このブログを検索

2008/12/31

大晦日  2008年12月31日に公開したブログです。

 今日午後、無事帰国した。雑誌STESSAも完成した。年が明けたら、EMS便で届くだろう。今回で7号を迎えるが、デザインも素敵に仕上がり、文字校正も何とか通過、会心の出来である。

 長年、編集の仕事に携わってきた。いつも完全を目指すのだが、それは叶わない夢だ。校正をいくら繰り返しても、後から後から校正ミスは見つかるし、多くの人の目を通しても、それは同じことだ。印刷事故もつきものだ。編集という仕事は、カミュの「シシフォスの神話」のように、岩を積み上げても積み上げても、岩はその度に谷底に落ちていくのだ。考えてみれば、それは編集の仕事だけに当てはまるのではない。人生そのものがそういった、ある意味、無意味で虚しい作業の繰り返しだとも言える。それでも生きていくしかない。

 年末10日間、かなり疲れもしたが、本当に充実した日々だった。この10年の間に知り合った韓国の友人にまとめて会うこともできた。縁がつながっていく人は不思議につながっていくし、縁が薄くなってきた人は、それになりに薄まっていく。面白い。

 年が明けたら、雑誌の郵送作業だ。日本在住の執筆者にまず送ろう。それが一段落したら、次の8号に取り組むことにしよう。小さな雑誌ではあっても、雑誌作りは私にとって、生きる証でもあるし、何よりも喜びである。

 ブログの読者の皆さん、2009年も充実した良い年になりますように。何よりも健康な年になりますように。

2008/12/21

亡父のこと。

 亡くなって2年が過ぎ、ようやく父はもうこの世のどこにもいないんだという事実を受け入れられるようになった。死に目に会えなかったことがこんなに尾を引くとは想像だにしていなかった。死亡診断書など、書類上でしか父が亡くなった背景を知ることができなかったことは、娘としてどれほど無念だったか言葉に尽くすことができない。でも、病魔に冒されて、見るのもつらい状況を見ないで済んだという点ではよかったのかもしれないと自分に言い聞かせている。

 私が最後に見た父は、まだ55歳。新聞社は退職したが、まだまだ若々しく、現役のジャーナリストとして活躍していたときの父である。  

 11月にソウルへ行ったとき、明洞のカフェでヒョッチャといろいろと話した。その折、亡くなった父のことも話題になったのだが、話しているうちに涙が出てきて止まらなくなった。ヒョッチャも泣いていた。どんなにつらかっただろうと言った。一緒に泣いてくれる友人がソウルにいることに私は感謝した。  

 私は父から多くのことを教わった。高校生のときに初めて飛行機に乗って大阪に連れて行ってくれたのも父だ。春休みだったか、取材に同行したのだが、一流ホテルに泊まったのもそのときが初めてで、シャワーカーテンをこうやって、バスタブの内側に入れて、シャワーを浴びることだとか、ホテル宿泊の際のあれこれ、飛行機搭乗などについて、知らず知らずのうちに指導を受けた。私が一人前の女性として、将来どこに行っても恥ずかしくない程度の知識を与えてくれたのではないかと今頃になって思い当たるのである。  

 取材先にもついて行き、父がインタビューする様子、写真を撮る様子など具に見た。父は写真のセンスも良かったので、カメラマンが同行する場合より、自分で文章も写真も全部やる場合の方が多かったらしい。取材先の父は、家にいるときには見せない表情で、熱心に相手の話を聞き、質問をし、重たいカメラレンズを交換しては(デジタルカメラなどない時代である)、顔から流れ落ちる汗をふき取る余裕もないまま、次から次にアングルを変えて熱心に撮影していた。父が働く現場に立ち会えたことは、今になってみれば、貴重な経験をしたと思う。 

 写真のセンスは、学校で習うものではない。自ら自然に身につくものだ。基本的に芸術的センス、美的センス、審美眼、色彩感覚などはどこに行っても教えてもらえない。これは生まれついてのものだ。私はこれらを父から受け継いだと思っている。父も技術的なことを除けば、私に一切教えてくれなかった。 

 高校入学のときに父からプレゼントされたセイコーの腕時計。手動のねじ巻き式だ。何十年も前にとうとう壊れて、あちこち修理に出しても、「もう中を分解してもダメですよ」と言われた。でも捨てられなかった。  

 それが、急に思い立って、10月にセイコーに問い合わせた。やはりもう昔の型だから部品もない、でも念のために時計修理専門の会社を紹介しましょうと言われ、築地のモントルという修理専門会社にこの時計を持って行って見てもらった。すると、直りますとのこと。分解掃除して、部品を新しくして、ちょっと時間はかかりますけどとのこと。 

 年内は無理だと思っていたら、存外早く修理できたと電話が入り、私は嬉々として築地に行った。あと5年はこのまま行けますよ。その頃またオーバーホールをすれば、ずっと使えます。 

 銀座の三越で新しい革のバンドに交換した。見違えるほど、素敵になった。文字盤が紺色だったのも当時としては洒落たものだった。高校入学を祝って、父が行きつけの銀座の天賞堂で買ってきてくれた時計がとうとう蘇った。 

 明日、この腕時計をして、私はソウルへ行く。

2008/12/20

恥を知りなさい、トヨタ!

 上半期に随分景気のいい数字を挙げて、今年の就職は売り手市場だなんて言っておいて、この後に及んで、なぜ、そんな数字を挙げて、多くの派遣、期間社員を首にし、高卒就職予定者を反故にし、本当にひどい企業体質だ、日本の一流と言われる製造業。

 中でもトヨタ。呆れ返るね、まったく。前社長の奥田なんとかの言葉「朝から晩まで年金、年金...とばかり言うんだったら、うちのCMやめるよ」。やめれば!

