、これでは身体をこわす。ILOの規準は、人間らしく健康に働ける最低ラインを示している。 

   日本に比べて、韓国の労働時間が長いのは昔からだった。朝8時出勤なんてざらだったし、銀行は4時過ぎまで窓口が開いていた。1997年当時からそうだった。日本に追いつけ、追い越せということなのか、誰も彼もよく働くのにびっくりしたことがある。12年前は週休2日制なんて、夢のまた夢の話だった。

 一流企業とされている、例えばSamsunなどは労働組合がない。大企業にすべて労働組合があるわけではないのだ。Samsunの内情を知る者は、管理管理の非人間的な組織の歪さを訴える。昨年、逮捕寸前まで行った李ゴニというサムソン立志伝中の会長、そしてその息子の様子を見ると、これは近代的な意味の株式会社ではないなあという感じを強く持った。ワンマン経営というより、これはサムソン王朝、サムソン帝国という世襲制の組織、機構の実態をあからさまにした事件だったと言える。で、結局、お咎めはなかったのだ。なぜか。そう、韓国そのものがサムソン帝国だから。 

 サムソンのためのサムソンによるサムソン帝国。これが韓国経済の中枢の一つを担う、一企業の実態である。王様のためには身を粉にして働く。滅私奉公などという死語が韓国ではまだ堂々と生きているのだ。  

 この労働環境は労働の末端にまで行き渡っている。韓国経済は実は零細企業で成り立っているのだが、サムソンほかの大企業が殿様商売をしていると見ればいい。労働者の労働条件など二の次、三の次にされている。  

 経済恐慌の今、日本でも派遣切りが進行している。派遣で成り立っていたのに、名ばかり正社員の救済が優先されている。でも、片方でワークシェアリングという発想も浸透してきた。限られた数の椅子取りゲームでは、埒が明かない、数少ない椅子を分け合うということだ。  

 経済停滞などと言っているが、今までが働き過ぎだったのだ。何に向かって突っ走ってきたのか。より豊かな生活を得るためか。豊かさの内容が問われるようになって、多くの労働者が現場を見直すようになった。大きいことはいいことだという時代はとっくに終わった。量より質に目が向き始めたのだ。 

 スピードもこの際、二の次だ。良いものをゆっくり時間をかけて追求する。コンピューターに出来ないことを人間の手に取り戻すということだ。 

 韓国は土建屋の親父みたいな大統領が、言論の自由を抑圧しながら、まだ開発に血道をあげている。若者を中心にゼネストの動きもあるし、日本の大麻吸引学生に比べれば、まだ学生の政治意識は高い。それでも実社会に出ている若者の話を間近に聞くと、見えない何かに絡め取られている実態が見えてくるのだ。

2009/03/28

テメエら、人間じゃない。

 時代劇で憎っくき相手をバサッと切って、中村錦之助がこう言うのだ。「テメエら、人間じゃない!」。実際にそうできたら、痛快だろうと思われる出来事が最近増えてきた。 
 
 愛知の中学校で、妊娠した担任教諭を「流産させる会」というのを作って、実際に給食に毒物を入れたという事件が発覚した。会員は16名。教師から何らかの注意を受けたのを逆恨みして、こんな物騒な会を作ったという話だ。その発想がこわいよね。近頃の、図体ばかりでかくなった中学生、一体何をを考えているんだか、ここまで来ると、ついていけない。ついていく気は全然ないけどさ。  

 いや~、昨日も私見ました。地下鉄の中で、超自己中の若者(バカ者)を。ホームにある危険防止のドアがあるよね。これを通って、閉まりかけている地下鉄のドアを、傘と手で押し開けたのよ。不気味だったよ。ドアの隙間から覗いた手のポーズと、傘。嫌な予感がしたんだ。 

 ワンマンカーの地下鉄だよ。駅員が慌てて運転手に合図して、急遽ドアを開けるように指示を出した。図体ばかり大きなマスク男が乗ってきたよ。悪びれもせずにね。この一件で地下鉄は1分出発が遅れたね。  

 マスク男が席についたとたん、車内アナウンスが流れた。「駆け込み乗車は大変危険ですから、絶対にしないようにして下さい。今回は特別の処置をしたのです。今後、絶対にこんなことがないようにお願いします」。私恥ずかしくて、目の前に座ったマスク男の顔を見られなかったよ。しばらく目をつむっていたんだ。 

 そしたら、直に妙な音がするのよね。目を開けたら、件の男、耳にはi Podのイヤホーンしちゃって、その耳元からガンガン音がもれてくる。その上に、そのラップミュージックを自らも歌っているのよ。よしてよ、まったく。ひょっとして、さっきの恥ずかしくなるような車内アナウンスを聞いてなかったってこと? 聞いていたけど、シラを切るために、こんな愚行に及んだってこと? わからない。

  私は「ちょっと、うるさいわね。あんたのせいで電車遅れちゃったのよ。その反省もなしに、今度は騒音公害かよ。」と、頭の中でどなっていた。目の前に座った、ターミネーターまがいの男、気味が悪いったらない。でも、亡くなった父の言葉を思い出して、自重したのよね。  

