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2009/02/28

危機はチャンスだ。

 仙台から戻った翌日、私たちは、来日中の韓国の崔先生や出版社の社長と渋谷で会った。崔先生は、関西で資料の収集に当たったあと東京に来て、また資料集めに奔走するとのこと。天気はずっと悪いし、関西での収穫は期待外れに終わり、かなり疲れた顔でカフェに現われた。 

 外国での資料収集は疲れる。いくら言葉が出来ても、閉鎖的な日本の研究機関はおいそれと資料提供に応じてくれない。日本の規制緩和は、名ばかりで実がない。昔、コイズミが留学生10万人受け入れ計画というのを発表して、数だけは達成したそうだが、数の問題ではないでしょうが。

 韓国の研究者が日本の研究機関に資料の請求をしようとすると、実に面倒なことが多い。特に国立大学。私立はコネクションがあれば、すんなりいく場合もあるが、国立、公立は相変わらず手続きが煩雑で、「そんなに見せたくないのか」と言いたいほどの排他性を感じる。もちろん韓国の場合も似たような状況があるが、コネクションさえあれば、日本よりスムーズに事が運ぶ。 

 百年に一度の経済危機だそうだが、韓国の場合は本当に深刻だ。来日中の留学生は死活問題だ。その日の為替レートは、100円=1,600ウォンを超えた。崔先生も、円高ウォン安のあおりを受けて、7万円もする日本の資料が実に高くついて、いやになったとこぼした。 

 4人で話込むうちに、崔先生が「危機はチャンスです」と言って、今こそ日韓の知的交流のために民間が動かなきゃだめだ、政府を当てにしていたら、いつになるかわからない、日韓で資料の相互公開に向けて協力すべき時だ、と言って、突然、自分の携帯(ローミングしてある)を取って、韓国の知り合いに電話し始めた。 

 電話の内容は省略するが、要するに、資料をウェブサイトで公開(会員制)して、民間レベルで双方の研究者や研究者の卵に貢献するという、実に壮大な計画である。私たちも出来ることを協力するということになった。もちろん著作権の問題は解決しなければならない。次回、会ったら、具体的なことを話すつもりだ。 

 まさに危機はチャンスだ。止むに止まれない事情の下、草の根で動くしかないということで私たちは大いに発憤した。折りしも、その日は李明博(イミョンバク)政権1周年、オバマの議会演説初日だった。韓国は大統領の任期があと「4年も!」残っていると国民は嫌気がさしているようだし、とてつもない赤字を抱えたアメリカは、希望の象徴オバマによってどこまで挽回できるか、そして日本は...、と考えてみるが、どうも期待できないんだなあ、これが。

2009/02/26

やっぱり寒かった。

 仙台入り2,3日前に雪が降ったというメールをもらい、それなりに防寒準備をしていったのだが、仙台駅に降り立つと、やはり寒い。鉛色の空の下、風も冷たい。 

 夜、韓国料理屋で久しぶりの韓国の味を楽しむ。私たち2人と、地元の大学のK先生、韓国からの留学生、大学院生の計5人で、マッコルリや焼酎を飲みながら、雑誌のこと、韓国での楽しい思い出など語り合い、ホテルに戻ったのはもう0時を過ぎていた。 

 翌朝、朝食を済ませてからK先生と、留学生のS嬢がホテルのロビーまで迎えに来てくれて、4人で鳴子温泉に向かう。駅からバスで1時間ちょっと行くと、かの有名な鳴子温泉だ。雪もけっこう降ってきて、バスの窓から、雪の田園風景を堪能する。 

 温泉街にある国民宿舎で、午後3時まで滞在する。午前中に薬湯に一度つかり、お昼は近くのうどん屋に入る。山菜うどんにお餅がおまけについてきた。身体が暖まっておいしい。鳴子こけしの一番小さいのを買う。手書きなので、表情が微妙に違う。可愛らしいのを選んで買う。 

 宿舎に戻り、再び、温泉に。薬湯にもう一度つかる。午前中に入ったときより、お湯の温度が熱めになっていたので、湯船に入るのがためらわれたが、S嬢が入っているのを見て、覚悟を決めて入る。ああ、極楽、極楽。身体の芯まで暖まり、K先生曰く「放心状態」になった。

 帰りは三角形の二辺を列車で辿って帰る。バスで行くよりも2倍の時間がかかる。何度か乗り換えて仙台駅到着。列車の窓から雪景色を楽しむ。寒いから、ドアは手動式自動ドアになっている。時々、開けっ放しの人がいて、K先生が閉めに行く。 