 この人の一言はそのままトヨタというアクドイ企業体質を曝け出していることに、どのメディアも触れない。そう、トヨタのコマーシャルで食ってるんだからね、TV局も新聞社も。

 奥田何某の言葉は、言論の自由に対する見過ごすことのできない暴言だよ、まったく。年金問題がここまでこじれたのは、そう、社会保険庁(以下シャホチョウ)、厚生省そして何より、政府が悪い。あのマックスウェイバーも言ってたよね、すべての腐敗は官僚制から来るって。

 どの国も腐敗した官僚制が国民を苦しめている。日本も例外ではないが、それにしてもひど過ぎる。我々が少しずつ払ってきた年金を、遊興費はおろか、日々の弁当代にまで変え、あっと驚く安い宿舎でのほほんと暮らしてきたシャホチョウの面々。許しがたい。

 時間は押してるのよ。当然もらえる年金をもらえないまま亡くなって行く高齢者も出てきているのに。人が足りなきゃ、雇用促進も兼ねて、コンピューターと格闘してほしい。我々が納めてきたアナログの現金と、パソコン上のデジタル数値をきっちり明らかにしてほしい。

 そして、再びトヨタ! 軍事産業で散々儲けて、排出ガスにそれほど神経使わないまま、裸同然の女の子をモデルにして派手なモーターショーをやってからに。その旧態依然とした体質について、私はどこまでも追及したい、ところだが、データ不足。報道関係者、もっと真面目にやって下さい。といっても期待薄だなあ。

2008/12/18

ファイルがあった。

 私が見落としていただけだった。ちゃんと全ページ揃っていた。おまけにデザイナーのコメントまで付いていた。いや~、便利になったものだ。 
 
 日本語部分の漢字がすべて韓国式正字になっているのは今に始まったことではないが、実はこの漢字変換が曲者なのだ。結局、いつも一字一字修正する以外にない。日本語フォントを持っている出版デザイン会社は掃いて捨てるほどあるが、この10年間一緒に仕事をしてきた情というか、仲間意識は捨てがたいので、ぐっと我慢しているというわけ。  

 デザインはほぼ合格点だが、デザイナー自身が日本語を知らない人なので、細かい所になると微妙にニュアンスの違いが出てしまう。出発までに点検して、差し替えの写真などはあらかじめ送ってしまおうと思う。 

  今日、明日が勝負だ。

氷雨そして圧縮ファイル

 外出先から戻ると、留守番電話が入っていた。メッセージなしだったので、またあの話の通じないセールスマンだと思って、とりあえず風呂に入った。身体の芯まで冷え切って風呂にでも入って温まらないといられない。

 風呂から出ると、電話。ソウルのN社長だった。昼間電話しても出ない、メール確認してほしいとのこと。先週末あたりにデザイン第一弾をEMSで送るという話だったのだが、なんの連絡もないので諦めていた矢先の電話だった。急いでメールを確認すると、会社のホーム・ページに入ってログインすれば、雑誌のデザインをすべて見ることができる、ログイン用のIDと暗証番号が書いてあった。 

 言うとおりログインしてみたのだが、何度やってもログイン失敗と表示される。その旨電話すると、では添付ファイルで送ります、さっきEMS便も一応出したけど、週末にならないと到着しないからとのこと。土日到着ではあまりだ。私は月曜日にソウルに行くのだ。飛行機の中でデザインの校正をする羽目になる。それは避けたい。 

 ということで添付ファイルを待つが、圧縮されてもかなりの容量だ。いくつかに分割して送ると連絡入る。その間に夕食を済ますが、ファイルは届かない。9時近くなったので、寝ることにした。メールで、明日、夜明けに確認するのでよろしくと出しておいた。 

 寝入りばなにN社長からの電話。「確認よろしく」。ふらふらしながらメール確認。圧縮ファイルの一部が届いていた。表紙、裏表紙ほか9ページ分。残りはどうなったのか。その旨メールして再び就寝。で、今朝、確認したら、あの後、何も送っていなかった。今日は一日、その対応に追われるだろう。

2008/12/16

怒りの第2弾!

 9月だったか、役所の役人根性について書いたことがあったけど、あの自転車駐輪に関しては、なんの進展もないまま連絡さえ来なかった。わざわざ家の電話まで言わされて、不愉快極まりない。年明けに、もう一度苦情の電話を入れるつもりだ。相手の名前もメモしてある。この粘り強さがなければ、日本は決してよくならない。

 さて、今日の怒りの対象は銀行だ。マニュアル通りにしか働けない、情けない人種のことはさておき、腹が立つのはその硬直したシステムに対してである。

 1.キャッシュ・カードで現金を引き出せないので、その旨を窓口に行って伝えると、カードの磁気に何か問題があるかもしれない、新しくカードを作る必要がある、その手続きをしてほしいとのこと。
 2.その手続きには通帳の印鑑が必要であり、新しいカードが送られてくるまでに1週間から10日かかること。

 カードの不具合は銀行の責任ではないか。韓国だったら、その場で新しいカードに取り替えてくれるよ。印鑑をいつも持って歩くアホがいるだろうか。どうして1週間も10日もかかるのか、年が明けちゃうよ。

 まったく顧客のことをちっとも考えていない、相変わらずの銀行スタイルだ。これは窓口の女の子の責任ではない。銀行のシステム自体の問題だ。銀行のサービスが名ばかりになってから久しいが、我々庶民の税金を銀行再建に使い込まれた上に、こんな仕打ちがあるだろうか。

 あまりの不合理に私は怒りながら、来年のカレンダーを取って、さっさと店を出た。たぶん、この銀行は近い将来潰れると思います。懲りずに外国の不良債権にかなり手を出したらしいからね。一度潰れてみなければ、わかんないんだろうな。自業自得だね。

教保ブックログのこと

 2005年2月から始めた教保文庫提供のブックログ。本来は書評専門のブログなのだが、最近は専らマイストーリーの書き込みをしている。いくつかの項目を立てて、今は「モノローグ」「素朴な疑問」「日本の現実」「私だけの記憶」の4つにして、それぞれ韓国にちなんだことを勝手に書いては楽しんでいる。

 最近はコメントの数が急に増えて、昨日のポスティングにはなんと、40件以上のトックル(コメント)がついた。反応があるのはうれしいのだが、びっしり書き込まれたコメントを読むのも大変だ。でも私はそのおかげで、ハングルを読む速度が速くなった。韓国語読解の上達にはコメントを読むのが一番適しているかもしれない。新聞記事や論文の類よりずっと面白く読めるからだ。

 来週月曜日からまたソウル行きだ。大晦日まで滞在して、雑誌発刊に漕ぎ着けたいところだが、万が一、年内に間に合わなければ、それはそのときだ。また1月になって行けばいい。無理をする必要などないのだから。

2008/12/10

日本のマスコミ、変だぞ!