 「相手を見て、物を言いなさい。そんなにいきり立って物を言ったら、刺されるぞ」。そうなのよ。最近は、常識が常識で通らなくなってきたし、どんな変質者が街をうろついているかわかったものではないよね。正義を訴えて通用する世の中ではなくなってきたのよね、かなり昔から。 
 
 ターミネーターといい、愛知の流産会といい、頭の中は人間とは思えない輩がのさばっている世の中だ。今時の教師は勇敢でないとなれないね。教師に深く同情するのだった。

2009/03/26

Samantha James

 音楽専門のブログから、サマンサ・ジェイムスという歌手の存在を知った。韓国のネイバーではまだ試聴することができない。欧米の音楽はやはり日本の方が情報が早い。早速、ネットで調べて、ダウンロードした。  

 Right Nowという曲、なかなかイカシテル。柔らかい女性ボーカルだが、ハウスミュージックの一つらしい。BGMで流しても邪魔にならない。独特の世界だ。なんと言ったらいいだろう。先の見えない霧の中にいるという感じ。リズムはグルービー。まだ一般には知られていないようだ。MySpace.comでサマンサ本人がブログを持っていることを知り、早速購読メンバーに入れた。Riseというアルバムも良さそうだ。アーティストの中にはMySpaceをそのまま公式ホームページにしている人も多い。偶然とは言え、そこにもブログを作っていて良かった。  久しぶりにお気に入りの音楽に出会えた。そのうちCDを手に入れよう。

2009/03/24

この頃の新聞について。

 前にも言ったかな。新聞記者の質が落ちてきたってこと。記事の基本である5W1Hも満たされていない、とんでもない記事だってある。書く側ばかり妙に自己陶酔して、読むこちらはしらけてしまう記事もある。新聞の基本は、正確さである。情にほだされて、自己満足しているような情報はいらない。事実をなるべく多くの視点から客観的に書くこと。これは不可能に近いが、記者たるもの、それを目指すべきだ。 

 
 経済欄のコラムに光るものがある。きらっと光る視点が新鮮な場合がある。よくよく調べてみると、筆者は新聞社の人ではなく、財界人だったりする。コラムは字数が短いだけに、そのよしあしが嫌でも表れる。質のいいコラムニストはまだ日本には少ない。コラムだけで食べていけたらどんなにいいだろう。 

 韓国の新聞について。いわゆる三大新聞、朝鮮日報、東亜日報、中央日報は全滅だ。三紙は政府寄りの右傾化新聞として韓国社会では嫌われている。この三紙は日本語ページを持っているが、芸能界のことはともかく、政治、経済についてこれらを鵜呑みにしてはいけない。  

 インターネットの発達でゲリラ的ジャーナリズムも跳梁跋扈しているが、一般の日本人はなかなか接することができない。ハンギョレ新聞、京郷新聞などに多少見るべきものがあると言われているが、私はよくわからない。  

 インターネット配信の日本のニュース。その中で、あのMSNはサンケイと提携したので、かなり偏った情報が流れている(以前は毎日と提携していた)。読売、サンケイと言えば、はっきり言って、右寄り右翼と考えた方がいいだろう。朝日はインテリが好む新聞だが、それほど鋭い視点があるとは思えない。むしろ保守的権威主義的である。しばらく購読した結果、そういう結論に至った。天声人語の質はがた落ちだ。なぜここから入試問題が出されるのかわからない。  

 早い話が批判精神をもって新聞と付き合うしかないということだ。事実は一つではない。しかし、真実は一つだ。そう思って、今日も紙面に目を光らせるのだ。

2009/03/21

新聞。

 久しぶりにラジオを聞いた。久米宏の「ラジオなんですけど」。今日のテーマは「あなたは新聞を読みますか」。インターネットの普及と、この所の経済状況の悪化で、新聞購読者が減っているという。私は夕刊の愛読者なので、新聞のない生活は考えられない。でも、背に腹は替えられないと、月4000円弱の購読料を節約する人が出てきたとしてもしょうがない。 

 新聞配達をしながら学校に通う二人の青年が登場。朝刊配達のため、二人とも毎朝2時に起きる。6時には配達終了。学校に行くまでの(一人は明治大学3年生、もう一人は読売系の機械専門学校生)約2時間、朝食を取りながら新聞を読んだり、授業の準備をしたりするという。 

 夕刊配達のため、二人とも3時以降の授業は取れない。夕刊を配り終わり、翌朝2時起きに備えて早く休む。こういう生活をしている人たちのおかげで、私は安楽に自宅で好きな新聞を読めるんだなあ。 

 二人の月収は手取り10万円から14万円。一人は読売の寮に入っているし、もう一人は販売店に住み込んでいる。目下二人とも就職活動をしている。機械専門の人は自動車会社への就職を希望しているが、これは至難の技だ。明治の子は、故郷青森に戻り、地元での就職を考えているとか。ラジオから流れてくる二人の青年の知的な声を聞くと、日本もまだまだ大丈夫そうだなと思ったりする。  