 仙台に着くと、「東京から仙台までと同じくらいかかっちゃいましたね」と、K先生が苦笑した。バスもいいけど、私はやっぱり汽車や電車が好きだ。地元の高校生やおばちゃんたちが乗ってくるので旅に出たという気分がいっそう湧く。 

 夜はアーケード街付近でうなぎを食べる。鰻まぶしという一品、実においしかった。2次会は彼ら行きつけの店。私は満腹でジュース、あとの3人は日本酒を飲んでいた。ここでも韓国の話で盛り上がる。  

 仙台3日目。午前中に市立博物館に行く。伊達政宗、支倉常長の展示物見る。特に17世紀に日本人として初めてバチカンを訪れた支倉常長のコーナーは面白かった。20分ほどのビデオも見る。キリシタン禁止令が出た後、フィリピンで2年近くも足止めされ、結局、日本を出て7年後に仙台に戻ったらしい。戻ってからのことは何もわかっていない。仙台でも多くのキリシタンが弾圧されたそうだ。博物館の入り口にある池が凍っていた。キリシタンの多くは弾圧により凍死したそうだ。 

 東京に戻ったら、仙台と変わりないくらいに冷えていた。春が来る前はいつもこんな陽気だ。不安定な春の天候が過ぎたら、いきなり初夏になるのだ。大好きな冬も終わり、憂鬱な蒸し暑さの季節もすぐそこだ。  

2009/02/22

今日から仙台に行く。

 北は荒れ模様の春の嵐だったようだ。飛行機も、乱気流でけが人も出た。シートベルトをしていないと、機内天井まで飛び上がる程の衝撃を受けるんだね。怖いね。  

 今日から仙台に行く(2泊3日)。雑誌の打ち合わせも兼ねる。打ち合わせなど今までしたことがなかった。次号8号は別の人が編集を担当する。新しい風が入る。面白くなるだろう。

 仙台は何回か行ったことがある。夏、秋、初冬の仙台、いつも食べ物がおいしくて、緑が豊かで独特の文化がその背後に感じられ、私はこの都市が好きだ。2月の仙台は初めてだけど、一昨日雪が降り、「防水靴を履いてきた方がいい」と連絡が入った。 

 初めて仙台を訪ねたのは夏だった。歌に出てくる「広瀬川」を見て、旅の間中、私は「広瀬川」を口ずさんでいた。市内のケヤキの街路樹が印象的だった。ここも空襲で炎の海になったなんて信じられなかった。広島に比べると、木々が順調に育っている。やはり、原爆の威力は想像を絶する。60年経っても、木々の育ちが悪いままなのだ。原爆で変わり果てた、というか、永遠に元に戻れない広島の土壌を考えると、人類はなんと罪深いことを仕出かしたのかと怒りを新たにする。三好十郎の「冒した者」という芝居を学生時代に見たことがあるが、そのテーマの普遍性は慄然とさせるものだ。そしてどこまでも悲しくなる。 

 仙台のケヤキはまだ芽吹いていないだろうが、早春の街を歩いてこよう。

2009/02/20

人工授精。

 自分の子供が欲しいというのは、生物学的に見て、当然の欲求だろう。人によっては「あなたの子供を産みたい」とか、「君の子供が欲しい」などと言ったり、思ったりするのだろう。 

 遺伝子というのは、基本的に利己的遺伝子の複製のために存在する。子供と親は別の人格だと主張しても、やはり自分の子供は自分以外の何者でもない(と、想像する)。  

 すべての親は、親バカである。もちろん例外は存在するけど、それは表現力の差であって、自分の子供を殺めてしまう親にとっても、子供は自分と一体視してしまう存在なのだ。生物の本質が自己複製だとするなら、自己愛のない人は存在しない。 

 男性の力がどんどん萎えてきているそうだ。精子も脆弱になり、このまま行くと男性は滅んでいくとか。人類は滅びの方向へ向かっているのだ。その方が地球の環境のためにはいいかもしれない。人類発生以来、どれほど地球が傷ついたことか。その地球だって限りがある。人類が滅びるか、地球が瓦解するか、どちらが先か。

 滅びの美学からすると、人工受精というのは、神をも恐れぬ不遜な行為に思えてしかたない。無神論の立場から見ても、この世には説明のできない、人智を超えた何者かが存在するように思えるのだが、生命という、神聖であらゆる不思議の連続の賜物を、人工的に操るといのはどうしてもいただけない。  

