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2009/03/30

韓国の劣悪な労働条件

 ILO(国際労働機関)で定めた、労働時間は週40時間を超えてはならないという規定があるよね。週5日制だったら、一日最長8時間×5=40で、ぎりぎりこの条件を満たしている。

 9時―5時勤務の場合、昼休みを除くと、一日7時間労働になる。7×5=35時間。これに、土曜出勤を考慮すると、土曜日はお昼まで勤務すると考えれば、+3時間、都合38時間になり、これも条件を満たす。 

   隔週土曜日勤務の場合は7×6で42時間になってしまう。35時間の週と42時間の週が交互にやってきて、平均すれば、40時間に満たないからOKということにはならない。週ごとに見て40時間を超えてはいけないからだ。 

 残業すれば、当然残業手当が出されなければならない。ところが、韓国で働いている20代、30代の会社員の実態を知るに及んで、驚愕するような事実にぶち当たった。

 残業手当もなく、夜中まで働いているのだ。隔週土曜日が休みだと言っても、土曜出勤の週の土曜日は平日と同じく5時6時まで働いている。いくら若いといったって、これでは身体をこわす。ILOの規準は、人間らしく健康に働ける最低ラインを示している。 

   日本に比べて、韓国の労働時間が長いのは昔からだった。朝8時出勤なんてざらだったし、銀行は4時過ぎまで窓口が開いていた。1997年当時からそうだった。日本に追いつけ、追い越せということなのか、誰も彼もよく働くのにびっくりしたことがある。12年前は週休2日制なんて、夢のまた夢の話だった。

 一流企業とされている、例えばSamsunなどは労働組合がない。大企業にすべて労働組合があるわけではないのだ。Samsunの内情を知る者は、管理管理の非人間的な組織の歪さを訴える。昨年、逮捕寸前まで行った李ゴニというサムソン立志伝中の会長、そしてその息子の様子を見ると、これは近代的な意味の株式会社ではないなあという感じを強く持った。ワンマン経営というより、これはサムソン王朝、サムソン帝国という世襲制の組織、機構の実態をあからさまにした事件だったと言える。で、結局、お咎めはなかったのだ。なぜか。そう、韓国そのものがサムソン帝国だから。 

 サムソンのためのサムソンによるサムソン帝国。これが韓国経済の中枢の一つを担う、一企業の実態である。王様のためには身を粉にして働く。滅私奉公などという死語が韓国ではまだ堂々と生きているのだ。  

 この労働環境は労働の末端にまで行き渡っている。韓国経済は実は零細企業で成り立っているのだが、サムソンほかの大企業が殿様商売をしていると見ればいい。労働者の労働条件など二の次、三の次にされている。  

 経済恐慌の今、日本でも派遣切りが進行している。派遣で成り立っていたのに、名ばかり正社員の救済が優先されている。でも、片方でワークシェアリングという発想も浸透してきた。限られた数の椅子取りゲームでは、埒が明かない、数少ない椅子を分け合うということだ。  

 経済停滞などと言っているが、今までが働き過ぎだったのだ。何に向かって突っ走ってきたのか。より豊かな生活を得るためか。豊かさの内容が問われるようになって、多くの労働者が現場を見直すようになった。大きいことはいいことだという時代はとっくに終わった。量より質に目が向き始めたのだ。 

 スピードもこの際、二の次だ。良いものをゆっくり時間をかけて追求する。コンピューターに出来ないことを人間の手に取り戻すということだ。 

 韓国は土建屋の親父みたいな大統領が、言論の自由を抑圧しながら、まだ開発に血道をあげている。若者を中心にゼネストの動きもあるし、日本の大麻吸引学生に比べれば、まだ学生の政治意識は高い。それでも実社会に出ている若者の話を間近に聞くと、見えない何かに絡め取られている実態が見えてくるのだ。

