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2009/06/30

昨年の6月。

 昨年のことは忘れてしまったが、東京の梅雨、今年はよく雨が降るね。沖縄は平年より5日早く梅雨明けしたそうだ。  

 昨年の手帳を見てみた。6月は会ったことのない韓国人から2通もEMS(国際特急便)が届いた。一人は教保のブックログの女性、もう一人は私の本の読者の男性。どちらも20代で二人とも日本語の勉強をしていた。  

 来月初めに日本語能力試験が行われるが、彼らは今回2級を受ける。女性の方は大学卒業後勤めていた地元の銀行を止め、それ以降、日本語学習に専念している。男性の方は今年の秋に大学を卒業するので、今就職活動に忙しいのだが、2級の準備もしていると言って私を驚かせた。 

 男性には昨年11月に、女性には12月にソウルで初めて会い、その後も何度か会う機会を持った。メールのやり取りだけで終るかと思っていたら、実際に会って付き合いが始まった。 
 
 能力試験の2級はかなり難しいそうだ。3級から急に高度になると聞いた。最善を尽くして、さらに1級に挑戦し、今後とも日本語の勉強を続けていってほしい。

2009/06/26

JALに対する要望

 韓国で航空チケットを買う場合、一番安いのがJAL。ちなみに、日本で一番安いのがKALだ。もちろん日韓線の話だ。JALもKALもその始まりは、いわゆる国策会社。国の威信をかけた航空業だった。後発会社に比べると、今でもなんかエリート意識がプンプンとしてるよね。 

 韓国滞在中に散々利用していたから、マイレージの関係もあって帰国後も相変わらずJALを利用していた。家人が勝手にJALカードなんかに加入したもんだから、なおのこと利用してポイントを貯めることだけ楽しみにしていたというわけ。 

 でも、よく考えると、日本発は全日空だって、アシアナだって、KALだってある。今までの搭乗経験から言うと、食事がまあまあよかったのが、アシアナ。あとはあまり差がない。でも、JALは最低!と言ってもいいような内容。あんなコンビニでも売ってないようなお粗末な冷たい空弁だったら、ない方がマシというもの。食事よりは温かい飲み物とケーキセットの方がどれほど気が利いているか知れない。 

 客室乗務員、今はアテンダントって言うんだっけ? 納得のいかない高い料金はほとんど、彼女たちの化粧代に消えていっているのではないかと、私は乗り込むたびに彼女たちの顔をじっと観察する。紫外線が入り込むとも思えない機内にしては、厚化粧だね。そして揃いも揃ってアイシャドーの濃いこと。目張りもすごいよ。マスカラも厚く塗りたくっている。昔、エアーホステスと言われた時代の名残りだろうか。 

 早割りに変更が利かないということは承知の上だが、国土交通省の直属優等生らしく、本当に融通の利かないお役所的仕事をする会社だ。  

 利用する側としては、金属疲労した機体はさっさと始末して、安全第一に考え、やけに高い料金でも納得できるような洒落たもてなしをしてほしいということだ。それができないんだったら、料金体系の見直しを求めたい。その方がいいね。洒落たもてなしは望むべくもないからね。

2009/06/25

S君からのメール

 昨日の朝、S君からメールの返事が来た。  

 「(印刷所の)社長は近日中に手術を受けるらしい。無事終ることを祈るしかない」とのこと。悪い予感が当たってしまった。詳しいことはわからないが、とにかく手術が無事終わり、養生して早く元気な社長に戻ってほしい。 
 
 夏の雑誌編集作業は、とりあえず延期にしよう。JALのチケットは早割りを買ってしまったので、変更が利かない。ほかに用事を作ってソウルに行くか、キャンセル料を払うしかない。どうするかもう少し考えてみよう。  

 羽田利用が高い理由は、チャーター便扱いだからだと言う。成田利用の2倍から3倍もする。チャーター便扱いなどにせず、通常便扱いにすればいいだけの話だ。国土交通省のやることは、全く気に入らない。将来、羽田は国際線滑走路が増設されることになっている。いつまでもチャーター便はないだろうに。

