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2008/12/31

大晦日  2008年12月31日に公開したブログです。

 今日午後、無事帰国した。雑誌STESSAも完成した。年が明けたら、EMS便で届くだろう。今回で7号を迎えるが、デザインも素敵に仕上がり、文字校正も何とか通過、会心の出来である。

 長年、編集の仕事に携わってきた。いつも完全を目指すのだが、それは叶わない夢だ。校正をいくら繰り返しても、後から後から校正ミスは見つかるし、多くの人の目を通しても、それは同じことだ。印刷事故もつきものだ。編集という仕事は、カミュの「シシフォスの神話」のように、岩を積み上げても積み上げても、岩はその度に谷底に落ちていくのだ。考えてみれば、それは編集の仕事だけに当てはまるのではない。人生そのものがそういった、ある意味、無意味で虚しい作業の繰り返しだとも言える。それでも生きていくしかない。

 年末10日間、かなり疲れもしたが、本当に充実した日々だった。この10年の間に知り合った韓国の友人にまとめて会うこともできた。縁がつながっていく人は不思議につながっていくし、縁が薄くなってきた人は、それになりに薄まっていく。面白い。

 年が明けたら、雑誌の郵送作業だ。日本在住の執筆者にまず送ろう。それが一段落したら、次の8号に取り組むことにしよう。小さな雑誌ではあっても、雑誌作りは私にとって、生きる証でもあるし、何よりも喜びである。

 ブログの読者の皆さん、2009年も充実した良い年になりますように。何よりも健康な年になりますように。

2008/12/21

亡父のこと。

 亡くなって2年が過ぎ、ようやく父はもうこの世のどこにもいないんだという事実を受け入れられるようになった。死に目に会えなかったことがこんなに尾を引くとは想像だにしていなかった。死亡診断書など、書類上でしか父が亡くなった背景を知ることができなかったことは、娘としてどれほど無念だったか言葉に尽くすことができない。でも、病魔に冒されて、見るのもつらい状況を見ないで済んだという点ではよかったのかもしれないと自分に言い聞かせている。

 私が最後に見た父は、まだ55歳。新聞社は退職したが、まだまだ若々しく、現役のジャーナリストとして活躍していたときの父である。  

 11月にソウルへ行ったとき、明洞のカフェでヒョッチャといろいろと話した。その折、亡くなった父のことも話題になったのだが、話しているうちに涙が出てきて止まらなくなった。ヒョッチャも泣いていた。どんなにつらかっただろうと言った。一緒に泣いてくれる友人がソウルにいることに私は感謝した。  

 私は父から多くのことを教わった。高校生のときに初めて飛行機に乗って大阪に連れて行ってくれたのも父だ。春休みだったか、取材に同行したのだが、一流ホテルに泊まったのもそのときが初めてで、シャワーカーテンをこうやって、バスタブの内側に入れて、シャワーを浴びることだとか、ホテル宿泊の際のあれこれ、飛行機搭乗などについて、知らず知らずのうちに指導を受けた。私が一人前の女性として、将来どこに行っても恥ずかしくない程度の知識を与えてくれたのではないかと今頃になって思い当たるのである。  

 取材先にもついて行き、父がインタビューする様子、写真を撮る様子など具に見た。父は写真のセンスも良かったので、カメラマンが同行する場合より、自分で文章も写真も全部やる場合の方が多かったらしい。取材先の父は、家にいるときには見せない表情で、熱心に相手の話を聞き、質問をし、重たいカメラレンズを交換しては(デジタルカメラなどない時代である)、顔から流れ落ちる汗をふき取る余裕もないまま、次から次にアングルを変えて熱心に撮影していた。父が働く現場に立ち会えたことは、今になってみれば、貴重な経験をしたと思う。 