 NHKテレビをひねれば、冒頭に必ず登場する幼女殺人事件。いつも同じ調子で呆れるほどだ。この事件の容疑者とされている男性についての情報、つまり知的障害があったらしい云々についてはどこの局を見ても、ほとんど触れられていない。

 知的障害者、その他の障害者の「性」の問題は、本人も含めて家族も、特に母親にとって、量り知れないストレスをもたらしているという事実。これを真正面から取り上げるマスメディアがないという情けない実態には、もう絶望するしかない。

 すべての人は文化的、社会的に快適に暮らす権利を持っている。健常者でも障害者でも同じことだ。しかし、障害者にとって快適な生活がもたらされているとは、誰も思わないだろう。
「性」の問題はデリケートなものだし、それは多分に個人の領域に属するから、タブーも多い。でも同じ人間として生まれてきたからには、「性」の喜びも同じように享受されるべきである。にもかかわらず、障害者の「性」の問題は、ほとんど話題にのぼることもなく、陰湿さを帯びてひっそりとした存在となってしまっている。

 よく言われていることは、障害者の息子を不憫に思って、その母親がその相手をするということである。だからと言って、誰がその母親を責める権利があるだろうか。

 最近聞いた話だが、風俗に勤める若い女性がこの実態を憂い、積極的に障害者の「性」の処理を買って出たという。実に見上げた職業意識だと、私は感嘆した。ところが、某週刊誌が彼女を興味本意で取材したそうだ。まったく呆れて物が言えない。

 日本のマスコミ人の水準の低さは、もうだいぶ前から実感していることではあるが、「悪貨は良貨を駆逐する」んだね、まったく。

 以上の情報は、インターネットで知ったことだ。既成のマスメディアがダメなら、もっと良心的で、社会の木鐸となるような、本来のジャーナリズムの誕生を心待ちにするしかないのか。

2008/12/09

実は優柔不断なヒョッチャ

 ソウル滞在中に知り合ったヒョッチャとも、もう11年の付き合いになる。年齢が近いこともあって、話が合うし、彼女のいい点、悪い点もほとんど全部わかっている。人間味があって、何より正直なところが私は好きだ。 

 当時、彼女とは家も近かったので、よくデイトした。「보고 싶다」と電話してきては、突然会いに行ったりして、牧師のご主人も呆れるほどだった。帰国してからも、メールではなくて、手書きの手紙をよくくれた。いつも最後に「会いたい」と添えてあった。ご主人が「僕にはそういう言葉かけたことない」と言って嘆いたそうだ。そう言ってからかわれるほど、私たちの関係はよかった。 

 彼女の欠点は、サービス精神が良すぎて、ついつい心にもないことを言ってしまうことだ。これは彼女のせいというより、牧師夫人という職業柄来るものかもしれない。私にはすぐわかるのだ。ははあ~ん、また心にもないこと言ってるわ。無理して言ってるからすぐにわかる。 

 一緒にショッピングに行くと、彼女は品物選びにひどく時間をかける。私がパッと決める方なので、よけいそう感じるのかもしれないが、一つの品物を、ためつすがめつして、ようやく買うことに決める頃には私は待ちくたびれている。 

 そうやって買ってきた物なのに、結局どこか気に入らなくて、品物の交換に付き合ったことも一度や二度ではない。デパート、市場、とにかく自分が買うと決定した物なのに、自宅に戻ると考えが変わるらしい。「帯に短し、たすきに長し」なのだったら、買わなければいいのだ。私なら気に入ったものは一目でわかるし、少しでも難があれば、妥協などしないで買わないという選択をする。ところがヒョッチャはそこがどうも優柔不断というか、散々迷ったあげく、買うのだが、やっぱり細かい所で気に入らなくて、交換に及ぶのだ。 

 11月にソウルに行ったとき、明洞のカフェでじっくり話しながら食事をした。比較的落ち着いたカフェで、明洞に行くと、私たちは必ずここに行く。軽い食事もできるので、韓国料理で胃が疲れたときなどは、少し少なめのここのピラフがちょうどいいのだ。コーヒーはいくらでもお代わりできるし。 

 そのとき、私のデジタル・カメラを見て、「いいわね、それ。今度私の分、買ってきて」と言ったのだ。日本円にして2万円ぐらいだから、韓国ウォンで20万ウォンほどだと言うと、「それだけの機能でその値段は安い。12月に買って持ってきて」と頼まれた。 

 帰国してしばらくしてから、家電の安売り店に行った。私と同じタイプのものを問い合わせると、在庫がもう出ている1台だけとのこと。私は迷わず買った。8月に買ったときより、安くなっているし、次世代の新型タイプは3万円台で出ている。さすがに次から次へと出るもんだと思った。新型はI Podのように指で自由に画面操作できるタイプだった。  

 「カメラ、買ったわよ」とメールを出した。すると、何日かして来た返事には、「悪いんだけど、あのときは計算違いをしていた。今、冷静に計算したところによると、円の15倍だから、20万ウォンではなくて、32万ウォンになる。これでは到底買えない。返品してくれないだろうか」とある。  

  カードで買ったから返品は効かない。それに、今のレートで計算してお金をもらうつもりは毛頭なかったので、「32万ウォンはあまりにも高すぎる。私は円を韓国に持って行ってウォンに交換する観光客ではないから、11月のときも既にある韓国の通帳から必要なお金を下ろして使った。だから、ウォンに対する感覚は韓国人と同じ。実質換算は10倍ぐらいだと思うから、20万ウォンでいいわよ」と返事した。  

   これに対する返事。「それではGamilaが損するだけだわ。もちろんこちらとしてはありがたいけど、それでは申し訳ない。今晩、電話するね」  

  で、結局、電話はかかってこなかった。12月にはこのカメラを持っていくしかない。ヒョッチャが本当にこのカメラが必要だったのか、今となっては疑問だ。

2008/12/05

恩人の死

 12月に入ると、やたら喪中欠礼の葉書が舞い込む。年賀状を書かなくなってから、もうかなり経つが、喪中欠礼の葉書は年々増えていく。年を取っていくということはそういうことなのだ。 

 私の処女出版のときに散々お世話になった編集者が亡くなった。一昨日奥様の名前で喪中欠礼の葉書が来たのだ。もう驚いて、暗澹たる気分になった。一昨年だったか、癌の手術を受けられたことを知り、でもまあ手術も無事終えられたんだから、経過観察しながら長生きなさるだろうと楽観的に考えていた。

 最後にお会いしたのはもう11年前になるだろうか。あれが最後になるなんて想像もしなかった。生命力の強いイメージがあったからだ。来年になったら、出来立ての雑誌を持って久しぶりにお目にかかろうかと思っていたので、言葉を失うばかりだ。 