2009/03/28

テメエら、人間じゃない。

 時代劇で憎っくき相手をバサッと切って、中村錦之助がこう言うのだ。「テメエら、人間じゃない!」。実際にそうできたら、痛快だろうと思われる出来事が最近増えてきた。 
 
 愛知の中学校で、妊娠した担任教諭を「流産させる会」というのを作って、実際に給食に毒物を入れたという事件が発覚した。会員は16名。教師から何らかの注意を受けたのを逆恨みして、こんな物騒な会を作ったという話だ。その発想がこわいよね。近頃の、図体ばかりでかくなった中学生、一体何をを考えているんだか、ここまで来ると、ついていけない。ついていく気は全然ないけどさ。  

 いや~、昨日も私見ました。地下鉄の中で、超自己中の若者(バカ者)を。ホームにある危険防止のドアがあるよね。これを通って、閉まりかけている地下鉄のドアを、傘と手で押し開けたのよ。不気味だったよ。ドアの隙間から覗いた手のポーズと、傘。嫌な予感がしたんだ。 

 ワンマンカーの地下鉄だよ。駅員が慌てて運転手に合図して、急遽ドアを開けるように指示を出した。図体ばかり大きなマスク男が乗ってきたよ。悪びれもせずにね。この一件で地下鉄は1分出発が遅れたね。  

 マスク男が席についたとたん、車内アナウンスが流れた。「駆け込み乗車は大変危険ですから、絶対にしないようにして下さい。今回は特別の処置をしたのです。今後、絶対にこんなことがないようにお願いします」。私恥ずかしくて、目の前に座ったマスク男の顔を見られなかったよ。しばらく目をつむっていたんだ。 

 そしたら、直に妙な音がするのよね。目を開けたら、件の男、耳にはi Podのイヤホーンしちゃって、その耳元からガンガン音がもれてくる。その上に、そのラップミュージックを自らも歌っているのよ。よしてよ、まったく。ひょっとして、さっきの恥ずかしくなるような車内アナウンスを聞いてなかったってこと? 聞いていたけど、シラを切るために、こんな愚行に及んだってこと? わからない。

  私は「ちょっと、うるさいわね。あんたのせいで電車遅れちゃったのよ。その反省もなしに、今度は騒音公害かよ。」と、頭の中でどなっていた。目の前に座った、ターミネーターまがいの男、気味が悪いったらない。でも、亡くなった父の言葉を思い出して、自重したのよね。  

 「相手を見て、物を言いなさい。そんなにいきり立って物を言ったら、刺されるぞ」。そうなのよ。最近は、常識が常識で通らなくなってきたし、どんな変質者が街をうろついているかわかったものではないよね。正義を訴えて通用する世の中ではなくなってきたのよね、かなり昔から。 
 
 ターミネーターといい、愛知の流産会といい、頭の中は人間とは思えない輩がのさばっている世の中だ。今時の教師は勇敢でないとなれないね。教師に深く同情するのだった。

2009/03/26

Samantha James

 音楽専門のブログから、サマンサ・ジェイムスという歌手の存在を知った。韓国のネイバーではまだ試聴することができない。欧米の音楽はやはり日本の方が情報が早い。早速、ネットで調べて、ダウンロードした。  

 Right Nowという曲、なかなかイカシテル。柔らかい女性ボーカルだが、ハウスミュージックの一つらしい。BGMで流しても邪魔にならない。独特の世界だ。なんと言ったらいいだろう。先の見えない霧の中にいるという感じ。リズムはグルービー。まだ一般には知られていないようだ。MySpace.comでサマンサ本人がブログを持っていることを知り、早速購読メンバーに入れた。Riseというアルバムも良さそうだ。アーティストの中にはMySpaceをそのまま公式ホームページにしている人も多い。偶然とは言え、そこにもブログを作っていて良かった。  久しぶりにお気に入りの音楽に出会えた。そのうちCDを手に入れよう。

