韓国語がほとんどできないという、今思うとぞっとするような条件の下、子供が言葉を一つ一つ覚えていくように、見知らぬ国の見知らぬ生活習慣に慣れていくしかなかった。12年前はやはり若かった。怖いもの知らずだった。
アルファベットならまだ推測がついた。漢字ならすぐに想像できた。でもあのヘンテコリンなハングルの渦の中、ドライ・アイになりながら、時間をかけて、あちこちの掲示板や表示板の文字を解読していくしかなかった。
水も違う。電圧も違う。見た目は似ていても、風俗習慣、初めて眼にするもの、耳にするものばかりで、最初の1カ月がものすごく長かった。1カ月経って、日常生活のリズムがつき始めた頃、私は夜、大声で泣いた。ようやくここまで漕ぎ着けた喜びと、誰もこの苦労をわかってくれないだろうというほんの少しの絶望感がないまぜになったような気分だった。
その頃のことを思い出すと、もう前世の出来事のように思える。何代か前の世代が仕出かしてくれた歴史の遺産は重くのしかかってくるし、厄介な国に来てしまったなあという思いと、それにもかかわらず韓国人の情の深さに触れて、このままこの国に永住してもいいかも、などと家人と話したものだ。それほど私たちは韓国に魅了された。言葉を換えて言えば、母国日本に嫌気がさしていたと言った方がわかりやすいだろうか。
韓流などという言葉が出てくるなんて夢にも思わなかったあの年の春は、黄砂とともに過ぎていった。折りしも、あのノストラダムスの大予言が取り沙汰された1997年のことだった。
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