 奥様に手紙を差し上げようと思うが、まだまとまらないままこの2,3日を過ごしている。手紙を1通でも送ることで、故人を偲びたいと思っている。 

 日本の出版社は90%が零細企業だ。ひとりでやっている出版社もたくさんある。恩人の会社も奥様とふたりで長らくやってこられ、いつも志の高い本を出されてきた。そのラインナップに私の本もあるかと思うと、身の引き締まる思いがする。  

 お会いしたら、話したいことが山ほどあった。会わなくても、こう言ったら、どう反応するかもおよそ想像はついたが、とうとう実際に会うことは叶わなくなった。志が高いということは頑固一徹だということだ。頑固一徹に自分のスタンスを崩さずに納得のいくものだけを出版し続けたこと、そのことに畏敬の念を覚える。 

 世に出版物は掃いて捨てるほどある。そのときだけの話題を追求するような、いわゆるゾッキ本の類に入ることなく、私の本もひとつの資料として残っていくだろう。12年前に嫌な顔ひとつせずに共同出版を承諾してくれ、私を世に出してくれたこの恩人にあらためて感謝したい。そして心からご冥福を祈りたい。

2008/12/03

ついに!

ついに終わった!

遊ぶぞ。

2008/12/02

マムリで苦しむ。

 1日の夜明けに届いたばかりの原稿の翻訳1本、すでに訳したもののチェック2本、写真集め、各ページの整理。これが今の懸案事項だ。詩の韓国語訳はまだ届かない。昨日、もう一日待ってくれとメールが来たからしかたない。今日一日様子を見ることにした。詩の翻訳は難しい。新聞や論文の翻訳はけっこう簡単に済む。詩はそういうわけにはいかない。たぶん、翻訳者も詩は初めての経験だろうから、思う存分苦労すればいいのだ。

 この2、3日、最後の仕上げ段階(韓国語でマムリという)でかなり煮詰まってしまった。で、結局、昨日は美容院に行った。気分転換がどうしても必要だ。ボサボサの髪もすっかり軽いスタイルになって、私の気分まで軽やかになった。ショート・カットなので1カ月に一度は行かないとだめだ。私は特に髪が伸びるのが速いそうだし。来年は年明け4日には出てますからと、担当の女性に言われた。来年か。2009年。

 そんな先のことは考えられない。帰宅後、またパソコンに向かう。今日中には、メール添付でN社長に送ってしまいたい。これも詩の翻訳者次第だ。そして明日には写真なども含めてEMS便で送りたい。送ってしまいたい。終わりにしたい。解放されたい。

2008/12/01

原稿が揃わない!

 うんともすんとも言ってこない執筆者から今日になって原稿が届いた。なかなかの仕上がりだ。ボツにするわけにはいかない。11月末までの締切りだから、ほぼ締切りは守られたと言ってよい。今日は、急遽その翻訳をやってしまわないとならない。

 もう一人、詩の韓国語訳を頼んでいたN氏。11月末までにはきっと仕上げて送りますとメールが来たのに、それっきりだ。今日中に来なかったら、国際電話をかけてみよう。彼のはそのままCDに焼けばいいからこちらの負担はない。

 この調子だと、今日中にEMS便で送るのはむずかしくなってきた。今日最後の点検をして、明日送ることにしよう。今日一日の辛抱だ。

 最後の辛抱。実はこれが苦手なのだ。いつも最後の詰めが甘いと発行人から非難されるのだ。詰めが甘い。これ、私の最大の弱点。粘りがあるようで、ある時、プツンと切れてしまうのだ。これさえ改めれば、かなりの偉業を成し遂げられたかもしれないものを、ダメである。最後の踏ん張り。2008年、12月になって嫌というほど痛感するのだった。

2008/11/29

いやー、格好いいね、ヨム・ジョンア!




 SBSドラマ「ウヮーキング・マム」が面白い。テンポがいい(韓国では、今年の夏に放映された)。主演のヨム・ジョンアがかっこいいのだ。ミス・コリア出身の彼女、身長は171センチ。結婚出産後はかなり貫禄のある体格に変身した。そのLサイズの体躯を駆使して、小柄な浮気亭主を手玉に取る。少々吊り上がり気味の目も、迫力ある役どころに一役買っている。

 韓国の婦人服のサイズは55サイズ、66サイズ、77サイズとあるが、日本式に言うと、それぞれ7号、9号、11号に当たる。結婚前のアガシなら、誰でも55サイズが当たり前。66サイズより上はアジュマの世界だ。おまけに同じMサイズでも、日本のものよりかなり身体にフィットした感じのものが好まれ、ボディーラインが浮き彫りになる。窮屈この上ない。あまりにも男性の眼を意識しすぎなんじゃないのと、反感さえ覚える。


 「ウヮーキング・マム」のチェ・ガヨン(ヨム・ジョンア演ずる)は、アジュマサイズのたっぷりした服を着こなし、年下の頼りない亭主を蹴り上げたり、どついたりして思う存分攻撃する。見ているこちらまでスッキリとした気分になる。このコメディー、脚本がよくできていて、もったいぶった所が微塵もない。世の働くお母さんにとって、いいストレス解消ドラマになっている。


 まだ、ドラマ中盤なので、この先どうなるか見物なのだが、離婚にこぎつけたガヨンの運命がどう展開するのか楽しみだ。脇役に芸達者ばかり集め、スピーディーなドラマにコクを出してくれた。久しぶりのSBS快挙といってもいいだろう。

2008/11/26

韓国ブログの魅力

 取材を除けば、デスク・ワークがほとんどなので、パソコン相手の毎日、何に励まされるかと言えば、ブログ(韓国語、日本語それぞれ1本ずつ)と書評専門のブックログ(教保文庫提供、韓国語)の3つのブログ掲載文に対するコメントである。

 特に最近は教保のブックログの読者が固定してきたので、多様な意見や感想をもらうようになり、こちらの意図したことを十分に理解してくれたコメントには感動すら覚えることがある。Naverのブログは読者がほとんど20代、30代なので、こちらは真面目な討論を期待するわけにはいかない。ほとんどが面白可笑しく私のブログを楽しんでくれている。それはそれで満足だ。

 唯一の日本語のこのブログ、あまり宣伝していないせいもあるが、コメントはほとんど、ない。これが日本的な現状なのか、ほかのブログを見ていないのでよく知らない。どうも黙って読むだけの人が多いようだ。ちょっと物足りない。基本的に日本人は論争を好まないのか、当たり障りのない付き合いを好むように、ブログの様相も静かこの上ない。