 不妊に悩む女性は多い。このストレス社会だもの、順調に妊娠できずに絶望する人もあるだろう。でも生命はやっぱり授かり物という感じがする。動物だってそうだ。人工授精、人の手が加えられた牛や馬の誕生は、どう見ても、則を越えているという気がする。狂牛病だって、不遜な人間が生み出したようなものだ。 

 人工授精によって生まれた子供の追跡調査がどうなっているのかよく知らないが、排卵誘発剤など、その副作用はすぐには現われなくても、何代か後に出現する恐れだって考えられる。そういうことをすべて覚悟した上で、女性は子供を産むのだろうか。それほど止むに止まれない要求なのだろうか。私は密かに心配している。  

 先日、新聞に載っていた14人(8人+六つ子)の人工授精児の母親の写真、ちょっとぞっとしてしまったのだ。

2009/02/19

어린 왕자 M君

 楽天のブログでたびたび登場していたM君。今年の7月で就職して丸3年を迎える。ソウルに行くたびに会うのだが、私はなぜか彼の動向が気になる。元気に働いているだろうか、社長によくしてもらっているだろうか、ガールフレンドは出来ただろうか。時折送られてくるM君のメールや、私の韓国語のブログの安否掲示板に残った彼のコメントに一喜一憂したりしている。 

 沖縄に出かけている間にM君から安否掲示板に連絡があった。

 「携帯にも自宅にも電話したけど、応答なし。すぐに電話下さい」とある。携帯に着信記録はない。国際電話カードの番号もメモして出かけなかった。しょうがないので、「身体の具合でも悪いのか、帰宅したら、連絡するけど」と彼のブログの安否掲示板にメモを残した。 

 実は1月末に、M君から珍しく長いメールをもらっていた。「呼吸しても苦しい。左わき腹を下にして横になると、痛くて眠れない。声も思うように出ない。近所の内科に行ったが、どこも異常なし。ソルラルで実家に戻ったとき、行きつけの病院で検査を受けたが、やはり異常なし。今は少し落ち着いてきたけど、この先どうなるかわからない。状態が悪くなれば、連絡も思うようにできないから、メールを送りました」。 

 私は非常に驚いたが、検査の結果に異常がなかったのだからひとまず安心した。ストレスから来るものだろうか、いずれにしろもう少しきちんと検査して、少しよくなったら連絡するようにと返事した。 

 M君は、肋骨を折っていたのだ。手術も無事済み、2日後には退院できるというときに安否掲示板にメモを残したのだった。肋骨骨折だったなんて、そりゃー痛かっただろう。それにしてももっと早い時期にX線撮影でわからなかったのだろうか。 

 今心配しているのは、彼の勤務のことだ。手術を受けるときの社長の態度があまりにもひどかった、人間味に欠けていた、だから僕はすごいショックを受けている、転職する。7月を待って、どこかよそに移るというのだ。この不況下に、3年も勤め上げた会社を辞めて行く所があるのだろうか。  

 韓国の労働現場は、はっきり言って前近代的だ。労働組合がある会社は限られている。労働者の権利よりも経済発展最優先で今まで突っ走ってきた。一流企業とされているサムソンには労働組合もないし、その人間性を抑圧したような会社組織は皆の知るところである。 

 韓国には、M君が勤めているような零細企業が多く、そのほとんどは従業員というより、社長の下僕のような扱いでこき使う。残業手当も有給休暇も、ない。年俸制だが、この3年間昇給の話はなかったそうだ。  

 100年に一度の世界恐慌の今、経済発展、景気回復云々よりももっと大切なことを振り返る時期なのではないか。危機はチャンスだと、いろいろ工夫している企業も出てきた。停滞の中で生き延びる方法はいくらでもあるのではないか。コンピューターの発達で、人員削減はこの先も続くだろう。コンピューターにできないことは、たくさん残されている。闇雲に数字だけを追いかけるのはもういい加減にやめにしたらどうだろう。 

 ということでM君の近い未来をじっと見守るしかない。私は優等生やエリートよりも、M君のように非力で要領が悪いが、感性の鋭いところがある人間に魅力を感じる。어린 왕자 頑張れ。