 写真のセンスは、学校で習うものではない。自ら自然に身につくものだ。基本的に芸術的センス、美的センス、審美眼、色彩感覚などはどこに行っても教えてもらえない。これは生まれついてのものだ。私はこれらを父から受け継いだと思っている。父も技術的なことを除けば、私に一切教えてくれなかった。 

 高校入学のときに父からプレゼントされたセイコーの腕時計。手動のねじ巻き式だ。何十年も前にとうとう壊れて、あちこち修理に出しても、「もう中を分解してもダメですよ」と言われた。でも捨てられなかった。  

 それが、急に思い立って、10月にセイコーに問い合わせた。やはりもう昔の型だから部品もない、でも念のために時計修理専門の会社を紹介しましょうと言われ、築地のモントルという修理専門会社にこの時計を持って行って見てもらった。すると、直りますとのこと。分解掃除して、部品を新しくして、ちょっと時間はかかりますけどとのこと。 

 年内は無理だと思っていたら、存外早く修理できたと電話が入り、私は嬉々として築地に行った。あと5年はこのまま行けますよ。その頃またオーバーホールをすれば、ずっと使えます。 

 銀座の三越で新しい革のバンドに交換した。見違えるほど、素敵になった。文字盤が紺色だったのも当時としては洒落たものだった。高校入学を祝って、父が行きつけの銀座の天賞堂で買ってきてくれた時計がとうとう蘇った。 

 明日、この腕時計をして、私はソウルへ行く。

2008/12/20

恥を知りなさい、トヨタ!

 上半期に随分景気のいい数字を挙げて、今年の就職は売り手市場だなんて言っておいて、この後に及んで、なぜ、そんな数字を挙げて、多くの派遣、期間社員を首にし、高卒就職予定者を反故にし、本当にひどい企業体質だ、日本の一流と言われる製造業。

 中でもトヨタ。呆れ返るね、まったく。前社長の奥田なんとかの言葉「朝から晩まで年金、年金...とばかり言うんだったら、うちのCMやめるよ」。やめれば!

 この人の一言はそのままトヨタというアクドイ企業体質を曝け出していることに、どのメディアも触れない。そう、トヨタのコマーシャルで食ってるんだからね、TV局も新聞社も。

 奥田何某の言葉は、言論の自由に対する見過ごすことのできない暴言だよ、まったく。年金問題がここまでこじれたのは、そう、社会保険庁(以下シャホチョウ)、厚生省そして何より、政府が悪い。あのマックスウェイバーも言ってたよね、すべての腐敗は官僚制から来るって。

 どの国も腐敗した官僚制が国民を苦しめている。日本も例外ではないが、それにしてもひど過ぎる。我々が少しずつ払ってきた年金を、遊興費はおろか、日々の弁当代にまで変え、あっと驚く安い宿舎でのほほんと暮らしてきたシャホチョウの面々。許しがたい。

 時間は押してるのよ。当然もらえる年金をもらえないまま亡くなって行く高齢者も出てきているのに。人が足りなきゃ、雇用促進も兼ねて、コンピューターと格闘してほしい。我々が納めてきたアナログの現金と、パソコン上のデジタル数値をきっちり明らかにしてほしい。

 そして、再びトヨタ! 軍事産業で散々儲けて、排出ガスにそれほど神経使わないまま、裸同然の女の子をモデルにして派手なモーターショーをやってからに。その旧態依然とした体質について、私はどこまでも追及したい、ところだが、データ不足。報道関係者、もっと真面目にやって下さい。といっても期待薄だなあ。

2008/12/18

ファイルがあった。

 私が見落としていただけだった。ちゃんと全ページ揃っていた。おまけにデザイナーのコメントまで付いていた。いや~、便利になったものだ。 
 
 日本語部分の漢字がすべて韓国式正字になっているのは今に始まったことではないが、実はこの漢字変換が曲者なのだ。結局、いつも一字一字修正する以外にない。日本語フォントを持っている出版デザイン会社は掃いて捨てるほどあるが、この10年間一緒に仕事をしてきた情というか、仲間意識は捨てがたいので、ぐっと我慢しているというわけ。  