 話は変わるが、誰があんな知的水準の低い首相を選んだのか。恥ずかしながら、元をただせば我々有権者である。訳の分からない給付金をばらまくのだって、政教分離を叫んでいる某宗教政党のためではないか。こんな可笑しな政治があるだろうか。先進国(?)と言ったって、この半世紀あまり一度も政権交代が行われなかった国なんて日本ぐらいだろう。ああ、情けない。

2008/11/25

因縁

 韓国人の3割がクリスチャン、仏教徒も3割、残りは無宗教あるいは民間宗教、新興宗教である。クリスチャンが1%にも満たなくて、仏教といったって葬式仏教に堕している日本からすると、韓国は、日常生活の中で宗教の占める位置がかなり高い国だといえる。  
 韓国人と実際に関わるようになって10年あまり経った。その前の数年は書物などを通しての韓国人像だったので、読むと見るとでは大違いの彼らの実態に触れるようになって、私の人生はかなり大きく変貌したといえる。この間にどれだけ多くの韓国人に出会ったかわからない。でも、今でも付き合いが続いている人々は限られてくる。  
 「縁」「因縁」という言葉はとてもありがたい。英語圏には存在しないこの言葉、日韓ではよく使われるし、この言葉一つで話が通じるからだ。인연(因緣)は仏教から来た言葉だと思うが、この10年あまりの彼らとの付き合い、変遷の中で、自然淘汰されていくように互いに必要な人々だけが残ったという感じがしてしょうがない。今たとえ縁が切れていたとしても、縁があればまた会えるという思いもある。  
 今回のソウル行きで彼ら10年組のうち何人かと会った。お互いにまだ若かった時の記憶はあるけれど、目の前で笑っている彼らや私の気持ちは当時とほとんど変わっていない。それにしても10年という歳月は長い。長い独身生活に別れを告げ、結婚して家庭を構えた人、当時、日本語がほとんど話せなかったのに猛勉強して東京に留学し(国費留学)、博士号まで取って帰国した人、あの頃まだ中学生だった娘の結婚問題でやきもきしている友人、癌を克服して再出発した人、今までの商売を畳んで、来年から新しいビジネスに再挑戦する友人などなど、本当にひとくちに10年と言っても、さまざまな人生があったのだ。  
 その間に私は雑誌を6号出した。忘れた頃に出してきたけど、雑誌の名前だけはみんな覚えてくれている。来年1月、3年ぶりに7号が出るが、続けていて本当によかったと思う。雑誌を媒体にして私が韓国とつながっているような気がするからだ。それがたとえ幻想に過ぎないとしても、笑顔で迎えてくれる彼らチングがいるだけで、私は満足である。

2008/11/23

予定と現実の間で、11/15(土)雨

 韓国人の知り合いに何か頼み事をしたとする。彼らは大概OKしてくれて、「何の問題もない。Aも可能だし、Bだってある、うまくいけばCの可能性もある...etc」話は限りなく拡大していく。そう言われれば期待してしまうのが人の常。でも私はかなり前から「話半分」の対応を身につけているのである。
 「約束」にしたって同じことだ。「いついつに、これこれのことで伺いますが、ご都合はいかがでしょうか」と、事前に打診して快諾されたとしても、実際出向くと、超忙しい状態だったりして、「それだったら、そう言ってよ」と私は口をとんがらかすのだ。でも相手が初対面の人だと、そうもいかない。いつもの韓国スタイルだとさっさと諦めてしまう。私のためでもある。

 というわけで、11/14の金曜日にメイン・テーマの取材をなんとか終えて、翌土曜日、OMくんとの約束だけなので、気楽な気分で久しぶりにオフィステルでゆっくりした。朝から冷たい雨が降って、前日までの穏やかで暖かな日々から突然初冬へと季節が移行したような日だった。
 「土曜日は12時で終わるから、そうですね、お昼は別々になるけど、2時以降には市内で会えます」と電話で聞いたのが、2,3日前のこと。午前中に何の連絡も来ないので、文字メッセージを送ってみた。「今日に限って仕事が伸びて、まだ終わらない。この調子だと、夕方4時くらいになりそうだ」との返事。こちらもこの間の蓄積疲労で頭がちょっと痛い。食欲だってない。午後はTVを見ながら、ゆっくり過ごした。
 OMくんは、京畿道にある会社に勤務しているので、江南だったら30分くらいで来られても、私が泊まっている麻浦(マポ)まではちょっとかかる。雨はますます激しくなり、低気圧のせいか、頭痛もひどくなってきた。
 4時半くらいに連絡があり、今、ようやく地下鉄に乗ったので、5時半には着くだろう。何番出口でしたっけと言う。麻浦まで来てもらうのも大変なので、光化門の教保文庫で会おうと提案した。そこなら私も15分くらいで行ける。
 地下鉄5号線で光化門へ。土曜日の教保文庫は人でごった返している。相変わらず頭が痛いので、書店奥のカフェで待っていた。6時を過ぎても現われないので電話すると、「駅を間違って降りてしまった。今、鍾閣から走っているところです」なんでまた途中で降りたのか、それも地下鉄1号線、まったく何を考えているんだか。
 で、結局6時半にやって来て、「朝から何も食べていない、さあ行きましょう」と言ってせかせかと鍾路の方に向かって歩いていくのだ。
 ソウルに着いたときに、どこか行きたいところがあれば考えといて下さい、などと言っていたのに結局今回は夕飯を食べるだけになってしまった。でも私は驚かない。無事会えただけでもめっけもんである。
 1年半ぶりに会うOMくんはすっかり明るい雰囲気になっていて、社長にも可愛がられているらしい。失業、転職、失業、アルバイトそして就職と、知り合って5年になるこの青年の転戦ぶりをずっと見てきた私としては喜ばしいことこの上ない。

 あとはヨジャ・チングとうまく巡り合えればいい。週末ごとにソゲッティングに出向いているとのこと。携帯に収めた、次回会うことになっている女性の写真を見せてくれた。まあまあ可愛い。性格良さそうだと言うと、身長が160センチないんだってと言う。性格良ければ関係ないじゃないと言っておいた。それと、約束時間を決めるときは無理のないように余裕を持って決めなさい、今日みたいだったら、いくら仕事がらみでも女性に逃げられるわよ。はいわかりました、と言ってニヤッと笑った。
 次回は、ヨジャ・チングにも紹介してほしいな。