 朝刊を隅から隅まで読むと、ゆうに1時間半ぐらいはかかる。これに夕刊を加えると、一日に得る情報量は半端なものではない。旅行に出て、戻ると朝刊、夕刊が山のように溜まっている。これを次から次へとこなしていくのはけっこうな労力だ。でも紙面から得られる情報は何ものにも替えがたい。昔に比べると、記者の質が落ちてきたが、たまにいい記事に出会うと得をしたような気分になる。

2009/03/19

イラク開戦って何だったのか。

  朝刊の目次に「明日でイラク開戦6年」という見出しがあった。6年前と言えば、留学先の晋州で、とうとう開戦するのかという何とも重たい気分になったことをありありと覚えている。当時は、ノ・ムヒョン政権だったが、発足2年目にして、野党による弾劾裁判要求があって、これまた何とも重苦しい空気が流れていた。日本も韓国もUSAの同盟国として、イラクに参戦した。なんとまあ愚かな話だったことか。

 
 イラクの核施設疑惑はガセネタだとわかり、戦争につきものの大義名分の胡散臭さを再認識させられたものだ。今だって、関係諸国はなんの反省もしていない。USAの代償はあまりにも大きく、その傷は、何十万人にも及ぶ「イラク派遣兵士の脳挫傷」という、この上もなく残酷な結果を招いた。言うべき言葉もない。「脳挫傷」。どんなにひどい衝撃を受けたのか想像を超える。

 戦争が終わっても、後遺症は終わらない。こんな馬鹿げた戦争を仕出かしたブッシュの愚かさにはこれまた言葉もないが、それに何の見識も持たずにホイホイと乗った日本、そして韓国。いつまでUSAのYES Manでいるつもりなのか。考えることをやめたら、結局、戦争の愚かさが繰り返されるだけだ。

 あれから6年。韓国も政権が変わり、日本は何人目になるのか忘れたが、誰に代わっても、愚かな首相であることには変わりないままだ。韓国の李明博はイ・ミョンバクという名前のアルファベットをもじって、2MBと呼ばれ、ほとんどの国民から支持されていない。

  USAの傲慢な経済政策の大失敗に端を発したこの度の経済危機も、なるべくしてなったという感があるが、韓国経済も日本経済もすぐさま連動して、未曾有の危機である。危機はチャンスだというスローガンの下、この際、自然淘汰されて、本当に質のよいものだけが生き残っていけばいいと思うのだが、いやあ、驚いたね、USAの某保険会社の幹部のボーナスが6億円だってさ。オバマが腹を立てるのも当然だね。狂ってるね、ほんとに。

2009/03/15

2カ月ぶりに美容院へ、そしてマーシャルのこと。

 気温はさほど高くはないが、日が射して春の陽気だ。2カ月ぶりの美容院。いつものようにショートカット。目をつぶって切ってもらっている間に、晋州で通っていたマーシャルの美容室のことを思い出した。マーシャルは、どうしているだろう。相変わらず店はゴタゴタして、おしゃべりなアジュモニたちで賑わっているんだろう。留学の2年間、毎月1回通っていた、中央市場に近い韓方薬局の3階にあった古びた美容院。1階の薬屋からいつも漂っていた漢方薬の匂いと、支払いを済ませたあと、ニッっと笑って、「いつでも遊びにおいで」と言ってくれたマーシャルの温かいまなざしが忘れられない。結局、カットの日以外に彼女を訪ねたことは一度もなかった。慶南サトリの強いマーシャルと対話が成り立つとも思えなかったし、月に一度、彼女の顔を見れば、私はそれで満足だった。 

 春が来て、晋州の乾燥した春も思い出した。山火事があちこちで起きて、大気は極端に乾燥し、喉の弱い私はいつも春に寝込んだものだ。たいして熱が出るわけでもないのに、喉の痛みといつまでも続く乾燥に身体がついていけなくなるのだ。ワンルームでひとり横になっていると、異国の空の下、私はひとりなんだなあとしみじみとした気分になる。ひとりでいることをこよなく愛するにしても、やはり今でも大陸の春の乾燥を思い出すと、そこはかとない荒涼とした気分に浸れる。 

 チンダルレが咲いて、ケナリのまっ黄色の大群に圧倒され、サクラが咲き始めると、晋州は暑くなってくる。その陽射しの強さは、韓国南部特有の日の光だ。冬もさほど寒くならず、オンドルの温もりに怠惰な日々が流れていく、そんなことを美容院の椅子に座ったままありありと思い出して、近いうちに晋州に行きたいという衝動にかられた。

2009/03/14

Macに挫折した。

 ハードとソフトが一体化したマッキントッシュの世界は、私からすると、閉じた世界だ。かなり排他的で、デザインの完成度のみにすっかり自己満足したアップル社の態度に腹が立つだけだ。
 