 デザインはほぼ合格点だが、デザイナー自身が日本語を知らない人なので、細かい所になると微妙にニュアンスの違いが出てしまう。出発までに点検して、差し替えの写真などはあらかじめ送ってしまおうと思う。 

  今日、明日が勝負だ。

氷雨そして圧縮ファイル

 外出先から戻ると、留守番電話が入っていた。メッセージなしだったので、またあの話の通じないセールスマンだと思って、とりあえず風呂に入った。身体の芯まで冷え切って風呂にでも入って温まらないといられない。

 風呂から出ると、電話。ソウルのN社長だった。昼間電話しても出ない、メール確認してほしいとのこと。先週末あたりにデザイン第一弾をEMSで送るという話だったのだが、なんの連絡もないので諦めていた矢先の電話だった。急いでメールを確認すると、会社のホーム・ページに入ってログインすれば、雑誌のデザインをすべて見ることができる、ログイン用のIDと暗証番号が書いてあった。 

 言うとおりログインしてみたのだが、何度やってもログイン失敗と表示される。その旨電話すると、では添付ファイルで送ります、さっきEMS便も一応出したけど、週末にならないと到着しないからとのこと。土日到着ではあまりだ。私は月曜日にソウルに行くのだ。飛行機の中でデザインの校正をする羽目になる。それは避けたい。 

 ということで添付ファイルを待つが、圧縮されてもかなりの容量だ。いくつかに分割して送ると連絡入る。その間に夕食を済ますが、ファイルは届かない。9時近くなったので、寝ることにした。メールで、明日、夜明けに確認するのでよろしくと出しておいた。 

 寝入りばなにN社長からの電話。「確認よろしく」。ふらふらしながらメール確認。圧縮ファイルの一部が届いていた。表紙、裏表紙ほか9ページ分。残りはどうなったのか。その旨メールして再び就寝。で、今朝、確認したら、あの後、何も送っていなかった。今日は一日、その対応に追われるだろう。

2008/12/16

怒りの第2弾!

 9月だったか、役所の役人根性について書いたことがあったけど、あの自転車駐輪に関しては、なんの進展もないまま連絡さえ来なかった。わざわざ家の電話まで言わされて、不愉快極まりない。年明けに、もう一度苦情の電話を入れるつもりだ。相手の名前もメモしてある。この粘り強さがなければ、日本は決してよくならない。

 さて、今日の怒りの対象は銀行だ。マニュアル通りにしか働けない、情けない人種のことはさておき、腹が立つのはその硬直したシステムに対してである。

 1.キャッシュ・カードで現金を引き出せないので、その旨を窓口に行って伝えると、カードの磁気に何か問題があるかもしれない、新しくカードを作る必要がある、その手続きをしてほしいとのこと。
 2.その手続きには通帳の印鑑が必要であり、新しいカードが送られてくるまでに1週間から10日かかること。

 カードの不具合は銀行の責任ではないか。韓国だったら、その場で新しいカードに取り替えてくれるよ。印鑑をいつも持って歩くアホがいるだろうか。どうして1週間も10日もかかるのか、年が明けちゃうよ。

 まったく顧客のことをちっとも考えていない、相変わらずの銀行スタイルだ。これは窓口の女の子の責任ではない。銀行のシステム自体の問題だ。銀行のサービスが名ばかりになってから久しいが、我々庶民の税金を銀行再建に使い込まれた上に、こんな仕打ちがあるだろうか。

 あまりの不合理に私は怒りながら、来年のカレンダーを取って、さっさと店を出た。たぶん、この銀行は近い将来潰れると思います。懲りずに外国の不良債権にかなり手を出したらしいからね。一度潰れてみなければ、わかんないんだろうな。自業自得だね。