2008/11/21

多くの人に会った。

 今回は随分たくさんの人に会った。初対面の人が3人。あとは、旧知の仲だ。小説家で編集者のN氏、日本企業のソウル支店に勤める J氏、写真家のG君、7月に東京に来たM君、自称「息子」のO君、親友のヒョッチャ、翻訳者Hさん、5年の東京留学を経てこの春帰国したW君一家、雑誌創刊号のときから関わってくれているS君、そして出版・印刷のN社長だ。

 初対面の3人は、ひとりが私の読者、一人は今回の取材先、そして最後はカメラLomo-LCAのサイトで6年前に知り合い、今は互いのブログで書込みをやっているアルハ君である。アルハ君とは初対面でもこの数年にわたるオン・ラインでの交流がある。だから実際に会っても違和感はなかった。

 東京も一昨日ぐらいから寒気団が南下して急に寒くなってきたが、ソウルも帰国直後に寒波に見舞われ、19日はマイナス10℃まで下がったという。初雪も降ったらしい。昨日の午後はいくらか寒さも和らいできたと、N社長のメールにあった。

 目下取材原稿を整理しながら、翻訳作業にとりかかっているが、留守中の郵便物の整理など家の中の仕事もけっこうあって、昨日は一日中籠もっていた。今日は舅の見舞いに行く予定だ。義父も待っていることだろう。私も会いたい。

2008/11/20

マロニエ公園の銀杏


    2008年11月13日(木)ソウル恵化(ヘファ)
*写真は、クリックして見て下さい。

2008/11/19

20℃の差

 夕べ、帰国した。
 ソウルは週明けから冷え込んだ。晩秋から初冬の気候になると天気予報で騒いでいた通り、18日朝は零下5℃まで下がった。
 室内は何の問題もない。外は急激な冷え込みに身体が慣れていない上に風が強く、久しぶりのソウルの冷気に感動すら覚えるほどだった。

 羽田に夜6時過ぎに着いたら、気温16℃。だから20℃の差だ。この暖かさが、東京の銀杏の色づきを悪くしているのだ。マロニエ公園の銀杏のまっ黄色なことと言ったら、もう、言葉に尽くせないほどだった。今日から少しずつソウルでの1週間について書いていく。

2008/11/11

では、行ってきます。

 東京もこの所冷えてきた。その方が私には都合がいい。今日から出かけるソウルとの差があまりにも大きいと身体がついていけないかもしれないから。今朝のソウルは7℃、昼間は15℃くらいまで上がって、気温差が大きい(일교차가 크다)。東京も今朝は10℃を下回ったし、日が射さないので昼間も14℃くらいまでしか上がらないという。 

 スーツ・ケースを少しでもすっきりさせたいがために、昨日は一日中、下着やカットソー、靴下、ストッキング、カーディガンなどを出したり入れたり、せわしなかった。胸元と腰を暖かくすれば防寒は完璧だ。かと言って、ポリウレタンの入ったカットソーのタートルだと、首周りがキュッとなって、着ていると次第に胸苦しくなる。綿100%のものでも、その織り方によってはゆとりがなくなる。 

 パンティー・ストッキングは嫌いなので、ゴム付きストッキングだ。パンツは又上の深いもので、ウエストの伸びがよくないと、やっぱり着心地が悪い。靴下はウールのものも2つ入れた。靴は履きなれている、くるぶしまでのブーツ。マフラーは軽くて暖かいカシミヤのものにした。 

 帽子と手袋は薄紫のスエードと合成皮革のもの。帽子は型崩れを気にせずに、ポケットに丸めて入れられる。セーターは、カシミヤのグレーのフレンチ・スリーブのと、黒のタートル、それに黒のカーディガンを入れた。下着代わりにハイネックやタートルのTシャツも入れた。 

 ソウルは当分晴れが続くらしいが、日曜日に雨が予想されている。折りたたみの傘を入れていくかどうか、思案中だ。

2008/11/09

見返りを求めない愛。

 両親から受けた愛を一言で言うと、それは見返りを求めない愛である。それは目に見えないものだ。そのときには気がつかなくても、後になってしみじみわかる愛だ。年齢を重ねてみると、そのことがいよいよはっきりしてくる。

 父母の愛に勝るものはない。私は子供を持たなかったから、本当の意味で父母の気持ちがわかっていないところはあるだろう。母にならなければ、自分の子供に対する慈愛、いとおしみと言った感情は切実なものとしては迫ってこないだろう。だから私が考えることはあくまで推測に過ぎない。

 見返りのない愛ほど美しいものはない。相手に対してここまでしたのに何の反応もなかったとか、こちらを利用してばかりの相手に対して腹を立てたりとか、そういうことが一切ないということだ。

 そういう意味で、私は韓国の知人からどんなに深い思いやりと愛情を受けたか知れない。残念なことに、日本ではあまり体験したことがなかったものだから、彼らの「情」の深さに、最初は戸惑いながらも次第に甘えていく自分を見出だすのだった。

 1年あまりのソウル滞在のときも、2年余りの留学時代も、私は本当にどれだけ多くの韓国人の情に支えられて過ごしただろう。たった一言でも、その思いやりの深さにどれだけ励まされたことか。それは年齢、性別を超えて、いつも私を元気にしてくれた。

 「韓国では水を得た魚のようね」と、昔日本人の知り合いから言われたことがある。そう言われてみてそうかもしれないと思った。基本的に私は日本にいるとエネルギーが枯渇し、韓国に行くと、生き生きとしてくるのだ。食べ物のせいばかりではない。それはやはり韓国人の深い思いやりのお陰なのだ。

 もちろん韓国も日本のように物質主義が横行し、自分の肩書き、経歴のためには何でもするという俗物根性丸出しの人もいるにはいる。でも、表面的な社会の趨勢がたとえそうなって行っても、社会の底に流れる情緒はそれほど急激には変貌していかないものだ。その情緒はすでに日本では見られなくなった。

 日本は随分ドライな社会になってきた。自分もしくは自分の家族さえよければいいという人が増えた。それだけ世知辛い世の中になったのだ。ゆとりというものがおよそ感じられない。韓国も確かにゆとりがなくなってきた。でも思いやりという人間最後の砦はちゃんと残っているように思う。日本がそれを取り戻せるか、そして韓国がそれを維持できるか、それが私の関心事である。

 

2008/11/08

よくわからないBoAちゃん

 BoAオタクのBoAちゃんに宿泊先を明記したメールを送ったのに、返事がいつものように電光石火のごとく届かない。そうなることを私は予想していた。83年生まれなのだが、働いていないのは確かだ。かと言って学生でもなさそうだ。江南に暮らす、金持ちのお坊ちゃんという感じなのだ。