2009/02/17

閉店した永東汗蒸幕

 久しぶりに「ソウルナビ」を覗いてみた。ソウルについてのあれこれ、最新情報も含めてけっこう充実した情報を提供してくれる老舗のサイトだ。ホテルやオフィステルの宿泊予約を時々利用することがある。旅で一番値の張る宿泊費をあらかじめ支払って出発できるので、けっこう重宝している。もちろんソウルナビ価格で安い。宿泊先と、直接電話で交渉しようとしたら、ソウルナビを通さないとダメだと言われたほど、このサイトの影響力は大きいのだ。 

 円高ウォン安で、サイトは相変わらずの活気である。卒業シーズンを控えて各種エステや汗蒸幕の案内も一昔に比べたら随分盛り沢山になってきた。12年前に友人から紹介を受けて時々通っていた江南の永東汗蒸幕(ヨンドン・ハンジュンマク)、あれどうなったんだろうと検索してみたら、ソウルナビのサイトからは見つけられなかった。

 そこは、汗蒸幕の草分け的存在で、日本人にも人気があった。多くのリピーターで賑わっていた頃を知っている私としては、腑に落ちない。ネイバーの検索にかけたら、なんと、2007年に閉店したと出た。とうとう閉店したのね。  

  12年前当時も、IMF金融危機で韓国経済はどん底だった。ウォン安を狙って、外国からの観光客が殺到し、特に日本からは、韓流のその前を行く韓国パイオニアのアガシやアジュモニたちが大挙してソウルに来ていた頃だった。  

   永東汗蒸幕は女性専用でまだ新しく、その清潔さが日本人好みで、よもぎ蒸し、人参湯、フェイス・マッサージ、全身マッサージetc. と、ストレスの溜まったOLたちにとっては極上の癒し施設だった。でも、当時から経営者が何人も代わったり、従業員や、垢すりのアジュモニたちとの間に金銭トラブルが絶えなくて、ここもいつまで持つだろうと、密かに案じていた。  

   でもとにかく、2007年まで続いたんだね。後続の汗蒸幕もソウルのあちこちに誕生したようだが、永東汗蒸幕の閉店は、韓国フリークにとって、一つの時代の終焉を意味するような気がしてならない。当時、韓国ドラマなど一つも知らなかった女性たちが、汗蒸幕を通して、なまの韓国に出会ったわけだ。挨拶程度の韓国語だけで、裸の付き合いをしたようなものだ。それから12年。韓国と、韓国フリークの変貌ぶりには眼を見張るものがある。 

 今では韓国ドラマに接して、本格的に韓国語を学ぶ人が増え、サブカルチャーからアカデミズムまで、韓国に遊学、留学する日本人の数は想像をはるかに超えた。愚かな政治家の一言より、映画やTVドラマの影響がいかに強いかということだ。 

 飛行機でたった2時間ちょっとの隣国は、そうは言っても、「近くて遠い国」ということには変わりはない。

沖縄で撮った写真(順不同)

         糸満市にて

         ハイビスカス(沖縄ワールドにて)



         移設された民家(沖縄ワールドにて)

            首里城 裏門


            博物館に行く道


         沖縄県立博物館


         首里城 守礼門


         沖縄そば店

         福州園         


         那覇市国際通り

2009/02/15

燃ゆる陽 by Tingara            

燃ゆる陽            作詞作曲/米盛つぐみ

燃ゆる陽 異国の風を揺らし
流れは 遥かに 時を変える

南洋 挑む古の民
遠洋 長く果てなくても

幾度も幾度も 寄せては返す
それでもそれでも 夢を見る

燃ゆる陽 旅立つ船を照らし
願いは 遥かな みるやかなや
燃ゆる陽 雲間に 光の路
天まで 遥かに 愛を放つ

斜陽 家路急ぐ群れ鳥
陰陽 深い記憶の底

幾度も幾度も 寄せては返す
それでもそれでも 恋をする

燃ゆる陽 すべての胸に宿る
思いは 遥かな みるやかなや

 沖縄ミュージックグループ Tingaraは、ボーカリスト 米盛つぐみと、 三線 演奏者イシジマ ヒデオのデュオ。沖縄のSENSだと言えばわかりやすいだろうか。1998年に誕生。インディーズ(独立系、自主販売)系のミュージシャンは沖縄に溢れるほどいる。全国展開している沖縄出身の歌手も多い。キロロなどはその代表格だろう。沖縄方言(琉球語)が入った歌は、心地よく、なんとなく意味もわかる。そのメロディーは、沖縄の音階に沿ったもので、叙情的でやはり心地いい。