教保ブックログのこと

 2005年2月から始めた教保文庫提供のブックログ。本来は書評専門のブログなのだが、最近は専らマイストーリーの書き込みをしている。いくつかの項目を立てて、今は「モノローグ」「素朴な疑問」「日本の現実」「私だけの記憶」の4つにして、それぞれ韓国にちなんだことを勝手に書いては楽しんでいる。

 最近はコメントの数が急に増えて、昨日のポスティングにはなんと、40件以上のトックル(コメント)がついた。反応があるのはうれしいのだが、びっしり書き込まれたコメントを読むのも大変だ。でも私はそのおかげで、ハングルを読む速度が速くなった。韓国語読解の上達にはコメントを読むのが一番適しているかもしれない。新聞記事や論文の類よりずっと面白く読めるからだ。

 来週月曜日からまたソウル行きだ。大晦日まで滞在して、雑誌発刊に漕ぎ着けたいところだが、万が一、年内に間に合わなければ、それはそのときだ。また1月になって行けばいい。無理をする必要などないのだから。

2008/12/10

日本のマスコミ、変だぞ!

 NHKテレビをひねれば、冒頭に必ず登場する幼女殺人事件。いつも同じ調子で呆れるほどだ。この事件の容疑者とされている男性についての情報、つまり知的障害があったらしい云々についてはどこの局を見ても、ほとんど触れられていない。

 知的障害者、その他の障害者の「性」の問題は、本人も含めて家族も、特に母親にとって、量り知れないストレスをもたらしているという事実。これを真正面から取り上げるマスメディアがないという情けない実態には、もう絶望するしかない。

 すべての人は文化的、社会的に快適に暮らす権利を持っている。健常者でも障害者でも同じことだ。しかし、障害者にとって快適な生活がもたらされているとは、誰も思わないだろう。
「性」の問題はデリケートなものだし、それは多分に個人の領域に属するから、タブーも多い。でも同じ人間として生まれてきたからには、「性」の喜びも同じように享受されるべきである。にもかかわらず、障害者の「性」の問題は、ほとんど話題にのぼることもなく、陰湿さを帯びてひっそりとした存在となってしまっている。

 よく言われていることは、障害者の息子を不憫に思って、その母親がその相手をするということである。だからと言って、誰がその母親を責める権利があるだろうか。

 最近聞いた話だが、風俗に勤める若い女性がこの実態を憂い、積極的に障害者の「性」の処理を買って出たという。実に見上げた職業意識だと、私は感嘆した。ところが、某週刊誌が彼女を興味本意で取材したそうだ。まったく呆れて物が言えない。

 日本のマスコミ人の水準の低さは、もうだいぶ前から実感していることではあるが、「悪貨は良貨を駆逐する」んだね、まったく。

 以上の情報は、インターネットで知ったことだ。既成のマスメディアがダメなら、もっと良心的で、社会の木鐸となるような、本来のジャーナリズムの誕生を心待ちにするしかないのか。

2008/12/09

実は優柔不断なヒョッチャ

 ソウル滞在中に知り合ったヒョッチャとも、もう11年の付き合いになる。年齢が近いこともあって、話が合うし、彼女のいい点、悪い点もほとんど全部わかっている。人間味があって、何より正直なところが私は好きだ。 

 当時、彼女とは家も近かったので、よくデイトした。「보고 싶다」と電話してきては、突然会いに行ったりして、牧師のご主人も呆れるほどだった。帰国してからも、メールではなくて、手書きの手紙をよくくれた。いつも最後に「会いたい」と添えてあった。ご主人が「僕にはそういう言葉かけたことない」と言って嘆いたそうだ。そう言ってからかわれるほど、私たちの関係はよかった。 

 彼女の欠点は、サービス精神が良すぎて、ついつい心にもないことを言ってしまうことだ。これは彼女のせいというより、牧師夫人という職業柄来るものかもしれない。私にはすぐわかるのだ。ははあ~ん、また心にもないこと言ってるわ。無理して言ってるからすぐにわかる。 