2009/03/24

この頃の新聞について。

 前にも言ったかな。新聞記者の質が落ちてきたってこと。記事の基本である5W1Hも満たされていない、とんでもない記事だってある。書く側ばかり妙に自己陶酔して、読むこちらはしらけてしまう記事もある。新聞の基本は、正確さである。情にほだされて、自己満足しているような情報はいらない。事実をなるべく多くの視点から客観的に書くこと。これは不可能に近いが、記者たるもの、それを目指すべきだ。 

 
 経済欄のコラムに光るものがある。きらっと光る視点が新鮮な場合がある。よくよく調べてみると、筆者は新聞社の人ではなく、財界人だったりする。コラムは字数が短いだけに、そのよしあしが嫌でも表れる。質のいいコラムニストはまだ日本には少ない。コラムだけで食べていけたらどんなにいいだろう。 

 韓国の新聞について。いわゆる三大新聞、朝鮮日報、東亜日報、中央日報は全滅だ。三紙は政府寄りの右傾化新聞として韓国社会では嫌われている。この三紙は日本語ページを持っているが、芸能界のことはともかく、政治、経済についてこれらを鵜呑みにしてはいけない。  

 インターネットの発達でゲリラ的ジャーナリズムも跳梁跋扈しているが、一般の日本人はなかなか接することができない。ハンギョレ新聞、京郷新聞などに多少見るべきものがあると言われているが、私はよくわからない。  

 インターネット配信の日本のニュース。その中で、あのMSNはサンケイと提携したので、かなり偏った情報が流れている(以前は毎日と提携していた)。読売、サンケイと言えば、はっきり言って、右寄り右翼と考えた方がいいだろう。朝日はインテリが好む新聞だが、それほど鋭い視点があるとは思えない。むしろ保守的権威主義的である。しばらく購読した結果、そういう結論に至った。天声人語の質はがた落ちだ。なぜここから入試問題が出されるのかわからない。  

 早い話が批判精神をもって新聞と付き合うしかないということだ。事実は一つではない。しかし、真実は一つだ。そう思って、今日も紙面に目を光らせるのだ。

2009/03/21

新聞。

 久しぶりにラジオを聞いた。久米宏の「ラジオなんですけど」。今日のテーマは「あなたは新聞を読みますか」。インターネットの普及と、この所の経済状況の悪化で、新聞購読者が減っているという。私は夕刊の愛読者なので、新聞のない生活は考えられない。でも、背に腹は替えられないと、月4000円弱の購読料を節約する人が出てきたとしてもしょうがない。 

 新聞配達をしながら学校に通う二人の青年が登場。朝刊配達のため、二人とも毎朝2時に起きる。6時には配達終了。学校に行くまでの(一人は明治大学3年生、もう一人は読売系の機械専門学校生)約2時間、朝食を取りながら新聞を読んだり、授業の準備をしたりするという。 

 夕刊配達のため、二人とも3時以降の授業は取れない。夕刊を配り終わり、翌朝2時起きに備えて早く休む。こういう生活をしている人たちのおかげで、私は安楽に自宅で好きな新聞を読めるんだなあ。 

 二人の月収は手取り10万円から14万円。一人は読売の寮に入っているし、もう一人は販売店に住み込んでいる。目下二人とも就職活動をしている。機械専門の人は自動車会社への就職を希望しているが、これは至難の技だ。明治の子は、故郷青森に戻り、地元での就職を考えているとか。ラジオから流れてくる二人の青年の知的な声を聞くと、日本もまだまだ大丈夫そうだなと思ったりする。  

 朝刊を隅から隅まで読むと、ゆうに1時間半ぐらいはかかる。これに夕刊を加えると、一日に得る情報量は半端なものではない。旅行に出て、戻ると朝刊、夕刊が山のように溜まっている。これを次から次へとこなしていくのはけっこうな労力だ。でも紙面から得られる情報は何ものにも替えがたい。昔に比べると、記者の質が落ちてきたが、たまにいい記事に出会うと得をしたような気分になる。