 彼はブログ更新に毎日の大部分を費やしている。友人に会う話もあるが、だいたい江南のCOEXあたりでけっこう豪華なランチを食べている。同じソウルでも彼は江南しか知らないみたいだ。お家はお金持ちらしい。夏には両親がニュージーランドに出かけて、妹と二人でピザを取って食べたというメールをもらったことがある。

 昨年、秋に友だちと東京に来るというので、請われるまま東京の情報を送っていたところ、突然来れなくなったとのこと。びっくりした。そうこうするうちに11月からすべての外国人旅行者が指紋押捺を義務付けられるようになり、彼はそれをひどく嫌った。
 日本もUSAに倣ってテロ支援国家に対する警戒を強化するために去年の11月から指紋押捺を実行することになった。私も情けないなあと思った。韓国はそこまではしない。指紋押捺のいやな気分はやったものでないとわからない。

 1997年に韓国入りしたとき、出入国管理局で10本の指をスタンプにつけて押捺したときの気分は忘れられない。ただ韓国国民は全員指紋押捺をして住民登録をしているのだから、郷に入っては郷に従うしかないねと諦めた。

 夕飯を食べて、メール確認をしたら、BoAちゃんから返事が来ていた。案の定、「僕は江南しか知らないから麻浦(マボ:私の宿泊先)まで行くのは面倒だ。遠いとのこと。随分フットワークの悪い子だなあと私は苦笑するしかなかった。

 人はそれぞれさまざまな事情を抱えて生きている。あまり詮索してもしかたない。とにかく私がソウルに到着したら電話をしてほしいと言うので、電話だけすることにした。12月の日本語能力試験を控えて、最後の特訓でもしてあげようかと思っていたのに。

 で、BoAちゃんの代わりに아르하くんと会うことになった。彼は幻想文学を主宰する文筆家である。元々Lomo homeのサイトで知り合った好青年だ。もう6年前のことになる。このサイトではもう一人OMくんという、自称私の息子とも知り合うことができた。そういう意味でも私はLomo homeの主催者MGくんには感謝している。

 これでソウル到着当日、12日、13日、14日までの予定が埋まった。かなり順調なスケジューリングだ。ソウルにはノート・ブックを持っていかないので、出国前に具体的な約束が決まっていくのはありがたい。

2008/11/07

タイミングのいい人、悪い人

 立冬。今日は一日中雨が降るから、気温も上がらないだろう。

 昨日、ソウルで会うことになっている何人かの人とメールのやりとりをした。外国語専門高校の取材を最優先していたので、それが14日の金曜日になんとか確定してホッとした。残りの約束はいくらでも融通が効くからだ。

 12日(水)の予定が14日に変更になったので、12日と13日にうまく会える人を何人か選び出して、すぐにメールを送った。一人は折り返し返事をくれて、彼とは12日の昼間会うことになった。彼は私の本の読者である。読後感想文を私に送ってくれた27歳の青年で、その後も何度かメールのやりとりをしていて、今では親戚の男の子といった感じさえする。彼が製作したCDも秋に送ってもらい、それがきっかけで、彼にも次号の原稿依頼をした所、快く引き受けてくれた。これからはK君と呼ぼう。

 もう一人は、韓国語のブログで知り合い、この1年半あまりメールのやりとりを続けてきた、日本語オタクの男の子である。彼はBoAの大ファンで、そのブログはBoAと이승엽(巨人の選手)一色である。12月7日には日本語能力試験の3級を受けるそうだ。彼の実力なら大丈夫だろう。これからはBoAちゃんと呼ぶことにする。

 出版社のN社長(この日記でも再三登場したから、お馴染みの人も多いだろう)は、今日から10日まで大阪に出張だ。彼が韓国に戻った翌日、私と会うことになっている。私の携帯電話の名義人で、雑誌のデザイン、印刷を一手に引き受けてくれている人でもある。当初12日に高校取材に同行することになっていたが、取材先の都合で14日に変更されたため、一緒に連れて行ってもらう話はダメになった。

 社長と私とのタイミングはこういうことが多い。彼が忙しいときに私の予定が入ったり、彼の体調が優れないときに私が来韓したりということが過去に多かった。一緒にどこそこへ行こうと言っていて実現したのは、留学前に挨拶に行くとき、一緒に晋州まで車で行ったことぐらいだ。あとは二人の所在位置が微妙にずれたりして(私がソウルにいて、社長が釜山に出張とか)、そのときは電話で挨拶することしかできなかった。

 だから私は落胆しない。タイミングの悪い人はいつも悪いし、いい人は、すんなり私のスケジュールに入ってくれる。去る者追わず、来る者拒まずの心境を私は韓国で培ったような気がする。

2008/11/05

ソウル行き準備中。

 2,3日前から、朝だいぶ冷えてきた。日中は日が射さないと、ちょっと薄ら寒い。公園の木々もまだうっすらと色づく程度だ。イチョウは緑がたくさん残った中、銀杏の実の匂いがきつく立ち昇ってくる。  ソウルはすっかり初冬の装いらしい。朝が5,6℃、日中が12,3℃くらい。これは東京の冬だ。10年近く東京に留学していたLeeさんの言葉、「東京の冬はソウルの秋みたいだ。年間を通して一番快適な季節だった」。本当にそうだと思う。  さて、来週のソウル行きを控えて、スーツケースの中身を出したり入れたり、準備に余念がない。なるべく軽くしようと思っても、下着、靴下の類だけでも嵩張る。室内は東京より暖かいから重ね着スタイルにするのがいいだろう。ウールのものはフレンチ・スリーブのカシミヤのセーターだけ。あとはカットソーの類(タートルネックのTシャツなど)。それからストール、スカーフ、手袋、帽子。  1週間の滞在だし、オフィステルに泊まるので洗濯もできる。下着類は2日分用意すれば十分だろう。スーツケースの底に入っているのは、雑誌、書籍、取材お礼用の小さな贈り物、出版社社長には事務所移転のお祝い、その他取材資料などだ。  大き目のリュックには、日本と韓国の携帯電話とそれぞれの充電セット、デジタル・カメラおよびその充電セット、デジタル・レコーダーなどが入る。これだけでかなりの重さになるが、携帯電話は到着早々使うので、スーツケースには入れない。  コートはバーバリースタイルのウールのコートにした。着慣れているからだ。ライナー付きのコートは12月に行くときに着よう。あるいは、そのときの寒さによっては、ダウン・コートになるかも。  18日帰国だが、翌11/19は韓国の수능(修能)だ。この冬一番の寒波がやってくるかもしれない。なぜか毎年、この日に寒さの第一弾がやってくるそうだ。とにかく来週から1週間はなるべく寒波に見舞われることなく、仕事も無事終わって、懐かしい友人たちになるべくたくさん会いたいものだ。