2009/06/24

6月12日金曜日 快晴 N社長のこと

 ソウル滞在もあとは土日を残すのみ。初めの2日間にあらかた回ることができたので、気持ちに余裕がある。母もオフィステルライフにすっかり慣れ、そこでずっと暮らしているみたいなどと言って、機嫌がいい。

 今日はN社長に会うことになっている。朝9時に出勤途中、オフィステルに寄って、事務所まで車に乗せて行ってくれると言う話だったが、「朝、病院で検診を受けることになった」とのこと、私たちだけで事務所に行くからと伝えた。  

 このところの社長の健康状態が心配だ。ソウル到着早々、私の携帯の発信が出来なかったのも何か関係があるような気がする。でも、電話の声を聞くと、「心配いらない」と言って、思いの外明るく振舞うのだ。 

 ウルチーロ3街まで地下鉄で行く。約束の時間より早めに着いたので、映画館に敷設されたカフェで社長を待つことにした。やがて元気そうなN社長が登場。モシ(ヨモギ)で作ったお餅を持ってきた。「ぺク病院で毎週金曜日にしか売らないんです。お母さんにと思って」と言って、緑色のお餅を皿に出して、カフェの女の子からナイフを借りて切り分けてくれた。  

 「身体の方は大丈夫なのか」と聞くと、「定期健診ですよ。何も心配する必要はない」と言う。顔を見る限りは元気そうだ。薬の副作用でホルモンバランスが悪くて、年末より少し太った感じだった。事務所に行ったが、夫人の姿は見えない。「教会でお祈りを捧げている」とのこと。やはり心配だ。  

 9月の日程のことや、マックの入力の問題など少し話をしたが、表面をさっと、かするという感じの対応。9月のホテル予約は社長の名前ですぐにしてくれた。近所の行きつけのカフェでお茶を飲む。出されたメシル茶がやけに苦い感じがして、私はひとくち口をつけただけだった。私の舌がおかしいのか、メシル茶自体が変だったのか。社長は終始にこやかなのだが、気力がない。

 「来週、検査の結果が出るけど、たぶん大丈夫だと思う」。でも私は心配だ。 

 帰国後、写真を送ったら、2,3日して「ありがとう」と返事。STESSAカフェの書込みにも、「2006年に手術したときからあった瘤の細胞組織検査の結果が23日には出る。医者も大丈夫だと言っていた。心配しないで」と書いてあった。カフェのメンバー公開の書込みにこんな個人的なことまで書いてもいいのかなと思いはしたが、楽観的に考えていてもいいと言うのだから、まあかまわないかとも思っていた。  

 ところが。昨日、社長関連の書込みが一切削除されていた。結果が悪かったとしか思えない状況だ。そんな状況で、こちらから国際電話をかけて確認するのは気が引けるし、気分も重たい。しばらくほおっておくしかしない。 

 ソウルのS君にその旨メールを送っておいたが、彼からも何の返事もない。彼もきっと社長と連絡が取れない状態なのだろう。最悪の事態を考えておく必要があるかもしれない。でも、再発したとしても、癌は治る病気だ。希望を捨ててはいけない。

2009/06/22

ACEのスーツケース

 以前、このブログでも紹介したが、ACEというカバン製造会社はなかなか良心的だ。小売店の態度の悪さを補うかのように、長年使っていた黒のスーツケースを無料で修理してくれたことは既に書いた。次回スーツケースを買うときは、ACEにしようと決めていた。

 まだ先のことになるが、いずれUSAにも行くことになっている。スーツケースの鍵はUSA特別仕様でなければならないらしいし、四輪駆動のものに慣れると、旧式のスーツケースはいかにも使いにくい。そこで1週間ぐらいの旅用にアメリカにも持っていけるタイプのものを注文した。  