 8年前にパソコンを始めたとき、ウィンドウズにするか、マッキントッシュにするか、少しは悩み、知り合いに相談もした。当時からマッキントッシュは少数派。互換性を考えたら、やはりウィンドウズに落ち着いた。Windows 98からスタートして、 Windows XPはかなり完成度の高いOSに成長したと思う。韓国語、日本語の変換も昔のことを考えたら、雲泥の差である。多言語対応のXPは完成度が高い。

 右クリックの存在しないマウスなんて、マウスではない。何を考えているんだろう、アップル社。ウィンドウズのExplorerに当たるのが、マックの Saphari なんだけど、このほかにOperaという窓も開く。当初、サファリでダメなら、オペラを使わざるを得ないサイトもあった。サファリ一つで対応できないということは、それだけマックが不完全だということだ。

 音楽は出ないは、コメントの書き込みは見えないはで、これは私のパソコン・ライフとは相容れないと判断。マックは家人に譲った。

 さて約1週間ぶりにウィンドウズの世界に生還して、私は満足だ。あの不自由な日々は何だったのか。自己完結したアップル社のナルシズムよ、さよなら。マック & アップル社、勝手に自己完結してなさい。

2009/03/13

スパイの存在。

 TVに映る金賢姫と拉致被害者対面の様子を見ながら、いろいろと考えるところがあった。

 金賢姫という人物も、考えてみれば実に数奇な運命の持ち主だ。休戦状態にある韓国と北朝鮮との緊張関係を嫌というほど思い出させてくれる。1987年に151名もの韓国人乗客を爆死させた実行犯が、死刑にもならずに韓国で生きて来た、いや、生きて来させられたと言った方がいいかもしれないが、とにかく、個人の意思とは関係なく、国家の意思で生かされてきたわけだ。

 工作員とか、スパイなんて、冷戦時代の映画や、ナチス関係の映画に出てくる、スリルとサスペンスの申し子以外の何者でもなかった。ナチ抵抗運動での、緊張を強いられるスパイ活動、007の痛快な物語などで見たり聞いたりしてきたとしても、それはあくまで自分とは直接関係のない「お話」や過ぎ去ってしまった歴史上の存在に過ぎなかった。

 南北分断という現在進行形にある韓国人にすれば、工作員、スパイ、間諜は驚くほど身近な存在なのだ。12年前に私たちがソウルに滞在していたときも、ソウル大学のある有名な教授が、実は北から送り込まれていた工作員だと判明したという事件があって、知り合いの韓国人がかなりショックを受けていた。

 教育というものは恐ろしい。1999年に映画「シュリ」が大ヒットして、韓国で初めて北の工作員の日常生活が明らかにされるまで、韓国人の多くは「北の人間には角が生えている」「北の人間は人間の形をしているが、本当の人間ではない」などということがまことしやかに信じられてきたそうだ。だから「シュリ」は、韓国ではかなりエポックメイキングな映画になったという。

 「北の人間も同じ人間だったんだ。自分たちと同じように恋もするし、悩みもする。何だ、角なんか生えていないじゃないか」、こういった反応が当時韓国で爆発的な大ヒットを記録する背景にあったという。日本でもほぼ同時期にヒットしたが、それは噂に聞いていた南北の対立の裏舞台が映画化されたからであって、韓国で人々がこんな反応をしていたなんて想像もしなかった。

 「角が生えている」と言えば、韓国での反日教育も似たようなものだったらしい。「自分たちが大陸から伝えた文化の恩恵を受けているくせに、日本人はその恩を仇で返した、鬼のような存在だ。同じ人間とは思えない」、こういったふうなステレオタイプの日本人像を小さいときから植え付けられていた世代が実際にあったのだ。そしてこの事実がそれほど昔の話ではないということに驚くのだ。

 「生まれた時代が悪いのか、それとも俺が悪いのか」という70年代に流行った歌の一節ではないけれど、いつの時代に生まれたかということがその人の人生を大きく左右するということは確かにある。インターネットの普及で、国境などとうに消えてしまった現代に生きていることのありがたみを思わざるを得ない。

 子供の数が減ったのに、ちっとも余裕の感じられない昨今の教育界だが、爆弾で死ぬ恐怖にも見舞われず、軍隊に行く必要もなく、生きて行かれる日本人の子供たちはとりあえず幸せだと言わざるを得ない。引きこもりや、自殺が増えているし、子供たちの目を見ても、ちっとも生き生きしていない様子を電車などで見かけるけど、命の保障をしてもらって、十分な教育を受けさせてもらっているのだから、それ以上を望むのは贅沢というものだ。

 ただし、管理教育の中でどこまでその子独自の自発性や独創性が発揮できるかは、別の問題である。

2009/03/11

あなたは何型?