 沖縄にはこのほかにも琉球Under Groundなどインディーズ系のグループが多い。沖縄はインディーズの宝庫である。

みるやかなや=未来の 原鄕。 神が住む所、あるいは先祖が暮らす所。

http://www.tingara.com/profile/

2009/02/13

琉球王国と行ってもねぇ~。

 沖縄盛衰の歴史を目の当たりにして、いろいろ考えることが多い。中継貿易で栄えたということは、あっちの物をこっちへ、こっちの物をあっちへ中継して商売したということで、琉球の特産物を育ててきたということではない。サトウキビ、沖縄の塩...などと思い浮かべながら、今の沖縄は、結局、観光でしか食っていかれないのかと思うのだ。 

 中国(当時の明)にも薩摩藩にも忠誠を誓い、過酷な台風シーズンに耐えながら、航海し続けた海の男たちと、その帰りをひたすら待っていた女たちの物語を想像すると、琉球王国という王国の限界を感じる。そして、なぜ王族は、もう少し知恵を働かせて生き延びる術を生み出すことができなかったのか、朝貢、つまり捧げ物に神経を遣い過ぎて、琉球庶民のことまでちゃんと考えていなかったのではないか、あるいはそんな余裕すらなかったのかと考え込んでしまう。 

 沖縄ワールドで見た、紅型(びんがた)、ガラス細工、シーサーの焼き物、黒糖などは、特産物にしてはパワーがなく、紅型(染物)、織物などは当時、王族たちの着物に使われることはあっても、手工業として発達するほどの規模ではなかった。 

 明治以降、突然、日本の一つの県にされてからは、沖縄のアイデンティティーはいよいよ薄まり、沖縄色を捨てて、ヤマトンチュー(大和=日本)に同化していくことに力が注がれていった。そうしなければ、生き延びられなかったのかもしれないが、なんとかならなかったのかなあ。 

 で、結局、日本の犠牲になって、唯一の地上戦の舞台となり、20万人の人が戦死する。戦後は27年間に及ぶUSAの支配だ。1972年に本土復帰となるが、それ以降37年、沖縄は南の島の観光地として何とか生きているという感じがどうしてもしてしまう。

2009/02/12

寒い東京。

 2/11、5泊6日の旅を終えて、東京に戻ってきたのだが、寒い。8℃ぐらいまでしか上がらないと沖縄で聞いていたが、約1週間、亜熱帯気候に身を晒していたから、身体がすっかり亜熱帯性に変貌してしまったのだろうか。東京の冬の寒さがこれほど身に染みるとは。

 東京の冬は湿度が下がるといっても、ソウルに比べれば、高い。12月にソウルに行ったとき、ちょうどその日の羽田は20℃という異常気温だった。ソウルはマイナス7℃。その差27℃だ。それなのに思ったほど寒く感じなかった。冬は、湿度が高いほど、寒く感じる。夏は湿度が高いほど、暑く感じるけど、冬は湿度が低いほど、寒さは和らぐのかもしれない。 

 カラッとした寒さと、じめっとした寒さ。どちらが肌にこたえるかと言えば、じめっとした寒さの方が身に染みる。おまけに日本にはオンドルがない。東京は零下まで下がらなくても、思いの外寒いのだ。

 前回、沖縄バスのことを書いたが、バス会社の名前が違っていたかもしれない。那覇バス、琉球バスがあることを帰る日になって、気がついた。9日月曜日のことは追って書くことにする。

2009/02/10

沖縄バスの運転手さんの話

 沖縄バスの運転手さんの話。

  沖縄は、寒いときで15℃ぐらい。天気が変わりやすく、風が強いときは、寒い。ジメジメしてくると、雨が降る。朝、曇っていてもカラッとしていると、いい天気になる。冬に沖縄に旅行した人は、来た日によって、気温差があるので、「思ったよりも沖縄は寒い」と感じる人もいれば、「さすがに冬でも暖かい」と言う人もいる。

  南部と北部と二つに分けて、ゆっくり楽しむとよい。夕方の飛行機で帰るのなら、北部に寄って帰ることもできるけど、午後早い便だったら、ちょっと無理。開南(かいなん)から南の沖縄ワールドまではバスで40分、停留所に降りたら、ワールドまで1.5キロある。これは何番のバスに乗っても、停留所からワールドまでの距離は同じ。実際に計ってみたから間違いない。お客さんに説明するのに正確を期さないといけないから、歩いてみた。1.5キロ。左へ曲がって、土地改良センターの所を右へ行く。新しい道だからわかりやすい。すると、じきにワールドが見える。 
 