 到着したスーツケースは満足のいく高品質のもので、まず、その軽いのに驚いた。ふたを開けると、リサイクル用の書類が入っていた。

 「お買い上げのお客様の手元にある古いスーツケース」をどこのメーカーでも引き取るというシステムだ。すぐに電話して手続きをとり、その日の午後には30年前に買い求めたサムソナイトの大型スーツケースを取りに来てくれた。引き取り無料である。 

 資本主義社会においては、消費者が企業を育てるという意識が必要だ。その会社の株を持っていなくても、消費者の側もちゃんと勉強して、態度の悪い企業姿勢にNo!と言い、互いに育て合うのが望ましい。優れた会社、企業は最後まで残る。 

 今まで消えていった会社、企業にはそれなりの理由がある。すなわち消費者不在、顧客無視という姿勢が災いしたのだと思う。本来、株式会社というものは株主がその会社を育てるというシステムだったはずだ。いつ頃から、利鞘稼ぎだけを目的にする輩が跳梁跋扈するようになったのか。

2009/06/21

6月11日(木)快晴

          
       北岳山 八角亭より  

 6月にこんな快晴は珍しいとソウルの人々も言った。こちらはもちろん梅雨(チャンマ)には入っていない。梅雨の時期も東京に比べれば、ジトジトといつまでも降る雨ではなく、スコールのようにザッと降って、その翌日は埃っぽい町並みがさっぱりと洗い流され、それはもう爽快な気分になる。 

   母をヒョッチャに預けたので、非常に気が楽。昼間、以前から会うことになっていたブログの隣人のひとり、ニックネーム工場長がオフィステルまで迎えに来てくれた。ブログで大体どんな人物か知っているし、その人の書くものを見れば、その人柄がいやでも出るものだ。

 彼の車で昨日行った北岳山スカイウェイへ。昨日も行ったけど、今日みたいな天気にもう一度見てみたいとお願いしたのだ。昼は大学路(テハンノ)で焼肉定食。彼は、私が昔半年ほど通っていた成均館大学の卒業生だった。専攻は心理学。英語がよく出来るので、今は受験生に英語を教えている。

 恵化(ヘファ)のカフェで、彼はエスプレッソ、私はキャラメルマキヤージュ。ここはギャラリーカフェでその日も小さな展示会があった。店内は広々としていて、すわり心地のいい椅子に座ればゆったりとした時間が過ごせそうだった。カフェのマダムが昔日本に留学して写真の勉強をしていたことがあると言って、工場長が紹介してくれた。とても感じのいい美しい人で、名刺交換をして再会を約した。 

 工場長もアルバイトが入っているので、午後の早い時間に別れた。9月にまたソウルに来たら、そのときはゆっくり話しましょうと言って、またオフィステルまで見送ってもらった。非常に頭の回転の速い好青年だった。

2009/06/19

江川紹子さん

 女性ジャーナリストの質もかなり向上してきたが、その中でも江川紹子さんは優れたジャーナリストだと思う。あのオウム事件のときにテレビに出ずっぱりだったが、命の危険を覚悟して、いつも毅然とした態度で出演していた。女子アナや、女性タレントによく見られるチャラチャラして、薄っぺらなところがない。  

 ソウルへ行くとき、羽田朝8時台の便を使うことが多い。家を5時過ぎに出て、タクシーで向かうのだが、吉田照美の早朝番組に江川さんが出演していて、こんな朝早くからもう活動しているのかと驚いたことがあった。レギュラーらしい。 

 ニュースの読み方みたいなコーナーで、吉田照美が次々に発する質問に対して、実にわかりやすい言葉でコメントしているのだ。飄々とした雰囲気の吉田と、冷静で適切な解説をする江川のコンビは聞いていて気分がよかった。 

 こんな世の中、力入れて感情たっぷりにやられても疲れるだけだし、自分が本当に考えて発する言葉というものは、聴いている者にとってさわやかな印象を与えるのではないかと思った。