 一緒にショッピングに行くと、彼女は品物選びにひどく時間をかける。私がパッと決める方なので、よけいそう感じるのかもしれないが、一つの品物を、ためつすがめつして、ようやく買うことに決める頃には私は待ちくたびれている。 

 そうやって買ってきた物なのに、結局どこか気に入らなくて、品物の交換に付き合ったことも一度や二度ではない。デパート、市場、とにかく自分が買うと決定した物なのに、自宅に戻ると考えが変わるらしい。「帯に短し、たすきに長し」なのだったら、買わなければいいのだ。私なら気に入ったものは一目でわかるし、少しでも難があれば、妥協などしないで買わないという選択をする。ところがヒョッチャはそこがどうも優柔不断というか、散々迷ったあげく、買うのだが、やっぱり細かい所で気に入らなくて、交換に及ぶのだ。 

 11月にソウルに行ったとき、明洞のカフェでじっくり話しながら食事をした。比較的落ち着いたカフェで、明洞に行くと、私たちは必ずここに行く。軽い食事もできるので、韓国料理で胃が疲れたときなどは、少し少なめのここのピラフがちょうどいいのだ。コーヒーはいくらでもお代わりできるし。 

 そのとき、私のデジタル・カメラを見て、「いいわね、それ。今度私の分、買ってきて」と言ったのだ。日本円にして2万円ぐらいだから、韓国ウォンで20万ウォンほどだと言うと、「それだけの機能でその値段は安い。12月に買って持ってきて」と頼まれた。 

 帰国してしばらくしてから、家電の安売り店に行った。私と同じタイプのものを問い合わせると、在庫がもう出ている1台だけとのこと。私は迷わず買った。8月に買ったときより、安くなっているし、次世代の新型タイプは3万円台で出ている。さすがに次から次へと出るもんだと思った。新型はI Podのように指で自由に画面操作できるタイプだった。  

 「カメラ、買ったわよ」とメールを出した。すると、何日かして来た返事には、「悪いんだけど、あのときは計算違いをしていた。今、冷静に計算したところによると、円の15倍だから、20万ウォンではなくて、32万ウォンになる。これでは到底買えない。返品してくれないだろうか」とある。  

  カードで買ったから返品は効かない。それに、今のレートで計算してお金をもらうつもりは毛頭なかったので、「32万ウォンはあまりにも高すぎる。私は円を韓国に持って行ってウォンに交換する観光客ではないから、11月のときも既にある韓国の通帳から必要なお金を下ろして使った。だから、ウォンに対する感覚は韓国人と同じ。実質換算は10倍ぐらいだと思うから、20万ウォンでいいわよ」と返事した。  

   これに対する返事。「それではGamilaが損するだけだわ。もちろんこちらとしてはありがたいけど、それでは申し訳ない。今晩、電話するね」  

  で、結局、電話はかかってこなかった。12月にはこのカメラを持っていくしかない。ヒョッチャが本当にこのカメラが必要だったのか、今となっては疑問だ。

2008/12/05

恩人の死

 12月に入ると、やたら喪中欠礼の葉書が舞い込む。年賀状を書かなくなってから、もうかなり経つが、喪中欠礼の葉書は年々増えていく。年を取っていくということはそういうことなのだ。 

 私の処女出版のときに散々お世話になった編集者が亡くなった。一昨日奥様の名前で喪中欠礼の葉書が来たのだ。もう驚いて、暗澹たる気分になった。一昨年だったか、癌の手術を受けられたことを知り、でもまあ手術も無事終えられたんだから、経過観察しながら長生きなさるだろうと楽観的に考えていた。