2009/03/19

イラク開戦って何だったのか。

  朝刊の目次に「明日でイラク開戦6年」という見出しがあった。6年前と言えば、留学先の晋州で、とうとう開戦するのかという何とも重たい気分になったことをありありと覚えている。当時は、ノ・ムヒョン政権だったが、発足2年目にして、野党による弾劾裁判要求があって、これまた何とも重苦しい空気が流れていた。日本も韓国もUSAの同盟国として、イラクに参戦した。なんとまあ愚かな話だったことか。

 
 イラクの核施設疑惑はガセネタだとわかり、戦争につきものの大義名分の胡散臭さを再認識させられたものだ。今だって、関係諸国はなんの反省もしていない。USAの代償はあまりにも大きく、その傷は、何十万人にも及ぶ「イラク派遣兵士の脳挫傷」という、この上もなく残酷な結果を招いた。言うべき言葉もない。「脳挫傷」。どんなにひどい衝撃を受けたのか想像を超える。

 戦争が終わっても、後遺症は終わらない。こんな馬鹿げた戦争を仕出かしたブッシュの愚かさにはこれまた言葉もないが、それに何の見識も持たずにホイホイと乗った日本、そして韓国。いつまでUSAのYES Manでいるつもりなのか。考えることをやめたら、結局、戦争の愚かさが繰り返されるだけだ。

 あれから6年。韓国も政権が変わり、日本は何人目になるのか忘れたが、誰に代わっても、愚かな首相であることには変わりないままだ。韓国の李明博はイ・ミョンバクという名前のアルファベットをもじって、2MBと呼ばれ、ほとんどの国民から支持されていない。

  USAの傲慢な経済政策の大失敗に端を発したこの度の経済危機も、なるべくしてなったという感があるが、韓国経済も日本経済もすぐさま連動して、未曾有の危機である。危機はチャンスだというスローガンの下、この際、自然淘汰されて、本当に質のよいものだけが生き残っていけばいいと思うのだが、いやあ、驚いたね、USAの某保険会社の幹部のボーナスが6億円だってさ。オバマが腹を立てるのも当然だね。狂ってるね、ほんとに。

2009/03/15

2カ月ぶりに美容院へ、そしてマーシャルのこと。

 気温はさほど高くはないが、日が射して春の陽気だ。2カ月ぶりの美容院。いつものようにショートカット。目をつぶって切ってもらっている間に、晋州で通っていたマーシャルの美容室のことを思い出した。マーシャルは、どうしているだろう。相変わらず店はゴタゴタして、おしゃべりなアジュモニたちで賑わっているんだろう。留学の2年間、毎月1回通っていた、中央市場に近い韓方薬局の3階にあった古びた美容院。1階の薬屋からいつも漂っていた漢方薬の匂いと、支払いを済ませたあと、ニッっと笑って、「いつでも遊びにおいで」と言ってくれたマーシャルの温かいまなざしが忘れられない。結局、カットの日以外に彼女を訪ねたことは一度もなかった。慶南サトリの強いマーシャルと対話が成り立つとも思えなかったし、月に一度、彼女の顔を見れば、私はそれで満足だった。 

 春が来て、晋州の乾燥した春も思い出した。山火事があちこちで起きて、大気は極端に乾燥し、喉の弱い私はいつも春に寝込んだものだ。たいして熱が出るわけでもないのに、喉の痛みといつまでも続く乾燥に身体がついていけなくなるのだ。ワンルームでひとり横になっていると、異国の空の下、私はひとりなんだなあとしみじみとした気分になる。ひとりでいることをこよなく愛するにしても、やはり今でも大陸の春の乾燥を思い出すと、そこはかとない荒涼とした気分に浸れる。 

 チンダルレが咲いて、ケナリのまっ黄色の大群に圧倒され、サクラが咲き始めると、晋州は暑くなってくる。その陽射しの強さは、韓国南部特有の日の光だ。冬もさほど寒くならず、オンドルの温もりに怠惰な日々が流れていく、そんなことを美容院の椅子に座ったままありありと思い出して、近いうちに晋州に行きたいという衝動にかられた。