2009/06/17

6月10日(水)うすぐもり、風強し

 2日間のソウル踏査が無事済み、今日から母はヒョッチャの家に一泊することになっている。2001年にヒョッチャが東京に来たとき、母の家に3日ほど泊まったことがある。8年ぶりに会った二人はうれしくて小躍りしていた。牧師さんの運転で、オフィステルから仁寺洞に向かう。日本語を勉強していたことのあるヒョッチャだったが、普段使わないから片言の怪しい日本語しか出ない。覚悟はしていたものの、昨日、一昨日に引き続き、私はほぼ同時通訳に徹する。

 通訳も初めのうちは和やかな気分でやっている。おしゃべりが弾むと、通訳はしだいにその存在が無視され、食事の時など、食べることに集中できなくなる。最初は通訳の存在をありがたがっていた当人たちも、それが当然のことになって、やたらペラペラ話すのだ。仕事でもあるまいに、だんだん私は二人の王女に仕える召使のような気分になっていく。「食事の時ぐらい黙っててちょうだい」。そう言っても関係者はみな笑うばかり。  

 北岳山スカイウェイを通って、八角亭に上る。生憎の天候で、せっかくのソウル大パノラマも雲と靄に包まれてソウル周辺の山は霞の中。それでも母は初めて見る景色に大興奮。  ヒョッチャのご両親、私の息子同然のウォニも一緒に全部で8人、近所のすき焼き屋で夕餉を囲む。8時から礼拝があると言うので、私たちは母を託して、マウルボスと地下鉄を乗り継いで麻浦まで戻った。大きな娘を預けて、気分爽快になった。

2009/06/16

あら、東京は入梅してたのね。

 大陸と島国の湿度の違いについていまだに驚いてしまう。爽快なソウルから湿度70%以上の東京に着くと、まず木々の緑の深いこと、こんもりしていることに目が奪われる。そして皮膚感覚。梅雨に入って、気温がさほど高くないからまだ我慢できるけど、じとじと、じめじめはいかんともしがたい。TVでは盛んにカビ防止、食中毒予防策を報じている。 

 梅雨には梅雨の楽しみ方があるように思う。洗濯物は乾かないし、空気は淀んだ感じになるけど、しばらくはRainy Seasonを楽しむしかない。 

 それにしても、厚生省に女性局長が一人しかいなかったんだね。福祉、介護の分野も担当するお役所に女性局長が一人とは。ちなみに公務員30万人のうち、局長の数は全部で100人。そのうち女性はたったの2人だそうです。 

 官僚制は腐敗するしかないというマックス・ウェーバーの主張を今さらながらかみしめる。

2009/06/15

成田は遠い。

 昨夜、帰国したんだけど、いや~、成田は遠いわ。3時過ぎに着いてリムジン使って、電車に乗り換えて帰宅したら6時過ぎよ。もう一度成田を発ってソウルまで行ってしまえるよ。何をか況や。

  仁川空港が世界一のサービスと収益を上げているのもむべなるかな。ソウル中心部まで1時間くらいしかかからないし、リムジンバスはソウルの隅々まで快適に行き渡っている。値段だって9,000ウォン。日本円にして750円!日本はその4倍近くするんだから、韓国人の言うように殺人的な高さと言ってもいいね。このままだと、成田はたぶん衰退するだろう。ハブ空港として上昇気流に乗っている仁川には追いつけないね。 

 かと言って羽田を利用しようとすれば、航空運賃がべらぼうに高くなる。成田利用の倍以上かかるのよ。需要が多けりゃ、値段下げるべきでしょうが。ハルマリオッタ、チョンマル。

2009/06/10

6月9日(火) くもり時々小雨

 予報通り雨模様だが、気温が低め(日中が21℃ぐらい)なので母にはいいかもしれない。10時前に李さん到着。彼は盆唐(ぶんだん)の方から市内まで来てくれるので、車で1時間半近くはかかる。2日目の踏査は徳寿宮(とくすぐん)から始まった。  