 以上の説明を私たちが降りるときに、お客さんひとりを先に降ろして、5分ぐらいバスを留めたまま、してくれた。後ろの席を振り返ると、まだお客さんがひとり座っていた。  

 36年働いて、今はOBとして月14日間運転している。孫が9人。14日以上は働けない。バス会社が保険費用を負担しないとならなくなるから。まだまだ運転したい。弟は個人タクシーだからまだ現役だ。自分は無線の資格がないから、タクシーはやれない(以上は乗っている間に語ってくれたもの)。  

 停留所に降りて、私たちはバスが曲がっていくまで見送った。沖縄の人は情が厚い。説明を求めると、じっくり話してくれる。沖縄ワールドについては次回書く。

2009/02/08

沖縄を見れば、日本が見えてくる。

 沖縄を見れば、日本が見えてくる。でも、日本を見ても、沖縄は見えてこない。我ながら名言だと思った。  

 沖縄2日目。午前中は県立博物館見学。午後は首里城見学。県立博物館は2007年に新しく建てられたもの。入館者64万人を越えたそうだ。建物のデザインも斬新で、常設展の展示物も工夫が見られ、ここに来れば、沖縄の歴史と文化が手に取るようにわかる。CG映像のおかげで、各時代の変遷や文物が具体的に眼前に繰り広げられるので、複雑な沖縄の歴史が本当にわかりやすく頭に入ってくる。沖縄入門者にはもってこいの施設だ。  

 沖縄の歴史を眺めると、それはそのまま日本の歴史である。表舞台ではなく、裏舞台、負の遺産というか、とにかく日本による沖縄搾取の歴史と言えばわかりやすいだろうか。 
 
 沖縄の悲劇とよく言われるが、その悲劇性は、日本への同化政策がもたらしたものだ。琉球王国のアイデンティティーは時代を追うごとに消えていき、その代わりに日本=大和に同化させられていった歴史の残酷さを目の当たりにして、私は衝撃を受けた。それはそのまま日本の朝鮮植民地化の歴史とも重なる。 

 そうなのだ。沖縄、いや琉球王国は過去から現在に至るまで継続して日本の植民地化の歴史を辿ってきたということなのだ。14世紀から16世紀にかけて隆盛を誇った東シナ海における中継貿易の覇者として、またもう一方の顔では、中国(明)に対する忠誠の限りを尽くした朝貢貿易の実践。 琉球王国の存在は王国の生き残りを賭けた海の物語である。

  ところが、秀吉による日本統一以後、琉球に変化が現れた。薩摩による圧力である。東シナ海での貿易立国として華々しく活躍していた琉球に対して、「おいしいとこ取り」を要求されたのだ。貿易のノウハウを強引に教えろ、貿易の主体を薩摩に譲れということだ。で、薩摩に戦争を仕掛けられ、琉球王国は衰亡する。自衛手段は持っていても、日本のように実戦経験がなかったから琉球はいとも簡単に薩摩の横暴の下に落ちてしまうのだ。

  秀吉という人物がいなかったら、日本の歴史も変わっただろう。信長が暗殺されなかったら、ずいぶんマシな歴史を辿ったのではないかと時々考えていたが、歴史にifはないからしょうがない。秀吉が周辺諸国に与えた影響というか被害は甚大なものだったということだ。年老いてから若い女に狂い、子供まで設けて、さらに親ばかの限りを尽くして、日本の進路を誤ったという感じがしてしょうがない。これは老害だね。老害+親ばかという図式は最悪路線だ。

  沖縄を見ると、日本の侵略路線がよーく見えてくる。そう言う意味では沖縄と韓国・朝鮮は同じ図式の犠牲者ということで共通している。明るい気分になれない。街行く人々が明るい陽光のわりに表情が暗く見えるのは、こちらの思い込みも多少あるかもしれないが、搾取され、奪われ続けてきた人々の恨み、哀しみが彼らに綿々と息づいているように思えてしょうがない。  

 知らないということは罪である。日本にいたまま文部省の教育を受けていたのでは、なあんにも知らずに大人になるだけだ。学校教育というものにハナから懐疑的な私としては、ひたすら腹が立つだけだ。教育よりも教養だ。教養は学校では身につかない。自分で身につける努力をするしかない。

2009/02/07

沖縄には冬がない?!