  人間にもアナログ型とデジタル型があるような気がする。デジタル型は二進法で展開する。ある意味、単純なのだが、実は融通性が要求される。一方、アナログ型はあらゆる現象に柔軟に対処するべくその受け皿は複雑怪奇にならざるを得ない。

 早い話が、私はデジタル型の人間だ。構造は単純なのだが、思考に融通性がある。0 or 1の2つに一つの選択をほとんど何も考えずにパッパッと処理していける。間違えたら、また元に戻って、やり直せばいいだけの話だ。試行錯誤型の人間にはうってつけのタイプだと言えるかもしれない。マニュアルの類を読むのが好きでない。目の前の現象をtrial and errorで何とか処理していく。哲学用語で言えば、演繹法ではなく、帰納法だ。まず一般論があるのではなく、「個々の特殊な事柄から一般的原理や法則を導き出す」と言うことだ。

 だから、書店に並ぶHow to 物にほとんど関心が持てない。あくまで「私」という観点から出発して、あちこち衝突しながら自分なりにマスターしていくというのが好きだ。これは能力の問題ではなくて、好き嫌いの問題なのだと思う。

 家人は私とは対照的に演繹派である。コンピューター一つとっても、ソフトをやたら買い揃えて、ああだこうだと機械と格闘している。私から見ると、ご苦労様の一言だ。材料をきっちり揃えて料理するというやり方に私は親しめない。

 ましてやMacはハードとソフトが一体化され、一つの世界がすでに構築されているものだ。これにWindows方式を当てはめようとするのは、土台無理がある。寄せ集めのソフトにメーカー各社が作ったハードを対応させて稼働する従来のやり方がMacに当てはまる訳がない。

 もちろん基本は押さえておく。でもその後はMacに寄り添って素直に展開していけばいいのだ。どうも家人のやり方は気に入らない。当分いざこざが続くような気がする。まあ、そのプロセスを楽しめがいいのだ。

2009/03/08

明日からパソコンが変わる。

 2000年から始めたパソコンはWindows一点張りだったが、明日からいよいよMacの世界だ。キーボードやマウスの使い方が微妙に違うらしいし、ソフトも一体となったマッキントッシュの世界、楽しみでもある。長い間使っていたOutlookとも Explorerともお別れだ。 

 グラフィック分野に比重が置かれているので、今後、写真の処理なども楽しめる。Macに切り替えた理由の一つにWindowsのソフトがそっくりインストールできるようになったということも大きい。Macを使い込めるようになるまで、時間を要するだろうが、次元の異なったインターネットの世界を楽しみたいと思う。

2009/03/05

Seoul 1997 その2

 あの当時、携帯もパソコンもなかった。その代わりにあったのが、BB(ビッピー)。今、BBのこと覚えている人がいるだろうか。呼び出しベルのことだ。小さな画面に相手の電話番号が表示され、街を歩いていてこれが鳴ると、急いで公衆電話ボックスに入り、暗証番号を押して、先方のメッセージを確認したり、先方に直接電話をかけたりしていた。持ち歩きの留守番電話と言ったらわかりやすいだろうか。グリーン色のマッチ箱ぐらいのBBを腰に下げて、私はソウルの街を歩き回ったものだ。 

 4月に撮った写真がどういうわけか、黄ばんで見える。ペンタックスのフィルムカメラで距離も絞りも勘案しながら撮影したのに、どういうことか。決して安くないレンズがとうとうイカレタのかとがっくりきた。そのうち、原因は黄砂にあるということに気がついた。中国から黄砂が直接やってくる。黄色い煙が舞い上がり、ケナリの真っ黄色もかすんでしまうほどだ。 

 今、私の必須アイテムになってしまった、ノートブックパソコン、デジタルカメラ、携帯電話、この3つが一切なくても、それなりに生活を楽しんでいた自分がいた。しょっちゅう連絡を取り合わなくても、友人関係は良好だったし、撮影したフィルムを預けて、それが出来上がるまでの時間を楽しんだし、ブログやメールがなくても、日記や手紙があった。日本までの航空便は今よりずっと時間がかかり、急ぎの用事はFaxでやり取りもした。 
 
 軽い気持ちでキーボードを打つ代わりに、ボールペンと修正液で書いた手紙をどれだけたくさん出したか知れない。計り知れない数の写真を撮ったが、フィルム1本に納得のいく写真が数枚あればいい方だった。失敗すれば、簡単に削除できるようになった分、写真1枚の重みがなくなった。  

 手間暇かけていくということから遠ざかってしまったことを思うと、12年という歳月の中で失ってしまったものが何だったのかと考えないわけにいかない。いずれにしても言えることは、筆まめな人は、筆まめだし、筆不精の人は手段が簡易化されても、筆不精のままだということだ。

2009/03/04

閑話休題、タイミングの話。

 タイミング。自分にとってタイミングのいい人と悪い人っているよね。これはもう、縁がある人、ない人と言ってもいいんじゃないかと最近思うのだ。タイミングの悪い人は、驚くほど悪い。いい人は感心するほどいい。タイミングの悪い人は知らず知らずのうちに削除の対象になっていく。

 削除。随分残酷な響きだ。でも人生の半分以上をとっくに過ぎた私としては、削除せざるを得ない。新しい出会いが次から次へと訪れるからだ。新陳代謝していくしかない。 

 メールを出して、1週間以上も梨のつぶての人って、よくいるよね。でも、手書きの手紙でさえ、出した翌日には着く世の中、電信メールの有効期限は20分だと、アメリカのビジネスマンなら言うだろう。アメリカ式はオーバーだとしても、何のためのメールなんだろう、急いで返事が欲しいから、メールにするんでしょうが。「打てば響け」の感覚で言えば、すぐに響かなきゃアウトだね。  