 大漢門の前には、TVのニュースで見た通り、盧武鉉前大統領の分霊場がしつらえてあって、女性国会議員や盧武鉉支持者がテントを張って、49日まで(たぶん7月10日あたりか)ここで故人の霊を慰めている。私も記帳してお参りさせてもらった。お参りの仕方がわからないので、李さんに教えてもらいながらお祈りした。遺影を前にすると、本当に惜しい人を亡くしたという思いが湧き上がった。

  徳寿宮は昨年の11月、紅葉の季節に来て以来だが、緑したたるこの季節も気持ちがいい。母は幼いときにしょっちゅう遊びに来ていたので、童心に帰ったように顔をほころばせている。パスポートを提示して65歳以上無料で入れてもらった。

  旧京城第一高女跡地へ。徳寿宮の塀沿いに歩く。貞洞のあたりは、裁判所、市立美術館、救世軍本部(1928年創立)、アメリカ大使館、ロシア大使館などが並んでいる。母が卒業した女子校跡は移動派出所の車が留まっているだけで、あとは昔の校庭にえんじゅの大木が1本あるだけだ。門の鉄扉は閉まり、時折警察関係の車両が出るときだけ、門が開き、すぐに閉じられる。部外者が入る雰囲気ではない。鉄扉の隙間からえんじゅの木を撮影したが、扉が邪魔で全体は撮れなかった。李さんの話では、この跡地は本来徳寿宮の敷地内にあって、解放後はソウル市から米軍に渡ったが、今は警察の管理に置かれ、この先何に転用されるのか決まっていないという。  

 京城中学は、建物は撤去されたが、その敷地はソウル市立歴史博物館に生まれ変わった。2002年のワールド・カップ開催の年だ。ここはソウルの昔と今の歴史がパノラマや地図、史料、植民地当時ゆかりの品々を見ることでわかりやすく展示されているのだが、けっこう規模が大きくて、江戸東京博物館のことを思い出した。 

 明洞。昔の明治町。6月5日に植民地当時あった明治座が明洞芸術劇場としてリニューアルした。母は、ここで映画を見に行った記憶があるそうだが、今は演劇専門の劇場になっている。TVでおなじみのベテラン俳優が出演しているお芝居もかかっている。次回、機会があったらぜひ見てみたい。  

 明洞聖堂。当時は小高い丘の上の聖堂がこのあたりでも一番高い建物だった。けっこう急な坂道を上って、私たちは初めて聖堂の中に入ってみた。シスターや一般の信者が静かに祈りを捧げていた。  

 お昼は明洞餃子の店。マンドゥとコンククスなどを食べた。昼時で行列が途切れることがない。お店の人が手際よく案内してくれて、すぐにテーブルにつけた。

  明洞までたっぷり見物できて母は満足そうだ。今日はこれでお開き。母をいったんオフィステルに送って、私たちだけソウル歴史博物館に連れて行ってもらう。  

 夜は東北アジア研究所の研究員、李さんの先輩女史も一緒に母を交えて楽しい夕餉を囲んだ。日本に10年留学していた人や、日本語ぺらぺらの人が加わったので、気が楽だ。慣れない通訳で少々疲れが溜まっていたのかもしれない。日本語がありがたかった。 

 今日で李さんともお別れだ。母は感謝の気持ちをどう表していいかわからないと言って、頭を下げていた。今後とも李さんにはお世話になる機会が増えるだろう。晋州で初めて会って引き続き雑誌を通して交友が続いていたことに感謝したい。  

2009/06/09

6月8日(月) 晴れ

 朝9時半きっかりに李さんがオフィステルの前に現れた。車はクライスラーの黒。お父さんの車だとか。車内は手入れがよく行き届いていた。乗り心地は満点。運転も上手だ。  一路景福宮へ。空は晴れ上がり、暑くなりそうだったが、湿度が低いので吹く風もさわやか。母も慣れ親しんだソウルの風土の中で元気一杯に見える。王宮の復元は完成に近づいていた。植民地時代の朝鮮総督府の跡地には本来通り王宮が再生され、鮮やかな色に縁取られた朝鮮王朝独特の瓦屋根が6月の空の下で輝いていた。  