 那覇到着。あっと驚く初夏の陽気。気温23℃。風、生暖かく、湿度高し。 

 やはり南の島だ。ハイビスカスもブーゲンビリアも咲ききって、花びらが落ち始めている。街路樹は椰子の木。国際通りは、椰子の木通りだ。内地から高校生が大挙して修学旅行に来ている。引率の先生も心なしか浮ついた様子だ。2月は沖縄修学旅行のシーズンだったんだね。夏は暑くてそれどころではないのだなあ。 

 あまりの風土の違い、人々の顔つきの違いに、ここで日本語が通じ、日本円が流通すること自体、不思議に思われるほどだ。台湾のときほどではないにしても、軽いカルチャーショックに浸る。ここは正真正銘亜熱帯の島。

 飛行機で羽田から3時間と言っても、フライト時間は2時間20分ぐらい。日本列島を海沿いに南下し、那覇空港を滑走する時には機内前方大画面にまっすぐな滑走路が見えてきて、まっすーぐどこまでも進み(このまま沖縄島を通り抜けて、東シナ海に抜けるのかと思ったほど)、突然、がたんと着陸した。 

  天気は曇りがち。島だから雲がモクモク湧いているって感じ。人々の表情は思いの外暗い。やけに太った人がいる。全体に小柄な人が多い。タバコを吸う人が多いのも驚きの一つ。歩きタバコもけっこう多くて、私は大いにむせてしまった。  

 夜は沖縄舞踊の公演を見る。公演会場もこの4月で閉鎖される。老朽化のためだ。毎週金曜日に公演があると聞いていたので、今回はいい機会だった。 

 沖縄舞踊のリズム、跳ね上がりたくなるような太鼓のリズム、そこまで日本の影響を受けていいのかと思われるほどの腰を落とした踊りの基本姿勢と、衣装。いくつかの発見があって、実に興味深かった。

2009/02/06

良心的な会社ACE

 2004年のことだから、もう5年も前の話だ。家人が一人用のスーツケースを買った。四輪駆動なのでとても使いやすく、家人が使ったり、私が使ったりとけっこう使い込んできた。

 年末、ソウルから戻るときに、そのスーツケースのサイド・ハンドルがパカッと取れてしまった。サムソナイトのスーツケースだ。インターネットでサムソナイトのホームページを見ると、数年前の購入については、ACE株式会社の担当になっているので、そちらのカスタマーセンターに問い合わせるようにというお知らせが出ていた。

 インターネットを見る前に、実は購入した小売店に電話して、事情を説明し「修理したら費用がどのくらいかかるのか、そもそも修理の方法があるのか」と聞いていた。その返答があまりにも不誠実でいい加減なものだったので、メーカーに直接問い合わせることにしたのだ。

 ACEのカスタマーセンターに小売店の一件など詳しく電話で説明した。本来なら、こっち持ちで往復4,000円ぐらいの宅配便代をかけた上に、修理代が3,000円前後かかるという話だった。先方は小売店のことがひっかかったらしく、その店の連絡先を教えてほしいとのこと。

 翌日、カスタマーセンターから電話があって、小売店の不誠実な態度(のちほど修理に関して連絡すると言っておいて結局、連絡さえなかったのだ)についてはよく承知した、ついてはスーツケースを着払いで送ってほしい、検討して、折り返し連絡するとのことだった。早速送った。

 さらに翌日、連絡が入った。「サイド・ハンドルは付け替えることができます。2週間ほどでお届けできます」という話だった。私は、「必要経費を持ってもらうのでは恐縮する」と伝えたのだが、構わないとのこと。あとはスーツケースが戻ってくるのを待つだけになった。

 そして、思いの外早く、戻ってきたのだ。サイド・ハンドルはもちろん、ハンドルも念のために新しいのと付け替えたとメモにある。今後ともACE製品をよろしくと添えられていた。

 サムソナイト製品は、今はACE委託販売ではなくなり、サムソナイト自体が売るようになったらしい。先般、あるデパートでサムソナイトの出店を覗いたら、ルイヴィトンを思わせるような高級なスーツケースの販売に力を入れていることがよくわかった。スーツケース販売も競争が激しくなり、差別化を図ったものと思われる。

 ACEは昔から浅草にある鞄、バッグの老舗だ。使い勝手の良いバッグなど、私も長く愛用してきたものが多い。今回のカスタマーセンターの対応は特別なことだったにせよ、自社製品に誇りを持って、消費者に良心的に対応している様子がよく見てとれた。おかげで愛用のスーツケースは当分使えることになったが、次回必要があれば、サムソナイトではなく、ACEの製品を検討しようと思った。

