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2009/06/09

6月8日(月) 晴れ

 朝9時半きっかりに李さんがオフィステルの前に現れた。車はクライスラーの黒。お父さんの車だとか。車内は手入れがよく行き届いていた。乗り心地は満点。運転も上手だ。  一路景福宮へ。空は晴れ上がり、暑くなりそうだったが、湿度が低いので吹く風もさわやか。母も慣れ親しんだソウルの風土の中で元気一杯に見える。王宮の復元は完成に近づいていた。植民地時代の朝鮮総督府の跡地には本来通り王宮が再生され、鮮やかな色に縁取られた朝鮮王朝独特の瓦屋根が6月の空の下で輝いていた。  

 次は、母が最後に暮らしていた町へ。青瓦台に向かう一直線の道を辿った先にある新橋洞(昔、新橋町しんきょうちょうと呼んでいた)だ。セコムのプレートが貼り付けられたお金持ちの家が並ぶ。その一角に母が暮らしていた2軒長屋もあった。  

 14年前まではそのまま残っていたが、さすがに今は取り壊され、囲いがしてある。そのうち何か建つのだろう。母はすっかりしょげてしまったようだ。急な石段を上って、当時の通学路まで行ってみるかと聞いても、弱々しく首を振るだけ。石段の前で記念写真を撮る。

  その家はもう70年以上前に移り住んだ日本式家屋で、母の頭の隅にいつまでも残っていたのだろう。近くにある盲学校の前の銀杏の大木はそのままだった。この木はいつまでもありますように。  

 北村(プクチョン)の高級韓式の食堂へ。メニューを眺めていた李さんが「高いなあ」とつぶやいた。小食の母にも食べられそうなキノコのスープもあって、私も同じものを注文。香りがよくて、のどが温まって本当においしかった。副菜も味がよかった。隣の部屋は椅子式になっていて、ワイングラスがたくさんぶら下がっていた。次回はここでゆっくりワインでも楽しみたいね。  

 昔の京畿中学跡地へ。建物はそのままに図書館に生まれ変わっている。学校自体は江南の方へ引っ越したそうだ。当時の建物は、今見ても重厚な感じでどこか趣がある。平日だというのに学生がたくさん来ていた。夏休み前の期末考査の時期だから、そうなのか。  

 ソウル教育資料館へ。朝鮮時代から近現代にかけての学校生活を再現してある。植民地時代や解放後の教科書、表彰状、学校のバッチなどが並んでいた。母も私たちも李さんも育った時代は違っても、木の机や椅子、黒板、掃除用具、週番の腕章、制服や、学校行事(運動会、遠足)に使われた品々などを懐かしく見た。 

 李さんは72年生まれだが、彼の時代の学校生活と私たちのそれとは思いの外ギャップがないのだ。解放後も植民地時代の残滓が韓国社会のあちこちにこびりついていて、親子ほども違う李さんの世代でも、私たちとさして変わりない学校生活を過ごしていたことがよくわかった。 

 母が朝からの見物で疲れてきた様子なので、カフェに入ってゆっくり休んだ。この日の踏査(タプサ)はこれでお開きに。明日もあるので無理をさせないことにした。母をオフィステルに送り、私たちだけ再び李さんと出かけた。行き先は西大門の刑務所跡。ここの博物館は一度は行ってみようと思っていたのだが、月曜日なので休館。外から写真を撮り、李さんの解説に耳を傾ける。彼の韓国語はとてもわかりやすく、私もしゃべることにも次第に慣れてきて、言いたいことを何とか韓国語で伝えられるようになった。 
 
 明日も午前中と午後少しだけ踏査をして、母を一度オフィステルに戻して昼寝する時間を設けることにした。夜は別の人も交えて、皆でゆっくり夕食を取りたいと思う。  

 李さん、今日は本当にお疲れ様でした。

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