 次は、母が最後に暮らしていた町へ。青瓦台に向かう一直線の道を辿った先にある新橋洞(昔、新橋町しんきょうちょうと呼んでいた)だ。セコムのプレートが貼り付けられたお金持ちの家が並ぶ。その一角に母が暮らしていた2軒長屋もあった。  

 14年前まではそのまま残っていたが、さすがに今は取り壊され、囲いがしてある。そのうち何か建つのだろう。母はすっかりしょげてしまったようだ。急な石段を上って、当時の通学路まで行ってみるかと聞いても、弱々しく首を振るだけ。石段の前で記念写真を撮る。

  その家はもう70年以上前に移り住んだ日本式家屋で、母の頭の隅にいつまでも残っていたのだろう。近くにある盲学校の前の銀杏の大木はそのままだった。この木はいつまでもありますように。  

 北村(プクチョン)の高級韓式の食堂へ。メニューを眺めていた李さんが「高いなあ」とつぶやいた。小食の母にも食べられそうなキノコのスープもあって、私も同じものを注文。香りがよくて、のどが温まって本当においしかった。副菜も味がよかった。隣の部屋は椅子式になっていて、ワイングラスがたくさんぶら下がっていた。次回はここでゆっくりワインでも楽しみたいね。  

 昔の京畿中学跡地へ。建物はそのままに図書館に生まれ変わっている。学校自体は江南の方へ引っ越したそうだ。当時の建物は、今見ても重厚な感じでどこか趣がある。平日だというのに学生がたくさん来ていた。夏休み前の期末考査の時期だから、そうなのか。  

 ソウル教育資料館へ。朝鮮時代から近現代にかけての学校生活を再現してある。植民地時代や解放後の教科書、表彰状、学校のバッチなどが並んでいた。母も私たちも李さんも育った時代は違っても、木の机や椅子、黒板、掃除用具、週番の腕章、制服や、学校行事(運動会、遠足)に使われた品々などを懐かしく見た。 

 李さんは72年生まれだが、彼の時代の学校生活と私たちのそれとは思いの外ギャップがないのだ。解放後も植民地時代の残滓が韓国社会のあちこちにこびりついていて、親子ほども違う李さんの世代でも、私たちとさして変わりない学校生活を過ごしていたことがよくわかった。 

 母が朝からの見物で疲れてきた様子なので、カフェに入ってゆっくり休んだ。この日の踏査(タプサ)はこれでお開きに。明日もあるので無理をさせないことにした。母をオフィステルに送り、私たちだけ再び李さんと出かけた。行き先は西大門の刑務所跡。ここの博物館は一度は行ってみようと思っていたのだが、月曜日なので休館。外から写真を撮り、李さんの解説に耳を傾ける。彼の韓国語はとてもわかりやすく、私もしゃべることにも次第に慣れてきて、言いたいことを何とか韓国語で伝えられるようになった。 
 
 明日も午前中と午後少しだけ踏査をして、母を一度オフィステルに戻して昼寝する時間を設けることにした。夜は別の人も交えて、皆でゆっくり夕食を取りたいと思う。  

 李さん、今日は本当にお疲れ様でした。

2009/06/08

6月7日日曜日、晴れ。携帯の発信が出来ない?!