  メールにモタモタしている人は、実はほかのことでもモタモタしている。メールの賞味期限は最大限譲って、3日だと私は思う。それだけ現代人は気が短くなっているのかもしれない。

 メールの返事がまともにできないのなら、パソコンに向かう必要はない。パソコンに向かう時間があるなら、メールにまともに対処せよと言いたい。調子狂うんだよね。こっちが出したのも忘れた頃に、来る返事。飛脚の時代でもあるまいに。  

  ということで、時間間隔の違いから縁遠くなっていった人は数知れない。それでもタイミングの妙にいい人はいるもので、削除したとたんに私の画面に登場したりして、苦笑するしかない。  

2009/03/03

1997 Seoul その1

 そうなのだ。12年前の4月、私たちはほとんど知り合いのいない韓国という国の首都に降り立った。もちろん保証人の先生はいたが、彼は友だちでもなんでもないし、家人が1,2度会っただけの人だった(今では全く音信不通)。海外赴任のサポートなんてものは一切なかった。ガイドブックの類も一切ない。会社勤めでなかったから、組織ぐるみの背景やサポートもあるはずがない。ないから自分たちで解決していくしかなかった。 

 韓国語がほとんどできないという、今思うとぞっとするような条件の下、子供が言葉を一つ一つ覚えていくように、見知らぬ国の見知らぬ生活習慣に慣れていくしかなかった。12年前はやはり若かった。怖いもの知らずだった。 

 アルファベットならまだ推測がついた。漢字ならすぐに想像できた。でもあのヘンテコリンなハングルの渦の中、ドライ・アイになりながら、時間をかけて、あちこちの掲示板や表示板の文字を解読していくしかなかった。 

 水も違う。電圧も違う。見た目は似ていても、風俗習慣、初めて眼にするもの、耳にするものばかりで、最初の1カ月がものすごく長かった。1カ月経って、日常生活のリズムがつき始めた頃、私は夜、大声で泣いた。ようやくここまで漕ぎ着けた喜びと、誰もこの苦労をわかってくれないだろうというほんの少しの絶望感がないまぜになったような気分だった。  その頃のことを思い出すと、もう前世の出来事のように思える。何代か前の世代が仕出かしてくれた歴史の遺産は重くのしかかってくるし、厄介な国に来てしまったなあという思いと、それにもかかわらず韓国人の情の深さに触れて、このままこの国に永住してもいいかも、などと家人と話したものだ。それほど私たちは韓国に魅了された。言葉を換えて言えば、母国日本に嫌気がさしていたと言った方がわかりやすいだろうか。 

 韓流などという言葉が出てくるなんて夢にも思わなかったあの年の春は、黄砂とともに過ぎていった。折りしも、あのノストラダムスの大予言が取り沙汰された1997年のことだった。

この12年。

 昨日はつかの間の晴れ間だった。風が冷たいのに、光が妙に明るすぎて「春は名のみの風の寒さよ」という歌の通りだなあと思った。春の不安定な陽気がどうしても好きになれない。かと言って、安定した気圧を望むと、それはすなわち太平洋高気圧の天下だ。苦手な夏が来ることは、まだ考えないようにしている。

 今週はずっと天気が悪い。今日の午後には雪が降るという。沖縄の陽光を浴び、仙台の雪雲を見上げ、東京に戻ると、ずーっと寒く暗い天候が続いている。こんなときはたまった紙類の処分をしよう。BGMはやはり沖縄音楽だ。気分だけでも南の島。

 ふいに思い出す時がある。ソウル滞在時代お世話になったアパートの警備員のアジョシのことだ。彼らとは当時会って以来、会うこともなくなった。どこかで生きているだろうとは思うが、この経済恐慌の中、どこでどうしているだろう。 

 友人や知り合いとは携帯やメールアドレスがあるからいつでも接触できる。でも彼らとは連絡の手段もない。実は毎日の生活で彼らほど世話になった人たちはいないのだ。言葉も碌にできなかった私たちに本当によくしてもらったという思いしかない。 

 あれから12年の歳月が流れた。言葉も随分通じるようになったし、読み書きも格段に進歩した。今、彼らと会って話ができたらどんなにいいだろう。安東の方言が強いアジョシの言うことも、江原道訛りが残ったアジョシの言葉も全部聞き取って、こちらの言いたいことも全部言えただろうに。 安東アジョシの息子はまだ音楽をやっているだろうか。江原道アジョシの子供たちはみんな独立したんだろうなあ。もしかしたら、孫だってできたかもしれない。 