2009/02/05

星の王子さま

 私の愛読書というか、バイブルのようになっている『星の王子さま』。フランス語版、日本語版、そして韓国語版を持っている。語学の勉強にはいいテキストにもなっている。 

 この物語の中に、街灯の灯りを点けたり消したりしているおじさんが暮らす星が出てきたでしょ。あの星の話、なかなか含蓄があって私は気に入っている。日常の、無意味に思える繰り返しを象徴しているこの星のエピソード。王子が何を思ったか、よくわからないが、作者のサンテクジュベリの意図したことが最近なぜか重みを持って私に迫ってくるのだ。 

 朝、カーテンをしたまま韓国語の勉強その他をやり、そのうち朝刊が来て、それをざっと眺め、やがて日が昇り、カーテンを開ける。夕方は5時頃には暗くなるから、カーテンを閉めてTVをつけ、夕方のニュースを聞きながら、夕食の準備にとりかかる。  カーテンを開け、カーテンを閉める。そのことだけを見れば、なんの変化もない、同じ動作の繰り返しである。でもなんの変化もないということのありがたさをしみじみ感じるのである。こうして無事にカーテンの開け閉めを滞りなくやっていることの幸せ。これは何ものにも代えがたいことだ。  

 日常に飽き飽きしてくるとか、人間関係に嫌気が射すなんてことはよくある話だ。でもいったん何か事が起こったときには、その退屈な日常のありがたさを再認識するのも人間だ。もちろん変化を求める気持ちは誰にもあるだろう。日々の目的を失って、ただストレスだけが積もっていくといのが大方の現代人の日常かもしれない。  

 でも命の危険に晒されているわけではない。命がある程度保障された上で続く日常である。こんなにありがたいことがあるだろうか。命あってのモノダネ。そのありがたさを時々思い起こして今日もカーテンを開けよう。

2009/02/03

沖縄服装計画

 那覇は、日中22度ぐらいになっている。さて、何を持っていくか。寒いときに暖かい所へ行ったことがないので、皆目見当がつかない。歩きやすいスニーカーに、ジーンズという、いつもの基本ワードローブではあるけれど、長袖の下着はいらないやね。  

 タートルのTシャツも必要なしだね。念のためにスカーフを一枚。それと帽子。陽射しも強いだろうから。脱ぎ着のしやすいパンプスも一足入れよう。

 何しろ初めての沖縄だ。今読んでいるのが高良倉吉(たから・くらよし)著『アジアのなかの琉球王国』吉川弘文館。前読んでいた伊波普猷に比べると、現代の人が書いたので、わかりやすい。琉球、沖縄に対する情熱も感じられ、14世紀から始まった中国との朝貢外交の歴史も面白い。入門書としてはお薦めである。 

 沖縄は、歴史的に見ても地理的に見ても、東シナ海文化圏の中心をなす。東シナ海か。なじみのうすい海だ。中国福建省、そして台湾に至る地図を眺めていて思い出した。10年前の夏に行ったことのある台湾だ。言葉を絶するほどの蒸し暑さだった。 

 海開きはまだにしても、10度以上気温差のある所だ。暑さが苦手の私。ちょっと覚悟して出かけることにしよう。日傘も持っていくかな。

2009/02/02

2月に入って

 1月も無事過ぎた。2009年に入って、どういうわけか私は毎日が充実している。一日一日をとても大切に思いながら過ごしている。忙し過ぎず、かと言って暇過ぎずという感じだ。何事も「過ぎる」と碌なことはない。とくに忙し過ぎると、字の通り、心まで失ってしまいかねない。 

 自分の年齢を考えると、昔は想像だにしなかったことだが、一日一日がとてもいとおしく感じられてくるのだ。「忙しさに取り紛れて」なんて、もったいなくて、そんな過ごし方などしたくない。今日の日は二度と巡ってこないかと思うと、一日を大切に過ごしたいという思いが一層募るのだ。 

 夜明けに苦もなく起きて、日が昇るまでの2時間半は、誰にも邪魔されない私だけの時間だ。7時前に世の中明るくなり、TVをつけて天気予報、ニュースを見る。カーテンを開けて、ああ今日も無事に朝が迎えられたと思う。 

 浅間山も噴火しているし、関東地方にいつ大地震が起こっても不思議はない。毎日怯えて暮らすわけにはいかないから、せめてある意味覚悟をして暮らしていかねばと思う。命さえ助かれば、あとは何とかなる。まだ体力も知力も対応できる年齢だから今の所はありがたい。