 久しぶりの仁川空港だった。羽田-金浦が便利なのだが適当な時間帯がなくて、今回は成田-仁川にした。飛行機代は羽田利用より2分の1近く安くなる。羽田路線がいかに儲けているかと思うと、ちょっと腹が立つ。  

 夕方、仁川に到着。リムジンバスを利用。母は窓に顔をくっつけて景色に見入っている。子供時代に海水浴に来たことのある仁川だと言って、もうそれだけで涙ぐむ始末。「今浦島だわ」と言って、見慣れない景色に圧倒されている。残念なのは、ソウルの空が大気汚染で赤茶けていることだ。  

 リムジンバスに乗り込んでしばらくすると、ヒョッチャから電話入る。うれしくて大声で話していたら、近くの中国人観光客からにらまれてしまった。 

 麻浦のオフィステルに着き、月火と案内してくれることになっている李さんに連絡を入れてみる。ところが...な、なんと「あなたの携帯からは発信が出来ません」とのアナウンス。もう一度落ち着いて聞いてみたら、「料金未納のため、発信は出来ない。業務は朝9時から夜7時まで。ただし、日曜日はお休み」と言っている。なんてこった。すぐにオフィステルの電話機でN社長の携帯に電話してみるも、出ない。一体どうなっているんだ?  

 さっきリムジンでヒョッチャから電話がなかったら受信できることに気がつかなかったかもしれない。もうこうなったら今夜は必要な人だけにオフィステルの電話で連絡するしかない。李さんにその旨伝えて、受信可能かどうか、もう一度確認の電話をもらった。  

 N社長には、不満たっぷりの声でメッセージを残しておいた。このところ、彼にメールを送っても一切音沙汰なしだ。大切なメールのときは、「メール送ったんですけど」と国際電話で知らせたこともあった。彼がマネージャーを買って出たカフェにもお知らせ事項を掲載しておいたが、何の反応もなし。何かあったのだろうか?  N社長とはどうもタイミングが悪いことが多い。人生、タイミングだ。ほかに何があるというのだろう。タイミングを逸したら、その気があってもすべて「おじゃん」である。いつからいつまでソウルに行くから、携帯の停止を解除しておくようにと頼んでいても、ちゃんとやっておいてくれたことの方が少なかった。今回は携帯の新しい契約で2年間は停止にできない。だから韓国に行けば、スイッチをオンにしさえすれば、いつでも意のままに使えて便利だった。それなのに発信が出来ないとは。  

 そうこうするうちに社長からオフィステルに電話が来る。元気のない声だ。発信については月曜日に解決させるとのこと。彼は定期検診を火曜日に控えて、最近はずっと別荘の方にいたらしい。メールを送っても、詮ないことだったのだ。「ソウル訪問日程はどうなっているのか」と言うので、日程についてはかなり前にメールを送っておいたはずなのにと私は不満気に言ったが、身体の調子がイマイチのようなのであまり強くも言えない。元気いっぱいのN社長の声がこんなに気弱に聞こえるなんて、尋常ではない。

  「火曜日さえ終わったら、いつでも会える」と言ってくれたが、私は当初の予定通り「金曜日に会いましょう」と言った。検査の結果は来週出るとのこと。健康なら何も望まない。それ以外のことは実は大した問題ではないのだ。

2009/06/06

明日から半年ぶりにソウルへ。

 雨がよく降るね。でも緑が瑞々しくていいね。さて明日からのソウル。天気はどうだろ。こちらより湿度が低いことはわかっていても、この時期のソウルは2007年以来だからピンとこない。一昨年は暑かった。すでにあちこちクーラーが入っていた。東京の感覚だと、クーラーはまだ早いんじゃないの?と思ったが、人々の服装はすでに夏だった。クーラー対策に羽織るものと、レインコートは入れなきゃね。  

 今回の目玉はソウル踏査(タプサ)だ。高齢の母のために車であちこち回りましょうと知り合いが言ってくれて本当に助かる。今までは全部歩いて経巡っていたし、地下鉄では景色が見えないものね。昨日5日は明洞に劇場が復活した。植民地時代に「明治座」と呼ばれていた映画館が今回新たに「明洞芸術劇場」として復活したのだ。  