 最後にお会いしたのはもう11年前になるだろうか。あれが最後になるなんて想像もしなかった。生命力の強いイメージがあったからだ。来年になったら、出来立ての雑誌を持って久しぶりにお目にかかろうかと思っていたので、言葉を失うばかりだ。 

 奥様に手紙を差し上げようと思うが、まだまとまらないままこの2,3日を過ごしている。手紙を1通でも送ることで、故人を偲びたいと思っている。 

 日本の出版社は90%が零細企業だ。ひとりでやっている出版社もたくさんある。恩人の会社も奥様とふたりで長らくやってこられ、いつも志の高い本を出されてきた。そのラインナップに私の本もあるかと思うと、身の引き締まる思いがする。  

 お会いしたら、話したいことが山ほどあった。会わなくても、こう言ったら、どう反応するかもおよそ想像はついたが、とうとう実際に会うことは叶わなくなった。志が高いということは頑固一徹だということだ。頑固一徹に自分のスタンスを崩さずに納得のいくものだけを出版し続けたこと、そのことに畏敬の念を覚える。 

 世に出版物は掃いて捨てるほどある。そのときだけの話題を追求するような、いわゆるゾッキ本の類に入ることなく、私の本もひとつの資料として残っていくだろう。12年前に嫌な顔ひとつせずに共同出版を承諾してくれ、私を世に出してくれたこの恩人にあらためて感謝したい。そして心からご冥福を祈りたい。

2008/12/03

ついに!

ついに終わった!

遊ぶぞ。

2008/12/02

マムリで苦しむ。

 1日の夜明けに届いたばかりの原稿の翻訳1本、すでに訳したもののチェック2本、写真集め、各ページの整理。これが今の懸案事項だ。詩の韓国語訳はまだ届かない。昨日、もう一日待ってくれとメールが来たからしかたない。今日一日様子を見ることにした。詩の翻訳は難しい。新聞や論文の翻訳はけっこう簡単に済む。詩はそういうわけにはいかない。たぶん、翻訳者も詩は初めての経験だろうから、思う存分苦労すればいいのだ。

 この2、3日、最後の仕上げ段階(韓国語でマムリという)でかなり煮詰まってしまった。で、結局、昨日は美容院に行った。気分転換がどうしても必要だ。ボサボサの髪もすっかり軽いスタイルになって、私の気分まで軽やかになった。ショート・カットなので1カ月に一度は行かないとだめだ。私は特に髪が伸びるのが速いそうだし。来年は年明け4日には出てますからと、担当の女性に言われた。来年か。2009年。

 そんな先のことは考えられない。帰宅後、またパソコンに向かう。今日中には、メール添付でN社長に送ってしまいたい。これも詩の翻訳者次第だ。そして明日には写真なども含めてEMS便で送りたい。送ってしまいたい。終わりにしたい。解放されたい。

2008/12/01

原稿が揃わない!

 うんともすんとも言ってこない執筆者から今日になって原稿が届いた。なかなかの仕上がりだ。ボツにするわけにはいかない。11月末までの締切りだから、ほぼ締切りは守られたと言ってよい。今日は、急遽その翻訳をやってしまわないとならない。

 もう一人、詩の韓国語訳を頼んでいたN氏。11月末までにはきっと仕上げて送りますとメールが来たのに、それっきりだ。今日中に来なかったら、国際電話をかけてみよう。彼のはそのままCDに焼けばいいからこちらの負担はない。

 この調子だと、今日中にEMS便で送るのはむずかしくなってきた。今日最後の点検をして、明日送ることにしよう。今日一日の辛抱だ。

 最後の辛抱。実はこれが苦手なのだ。いつも最後の詰めが甘いと発行人から非難されるのだ。詰めが甘い。これ、私の最大の弱点。粘りがあるようで、ある時、プツンと切れてしまうのだ。これさえ改めれば、かなりの偉業を成し遂げられたかもしれないものを、ダメである。最後の踏ん張り。2008年、12月になって嫌というほど痛感するのだった。