 この12年は私にとって、疾風怒濤の12年だったと言ってもいいだろう。初めての外国生活、韓国語との格闘、雑誌の発行、留学生活、祖母、叔父、父の死。12年の間に得たものと、失ったものは思いの外大きい。これからの12年がどうなるか皆目検討がつかない。でも、引き続き、私は韓国と関わっていくだろうと思う。情熱を注げる対象を中年になって得たこと、一体誰に感謝したらいいだろう。

2009/02/28

危機はチャンスだ。

 仙台から戻った翌日、私たちは、来日中の韓国の崔先生や出版社の社長と渋谷で会った。崔先生は、関西で資料の収集に当たったあと東京に来て、また資料集めに奔走するとのこと。天気はずっと悪いし、関西での収穫は期待外れに終わり、かなり疲れた顔でカフェに現われた。 

 外国での資料収集は疲れる。いくら言葉が出来ても、閉鎖的な日本の研究機関はおいそれと資料提供に応じてくれない。日本の規制緩和は、名ばかりで実がない。昔、コイズミが留学生10万人受け入れ計画というのを発表して、数だけは達成したそうだが、数の問題ではないでしょうが。

 韓国の研究者が日本の研究機関に資料の請求をしようとすると、実に面倒なことが多い。特に国立大学。私立はコネクションがあれば、すんなりいく場合もあるが、国立、公立は相変わらず手続きが煩雑で、「そんなに見せたくないのか」と言いたいほどの排他性を感じる。もちろん韓国の場合も似たような状況があるが、コネクションさえあれば、日本よりスムーズに事が運ぶ。 

 百年に一度の経済危機だそうだが、韓国の場合は本当に深刻だ。来日中の留学生は死活問題だ。その日の為替レートは、100円=1,600ウォンを超えた。崔先生も、円高ウォン安のあおりを受けて、7万円もする日本の資料が実に高くついて、いやになったとこぼした。 

 4人で話込むうちに、崔先生が「危機はチャンスです」と言って、今こそ日韓の知的交流のために民間が動かなきゃだめだ、政府を当てにしていたら、いつになるかわからない、日韓で資料の相互公開に向けて協力すべき時だ、と言って、突然、自分の携帯(ローミングしてある)を取って、韓国の知り合いに電話し始めた。 

 電話の内容は省略するが、要するに、資料をウェブサイトで公開(会員制)して、民間レベルで双方の研究者や研究者の卵に貢献するという、実に壮大な計画である。私たちも出来ることを協力するということになった。もちろん著作権の問題は解決しなければならない。次回、会ったら、具体的なことを話すつもりだ。 

 まさに危機はチャンスだ。止むに止まれない事情の下、草の根で動くしかないということで私たちは大いに発憤した。折りしも、その日は李明博(イミョンバク)政権1周年、オバマの議会演説初日だった。韓国は大統領の任期があと「4年も!」残っていると国民は嫌気がさしているようだし、とてつもない赤字を抱えたアメリカは、希望の象徴オバマによってどこまで挽回できるか、そして日本は...、と考えてみるが、どうも期待できないんだなあ、これが。

2009/02/26

やっぱり寒かった。

 仙台入り2,3日前に雪が降ったというメールをもらい、それなりに防寒準備をしていったのだが、仙台駅に降り立つと、やはり寒い。鉛色の空の下、風も冷たい。 

 夜、韓国料理屋で久しぶりの韓国の味を楽しむ。私たち2人と、地元の大学のK先生、韓国からの留学生、大学院生の計5人で、マッコルリや焼酎を飲みながら、雑誌のこと、韓国での楽しい思い出など語り合い、ホテルに戻ったのはもう0時を過ぎていた。 

 翌朝、朝食を済ませてからK先生と、留学生のS嬢がホテルのロビーまで迎えに来てくれて、4人で鳴子温泉に向かう。駅からバスで1時間ちょっと行くと、かの有名な鳴子温泉だ。雪もけっこう降ってきて、バスの窓から、雪の田園風景を堪能する。 

 温泉街にある国民宿舎で、午後3時まで滞在する。午前中に薬湯に一度つかり、お昼は近くのうどん屋に入る。山菜うどんにお餅がおまけについてきた。身体が暖まっておいしい。鳴子こけしの一番小さいのを買う。手書きなので、表情が微妙に違う。可愛らしいのを選んで買う。 

 宿舎に戻り、再び、温泉に。薬湯にもう一度つかる。午前中に入ったときより、お湯の温度が熱めになっていたので、湯船に入るのがためらわれたが、S嬢が入っているのを見て、覚悟を決めて入る。ああ、極楽、極楽。身体の芯まで暖まり、K先生曰く「放心状態」になった。

 帰りは三角形の二辺を列車で辿って帰る。バスで行くよりも2倍の時間がかかる。何度か乗り換えて仙台駅到着。列車の窓から雪景色を楽しむ。寒いから、ドアは手動式自動ドアになっている。時々、開けっ放しの人がいて、K先生が閉めに行く。 

 仙台に着くと、「東京から仙台までと同じくらいかかっちゃいましたね」と、K先生が苦笑した。バスもいいけど、私はやっぱり汽車や電車が好きだ。地元の高校生やおばちゃんたちが乗ってくるので旅に出たという気分がいっそう湧く。 