2009/03/14

Macに挫折した。

 ハードとソフトが一体化したマッキントッシュの世界は、私からすると、閉じた世界だ。かなり排他的で、デザインの完成度のみにすっかり自己満足したアップル社の態度に腹が立つだけだ。
 
 8年前にパソコンを始めたとき、ウィンドウズにするか、マッキントッシュにするか、少しは悩み、知り合いに相談もした。当時からマッキントッシュは少数派。互換性を考えたら、やはりウィンドウズに落ち着いた。Windows 98からスタートして、 Windows XPはかなり完成度の高いOSに成長したと思う。韓国語、日本語の変換も昔のことを考えたら、雲泥の差である。多言語対応のXPは完成度が高い。

 右クリックの存在しないマウスなんて、マウスではない。何を考えているんだろう、アップル社。ウィンドウズのExplorerに当たるのが、マックの Saphari なんだけど、このほかにOperaという窓も開く。当初、サファリでダメなら、オペラを使わざるを得ないサイトもあった。サファリ一つで対応できないということは、それだけマックが不完全だということだ。

 音楽は出ないは、コメントの書き込みは見えないはで、これは私のパソコン・ライフとは相容れないと判断。マックは家人に譲った。

 さて約1週間ぶりにウィンドウズの世界に生還して、私は満足だ。あの不自由な日々は何だったのか。自己完結したアップルシ社のナルシズムよ、さよなら。マック & アップル社、勝手に自己完結してなさい。

2009/03/13

スパイの存在。

 TVに映る金賢姫と拉致被害者対面の様子を見ながら、いろいろと考えるところがあった。

 金賢姫という人物も、考えてみれば実に数奇な運命の持ち主だ。休戦状態にある韓国と北朝鮮との緊張関係を嫌というほど思い出させてくれる。1987年に151名もの韓国人乗客を爆死させた実行犯が、死刑にもならずに韓国で生きて来た、いや、生きて来させられたと言った方がいいかもしれないが、とにかく、個人の意思とは関係なく、国家の意思で生かされてきたわけだ。

 工作員とか、スパイなんて、冷戦時代の映画や、ナチス関係の映画に出てくる、スリルとサスペンスの申し子以外の何者でもなかった。ナチ抵抗運動での、緊張を強いられるスパイ活動、007の痛快な物語などで見たり聞いたりしてきたとしても、それはあくまで自分とは直接関係のない「お話」や過ぎ去ってしまった歴史上の存在に過ぎなかった。

 南北分断という現在進行形にある韓国人にすれば、工作員、スパイ、間諜は驚くほど身近な存在なのだ。12年前に私たちがソウルに滞在していたときも、ソウル大学のある有名な教授が、実は北から送り込まれていた工作員だと判明したという事件があって、知り合いの韓国人がかなりショックを受けていた。

 教育というものは恐ろしい。1999年に映画「シュリ」が大ヒットして、韓国で初めて北の工作員の日常生活が明らかにされるまで、韓国人の多くは「北の人間には角が生えている」「北の人間は人間の形をしているが、本当の人間ではない」などということがまことしやかに信じられてきたそうだ。だから「シュリ」は、韓国ではかなりエポックメイキングな映画になったという。

 「北の人間も同じ人間だったんだ。自分たちと同じように恋もするし、悩みもする。何だ、角なんか生えていないじゃないか」、こういった反応が当時韓国で爆発的な大ヒットを記録する背景にあったという。日本でもほぼ同時期にヒットしたが、それは噂に聞いていた南北の対立の裏舞台が映画化されたからであって、韓国で人々がこんな反応をしていたなんて想像もしなかった。

 「角が生えている」と言えば、韓国での反日教育も似たようなものだったらしい。「自分たちが大陸から伝えた文化の恩恵を受けているくせに、日本人はその恩を仇で返した、鬼のような存在だ。同じ人間とは思えない」、こういったふうなステレオタイプの日本人像を小さいときから植え付けられていた世代が実際にあったのだ。そしてこの事実がそれほど昔の話ではないということに驚くのだ。