 ソウルの再開発はすごい勢いで進んでいるが、植民地時代に建てられた建造物は頑丈だからか、旧朝鮮銀行は貨幣博物館になり、京城府民館はいまだにソウル市議会会議場として使われている。市内中心部に残っていた日本家屋は崩壊の一途を辿っている。母が卒業した今の京畿女子高(昔の京城第一高女)は、昨年の11月に行って見たところ、跡地はそのまま残って米軍関係の車両が留まっていた。100年を超えたエンジュの大木が倒されたという噂も聞いたが、さてどうなっているか。

 ヒョッチャの家にも母だけ一泊させることになっている。ヒョッチャが東京に来たとき、母のアパートに泊まったことがあるのだ。母と同年代のお父さんとの対面もある。このお父さんは戦前、故郷から突然日本に連れていかれて北海道で労働させられた人だ。日本語を今でも上手に話される。12年前、私たちのために通訳を買って出て下さったり、ハングルで書かれた聖書の一説を日本語で翻訳して私に解説して下さったこともあった。  

 「日本を恨んでいませんよ。日本に行ったとき、女の人に可愛がられたし、楽しいこともたくさんあった」と言われ、こちらはびっくり恐縮するばかりだった。解放後は軍人から伝道師に転職し、敬虔なクリスチャンだったヒョッチャのお母さんともども教会に身を捧げている。帽子のよく似合うお洒落な方だ。 

 「あなたのお母さんも引揚げで苦労なさったでしょう。私も韓国に戻るとき大変な目に遭いましたからね」そう言われたときは、言葉もなかった。母にこのことを伝えると涙ぐんだ。 

 日程は余裕をもって設定した。母を預かってもらっているうちにブログの仲間と会ったり、例のN社長に会って8月の雑誌製作スケジュールを詰めたりと、ついでにやることはそれなりにある。前もって会うと約束している人は2名だが、まだ余裕が出来るようであれば、緊急招集すればいい。6月は大学も夏休みに入る。突然の電話でも都合がつけば会いに来てくれるだろうし、駄目なら次回にすればいい。携帯に保存された電話番号は増加の一途を辿っているが、「この人、誰だっけ?」と、そのままにしている人々もいる。やがて自然淘汰されていくだろう。必要な人はいつだって私を助けてくれる。

2009/06/02

傲慢な人間

 自殺する人の大半は病気だ。人間は本来、生存意欲というものが遺伝子の中にあらかじめインプットされて生きている。誰も死んでみたことがないから死に対する恐怖がある。生きているときはあまり死を意識しないで、日々の瑣末的なことに追われて生きている。  

 それでも死は生と隣り合わせにある。よく生きることは、よく死んでいくことだ。「死にたい」は 実は「よく生きたい」という欲求の裏返しだ。よく生きられないから死んでしまいたい、いっそ死んだら楽だろうなどと考えるのだ。 

 ウツ病にかかったら、昔なら死んでしまうしかなかった。バージニア・ウルフも深刻なウツ病で結局自殺した。絶望という死に至る病は、簡単には治せない。でも現代は医学が多少なりとも発達して、対処療法であるにしても、死んでしまいたいという思いを緩和させるようにはなった。それでも人間の脳に関してはわからないこと、わかっていないことが多過ぎる。原因がわからないから対処療法しかないのだ。 

 強大なエネルギーを発揮しなければならない政治家は、どこか無神経にならないとやっていけないのかもしれない。でもたまにノムヒョンのように良心的で繊細な神経の持ち主もいる。もう少し家族や社会が死に至る病に関して理解していたなら、彼は助かっただろう。  

 「明日、病院に連れていこうとした矢先に自殺されてしまったという家族を今まで何人見たか知れない」という精神科医の言葉は重たい。「頑張れ」とか、「病は気から」、「甘えているのよ」などと利いた風なことを言う輩が後を絶たないが、人間が一体どこまで自分をコントロールできると思っているのだろうか。それは、あまりにも傲慢な考え方だと思う。 
 
 虚栄心や無知によって、多くの助かる命が失われていく。