 夜はアーケード街付近でうなぎを食べる。鰻まぶしという一品、実においしかった。2次会は彼ら行きつけの店。私は満腹でジュース、あとの3人は日本酒を飲んでいた。ここでも韓国の話で盛り上がる。  

 仙台3日目。午前中に市立博物館に行く。伊達政宗、支倉常長の展示物見る。特に17世紀に日本人として初めてバチカンを訪れた支倉常長のコーナーは面白かった。20分ほどのビデオも見る。キリシタン禁止令が出た後、フィリピンで2年近くも足止めされ、結局、日本を出て7年後に仙台に戻ったらしい。戻ってからのことは何もわかっていない。仙台でも多くのキリシタンが弾圧されたそうだ。博物館の入り口にある池が凍っていた。キリシタンの多くは弾圧により凍死したそうだ。 

 東京に戻ったら、仙台と変わりないくらいに冷えていた。春が来る前はいつもこんな陽気だ。不安定な春の天候が過ぎたら、いきなり初夏になるのだ。大好きな冬も終わり、憂鬱な蒸し暑さの季節もすぐそこだ。  

2009/02/22

今日から仙台に行く。

 北は荒れ模様の春の嵐だったようだ。飛行機も、乱気流でけが人も出た。シートベルトをしていないと、機内天井まで飛び上がる程の衝撃を受けるんだね。怖いね。  

 今日から仙台に行く(2泊3日)。雑誌の打ち合わせも兼ねる。打ち合わせなど今までしたことがなかった。次号8号は別の人が編集を担当する。新しい風が入る。面白くなるだろう。

 仙台は何回か行ったことがある。夏、秋、初冬の仙台、いつも食べ物がおいしくて、緑が豊かで独特の文化がその背後に感じられ、私はこの都市が好きだ。2月の仙台は初めてだけど、一昨日雪が降り、「防水靴を履いてきた方がいい」と連絡が入った。 

 初めて仙台を訪ねたのは夏だった。歌に出てくる「広瀬川」を見て、旅の間中、私は「広瀬川」を口ずさんでいた。市内のケヤキの街路樹が印象的だった。ここも空襲で炎の海になったなんて信じられなかった。広島に比べると、木々が順調に育っている。やはり、原爆の威力は想像を絶する。60年経っても、木々の育ちが悪いままなのだ。原爆で変わり果てた、というか、永遠に元に戻れない広島の土壌を考えると、人類はなんと罪深いことを仕出かしたのかと怒りを新たにする。三好十郎の「冒した者」という芝居を学生時代に見たことがあるが、そのテーマの普遍性は慄然とさせるものだ。そしてどこまでも悲しくなる。 

 仙台のケヤキはまだ芽吹いていないだろうが、早春の街を歩いてこよう。

2009/02/20

人工授精。

 自分の子供が欲しいというのは、生物学的に見て、当然の欲求だろう。人によっては「あなたの子供を産みたい」とか、「君の子供が欲しい」などと言ったり、思ったりするのだろう。 

 遺伝子というのは、基本的に利己的遺伝子の複製のために存在する。子供と親は別の人格だと主張しても、やはり自分の子供は自分以外の何者でもない(と、想像する)。  

 すべての親は、親バカである。もちろん例外は存在するけど、それは表現力の差であって、自分の子供を殺めてしまう親にとっても、子供は自分と一体視してしまう存在なのだ。生物の本質が自己複製だとするなら、自己愛のない人は存在しない。 

 男性の力がどんどん萎えてきているそうだ。精子も脆弱になり、このまま行くと男性は滅んでいくとか。人類は滅びの方向へ向かっているのだ。その方が地球の環境のためにはいいかもしれない。人類発生以来、どれほど地球が傷ついたことか。その地球だって限りがある。人類が滅びるか、地球が瓦解するか、どちらが先か。

 滅びの美学からすると、人工受精というのは、神をも恐れぬ不遜な行為に思えてしかたない。無神論の立場から見ても、この世には説明のできない、人智を超えた何者かが存在するように思えるのだが、生命という、神聖であらゆる不思議の連続の賜物を、人工的に操るといのはどうしてもいただけない。  

 不妊に悩む女性は多い。このストレス社会だもの、順調に妊娠できずに絶望する人もあるだろう。でも生命はやっぱり授かり物という感じがする。動物だってそうだ。人工授精、人の手が加えられた牛や馬の誕生は、どう見ても、則を越えているという気がする。狂牛病だって、不遜な人間が生み出したようなものだ。 

 人工授精によって生まれた子供の追跡調査がどうなっているのかよく知らないが、排卵誘発剤など、その副作用はすぐには現われなくても、何代か後に出現する恐れだって考えられる。そういうことをすべて覚悟した上で、女性は子供を産むのだろうか。それほど止むに止まれない要求なのだろうか。私は密かに心配している。  

 先日、新聞に載っていた14人(8人+六つ子)の人工授精児の母親の写真、ちょっとぞっとしてしまったのだ。