 「生まれた時代が悪いのか、それとも俺が悪いのか」という70年代に流行った歌の一節ではないけれど、いつの時代に生まれたかということがその人の人生を大きく左右するということは確かにある。インターネットの普及で、国境などとうに消えてしまった現代に生きていることのありがたみを思わざるを得ない。

 子供の数が減ったのに、ちっとも余裕の感じられない昨今の教育界だが、爆弾で死ぬ恐怖にも見舞われず、軍隊に行く必要もなく、生きて行かれる日本人の子供たちはとりあえず幸せだと言わざるを得ない。引きこもりや、自殺が増えているし、子供たちの目を見ても、ちっとも生き生きしていない様子を電車などで見かけるけど、命の保障をしてもらって、十分な教育を受けさせてもらっているのだから、それ以上を望むのは贅沢というものだ。

 ただし、管理教育の中でどこまでその子独自の自発性や独創性が発揮できるかは、別の問題である。

2009/03/11

あなたは何型?

  人間にもアナログ型とデジタル型があるような気がする。デジタル型は二進法で展開する。ある意味、単純なのだが、実は融通性が要求される。一方、アナログ型はあらゆる現象に柔軟に対処するべくその受け皿は複雑怪奇にならざるを得ない。

 早い話が、私はデジタル型の人間だ。構造は単純なのだが、思考に融通性がある。0 or 1の2つに一つの選択をほとんど何も考えずにパッパッと処理していける。間違えたら、また元に戻って、やり直せばいいだけの話だ。試行錯誤型の人間にはうってつけのタイプだと言えるかもしれない。マニュアルの類を読むのが好きでない。目の前の現象をtrial and errorで何とか処理していく。哲学用語で言えば、演繹法ではなく、帰納法だ。まず一般論があるのではなく、「個々の特殊な事柄から一般的原理や法則を導き出す」と言うことだ。

 だから、書店に並ぶHow to 物にほとんど関心が持てない。あくまで「私」という観点から出発して、あちこち衝突しながら自分なりにマスターしていくというのが好きだ。これは能力の問題ではなくて、好き嫌いの問題なのだと思う。

 家人は私とは対照的に演繹派である。コンピューター一つとっても、ソフトをやたら買い揃えて、ああだこうだと機械と格闘している。私から見ると、ご苦労様の一言だ。材料をきっちり揃えて料理するというやり方に私は親しめない。

 ましてやMacはハードとソフトが一体化され、一つの世界がすでに構築されているものだ。これにWindows方式を当てはめようとするのは、土台無理がある。寄せ集めのソフトにメーカー各社が作ったハードを対応させて稼働する従来のやり方がMacに当てはまる訳がない。

 もちろん基本は押さえておく。でもその後はMacに寄り添って素直に展開していけばいいのだ。どうも家人のやり方は気に入らない。当分いざこざが続くような気がする。まあ、そのプロセスを楽しめがいいのだ。

2009/03/08

明日からパソコンが変わる。

 2000年から始めたパソコンはWindows一点張りだったが、明日からいよいよMacの世界だ。キーボードやマウスの使い方が微妙に違うらしいし、ソフトも一体となったマッキントッシュの世界、楽しみでもある。長い間使っていたOutlookとも Explorerともお別れだ。 

 グラフィック分野に比重が置かれているので、今後、写真の処理なども楽しめる。Macに切り替えた理由の一つにWindowsのソフトがそっくりインストールできるようになったということも大きい。Macを使い込めるようになるまで、時間を要するだろうが、次元の異なったインターネットの世界を楽しみたいと思う。

2009/03/05

Seoul 1997 その2

 あの当時、携帯もパソコンもなかった。その代わりにあったのが、BB(ビッピー)。今、BBのこと覚えている人がいるだろうか。呼び出しベルのことだ。小さな画面に相手の電話番号が表示され、街を歩いていてこれが鳴ると、急いで公衆電話ボックスに入り、暗証番号を押して、先方のメッセージを確認したり、先方に直接電話をかけたりしていた。持ち歩きの留守番電話と言ったらわかりやすいだろうか。グリーン色のマッチ箱ぐらいのBBを腰に下げて、私はソウルの街を歩き回ったものだ。 

 4月に撮った写真がどういうわけか、黄ばんで見える。ペンタックスのフィルムカメラで距離も絞りも勘案しながら撮影したのに、どういうことか。決して安くないレンズがとうとうイカレタのかとがっくりきた。そのうち、原因は黄砂にあるということに気がついた。中国から黄砂が直接やってくる。黄色い煙が舞い上がり、ケナリの真っ黄色もかすんでしまうほどだ。 

 今、私の必須アイテムになってしまった、ノートブックパソコン、デジタルカメラ、携帯電話、この3つが一切なくても、それなりに生活を楽しんでいた自分がいた。しょっちゅう連絡を取り合わなくても、友人関係は良好だったし、撮影したフィルムを預けて、それが出来上がるまでの時間を楽しんだし、ブログやメールがなくても、日記や手紙があった。日本までの航空便は今よりずっと時間がかかり、急ぎの用事はFaxでやり取りもした。 
 
 軽い気持ちでキーボードを打つ代わりに、ボールペンと修正液で書いた手紙をどれだけたくさん出したか知れない。計り知れない数の写真を撮ったが、フィルム1本に納得のいく写真が数枚あればいい方だった。失敗すれば、簡単に削除できるようになった分、写真1枚の重みがなくなった。  

 手間暇かけていくということから遠ざかってしまったことを思うと、12年という歳月の中で失ってしまったものが何だったのかと考えないわけにいかない。いずれにしても言えることは、筆まめな人は、筆まめだし、筆不精の人は手段が簡易化されても、筆不精のままだということだ。

2009/03/04

閑話休題、タイミングの話。

 タイミング。自分にとってタイミングのいい人と悪い人っているよね。これはもう、縁がある人、ない人と言ってもいいんじゃないかと最近思うのだ。タイミングの悪い人は、驚くほど悪い。いい人は感心するほどいい。タイミングの悪い人は知らず知らずのうちに削除の対象になっていく。

 削除。随分残酷な響きだ。でも人生の半分以上をとっくに過ぎた私としては、削除せざるを得ない。新しい出会いが次から次へと訪れるからだ。新陳代謝していくしかない。 

 メールを出して、1週間以上も梨のつぶての人って、よくいるよね。でも、手書きの手紙でさえ、出した翌日には着く世の中、電信メールの有効期限は20分だと、アメリカのビジネスマンなら言うだろう。アメリカ式はオーバーだとしても、何のためのメールなんだろう、急いで返事が欲しいから、メールにするんでしょうが。「打てば響け」の感覚で言えば、すぐに響かなきゃアウトだね。  

  メールにモタモタしている人は、実はほかのことでもモタモタしている。メールの賞味期限は最大限譲って、3日だと私は思う。それだけ現代人は気が短くなっているのかもしれない。

 メールの返事がまともにできないのなら、パソコンに向かう必要はない。パソコンに向かう時間があるなら、メールにまともに対処せよと言いたい。調子狂うんだよね。こっちが出したのも忘れた頃に、来る返事。飛脚の時代でもあるまいに。  

  ということで、時間間隔の違いから縁遠くなっていった人は数知れない。それでもタイミングの妙にいい人はいるもので、削除したとたんに私の画面に登場したりして、苦笑するしかない。  

2009/03/03

1997 Seoul その1

 そうなのだ。12年前の4月、私たちはほとんど知り合いのいない韓国という国の首都に降り立った。もちろん保証人の先生はいたが、彼は友だちでもなんでもないし、家人が1,2度会っただけの人だった(今では全く音信不通)。海外赴任のサポートなんてものは一切なかった。ガイドブックの類も一切ない。会社勤めでなかったから、組織ぐるみの背景やサポートもあるはずがない。ないから自分たちで解決していくしかなかった。 

 韓国語がほとんどできないという、今思うとぞっとするような条件の下、子供が言葉を一つ一つ覚えていくように、見知らぬ国の見知らぬ生活習慣に慣れていくしかなかった。12年前はやはり若かった。怖いもの知らずだった。 

 アルファベットならまだ推測がついた。漢字ならすぐに想像できた。でもあのヘンテコリンなハングルの渦の中、ドライ・アイになりながら、時間をかけて、あちこちの掲示板や表示板の文字を解読していくしかなかった。 

 水も違う。電圧も違う。見た目は似ていても、風俗習慣、初めて眼にするもの、耳にするものばかりで、最初の1カ月がものすごく長かった。1カ月経って、日常生活のリズムがつき始めた頃、私は夜、大声で泣いた。ようやくここまで漕ぎ着けた喜びと、誰もこの苦労をわかってくれないだろうというほんの少しの絶望感がないまぜになったような気分だった。  その頃のことを思い出すと、もう前世の出来事のように思える。何代か前の世代が仕出かしてくれた歴史の遺産は重くのしかかってくるし、厄介な国に来てしまったなあという思いと、それにもかかわらず韓国人の情の深さに触れて、このままこの国に永住してもいいかも、などと家人と話したものだ。それほど私たちは韓国に魅了された。言葉を換えて言えば、母国日本に嫌気がさしていたと言った方がわかりやすいだろうか。 

 韓流などという言葉が出てくるなんて夢にも思わなかったあの年の春は、黄砂とともに過ぎていった。折りしも、あのノストラダムスの大予言が取り沙汰された1997年のことだった。

この12年。

 昨日はつかの間の晴れ間だった。風が冷たいのに、光が妙に明るすぎて「春は名のみの風の寒さよ」という歌の通りだなあと思った。春の不安定な陽気がどうしても好きになれない。かと言って、安定した気圧を望むと、それはすなわち太平洋高気圧の天下だ。苦手な夏が来ることは、まだ考えないようにしている。

 今週はずっと天気が悪い。今日の午後には雪が降るという。沖縄の陽光を浴び、仙台の雪雲を見上げ、東京に戻ると、ずーっと寒く暗い天候が続いている。こんなときはたまった紙類の処分をしよう。BGMはやはり沖縄音楽だ。気分だけでも南の島。

 ふいに思い出す時がある。ソウル滞在時代お世話になったアパートの警備員のアジョシのことだ。彼らとは当時会って以来、会うこともなくなった。どこかで生きているだろうとは思うが、この経済恐慌の中、どこでどうしているだろう。 

 友人や知り合いとは携帯やメールアドレスがあるからいつでも接触できる。でも彼らとは連絡の手段もない。実は毎日の生活で彼らほど世話になった人たちはいないのだ。言葉も碌にできなかった私たちに本当によくしてもらったという思いしかない。 

 あれから12年の歳月が流れた。言葉も随分通じるようになったし、読み書きも格段に進歩した。今、彼らと会って話ができたらどんなにいいだろう。安東の方言が強いアジョシの言うことも、江原道訛りが残ったアジョシの言葉も全部聞き取って、こちらの言いたいことも全部言えただろうに。 安東アジョシの息子はまだ音楽をやっているだろうか。江原道アジョシの子供たちはみんな独立したんだろうなあ。もしかしたら、孫だってできたかもしれない。 

 この12年は私にとって、疾風怒濤の12年だったと言ってもいいだろう。初めての外国生活、韓国語との格闘、雑誌の発行、留学生活、祖母、叔父、父の死。12年の間に得たものと、失ったものは思いの外大きい。これからの12年がどうなるか皆目検討がつかない。でも、引き続き、私は韓国と関わっていくだろうと思う。情熱を注げる対象を中年になって得たこと、一体誰に感謝したらいいだろう。