2008/11/03

やっぱりね~。

 ヒョンビンのドラマ、2回目以降続きを見ていない。はっきり言って見る気がしないのだ。今日の朝鮮日報によると、このドラマの視聴率は5.8%だとか(第2回目)。初回が7%程度というから、それほど期待されていなかったようだし、あのキャスティングと脚本では、どうもね。  そう、明らかにミス・キャストだ。2年に一度のTVドラマ出演のヒョンビンにはお気の毒と言うしかないが、ソン・へギョは役不足。1回目しか見ていないから何とも言えないが、ドラマの設定自体、ちょっと古いって感じ。テレビ・ドラマ・チームの恋模様を描くなんて、20年前の発想だなあ。  韓国ドラマは韓流の中心をなすけど、そのドラマ手法はちょっと昔の日本を思い出させる。懐かしいと言えば、そうなのだけど、古いことは古い。出演者の美男美女の存在がなかったら、脚本の稚拙さ、陳腐さはどうしても拭いきれない。  今韓国で人気を博しているドラマ「ベートーベン・ウィールス」は、日本の「のだめ」を模したものとされているが、日本の漫画をそのまま参考にしたり、その発想を再利用したりする映画やテレビ・ドラマが後を絶たないのも、ちょっとねぇ~と思うのだ。そろそろ韓国オリジナルの世界を見せてほしいと思うのだけど。

2008/10/30

う~ん、今一つかな。

 
 昨日、KBS 2のホーム・ページに入って、ヒョンビンのドラマをタシ・ポギで見てみた。10月27日(月)放送分だ。ヒョンビンは都会的な青年を演らせたら最高だけど、相手役のソン・ヘギョがどうも食い足りない。  

   ソン・ヘギョは10年以上前のシットコム「順風産婦人科」で初めて見たが、当時はぽっちゃり太めで四人姉妹の末娘を好演していた。まだあどけなさと生意気さが残っていて、それはそれなりに目を引いた。当時、まだ20歳ぐらいだったのかな? 

 その後、「秋の童話」でブレイクし、韓流でもお馴染みの女優になったが、どうも線が細い。アクが強くないところに私は魅力を感じなかった。 

 そうこうするうちに、あくの強いイ・ビョンホンと共演して恋に落ち、公然のカップルとして注目されたのも束の間、誰もが想像していた通り、別れた。  

   2007年には映画「ファン・ジニ」で、才色兼備のキーセンを演じ話題になった(私はまだ見ていない)。どちらかといえば没個性の部類に入るので、やはり私には魅力的な女優ではない。 

 ヒョンビンもどちらかというと、没個性である。だからその相手役には少々あくの強い女優が似合う。「アイルランド」のイ・ナヨン、「私の名前はキム・サムスン」のキム・ソナなどがいい例である。個性の強い女優を相手に受身の演技で応酬するヒョンビンという図式が面白いのだ。  

 「그들이 사는 세상」はテレビ局のドラマ・チームの話なのだが、ソン・ヘギョはどう見ても演出家(監督)には見えない。せいぜい衣裳係という感じ。ヒョンビンはやり手の演出家に見える。彼はどんな役柄でもこなす。  

 (月)(火)ミニシリーズとして始まったばかりのこのドラマ、「視聴者意見」も時々覗いて、この日記でも紹介することにしよう。16回まであるのか、20回ぐらいなのかよく知らないが、今年いっぱいやっていることは確かだ。

2008/10/29

ああ、久しぶりのヒョンビン

 
 10月27日(月)からKBS 2で始まった「그들이 사는 세상」。共演はソン・ヘギョ。TV界のバック・ステージものらしい。オン・ラインで見ようとも思ったが、夜は眠い。そのうちKNTVが買い上げてくれるだろう。期待したい。 「雪の女王」以来、なんと2年ぶりの登場である。破格の出演料らしいので、2年に一度でも十分食べていけるのだ。 
 
 釜山国際映画祭の最後を飾った「나는 행복합니다」の評判は今ひとつらしい。韓国でいつ封切られるのか、まだ知らない。精神病棟が舞台らしいが、ヒョンビンの熱演を是非見てみたい。TVドラマの方は、いつものように素敵なヒョンビンが見られるのだろうが、映画の方は精神病棟という閉鎖された世界での、ドロップ・アウトした一人の青年を好演しているように聞いたので、興味をそそられる。役作りにかなり苦心して、もう二度とこんな役はやりたくないと言ったそうだ。演技に対してどこまでも真面目に取り組む彼の姿が彷彿とする。

2008/10/27

言論の自由

 チェ・ジンシルの自殺をきっかけに韓国では言論を取り締まろうという与党の動きと、それに反対する野党の主張が表立ってきた。もちろんネチズンの反応はさまざまだ。  

 言論の自由を封じようとうする与党政府には反感しか抱けないが、自由な言論の前提には自ずとルールがあるのは当然のこと。このルールが韓国では大きく外れることが多い。根も葉もないことを堂々と言ったり書いたり、事実を歪めて発表したり、人格攻撃をしたりとネチズンの世界は、日本で言えば2ちゃんねるの様相を呈しているらしい。私自身は2ちゃんねるはほとんど見たことがない。見ても有益なことはないと思っているから。 

 意見を闘わしたり、相手の考えの矛盾を突いたりするのはなんの問題もないが、相手の人格攻撃にまで至るのは行き過ぎだ。リベラリズムの基本はヒューマニズムに基づいた是々非々の考え方だ。同じ人間として相手を尊重した上で堂々と意見を言い合うのがいい。偏った考えではなく、常に現実を冷静に観察した上で、いいものはいい、悪いものは悪いと判断できる思考力が要求される。

  何でも自由にものを言うことと、正しい判断の下でリベラルな意見を言うことはまったく違うことだ。後者のようになるには常日頃の勉強と努力が必要になってくる。安易な同調、浪花節、右顧左眄、日和見主義は排除されるべきだと私は思う。そのための努力は個々人の問題になってくる。  

  民主主義は非効率的で時間がかかるものだ。でもその非効率性を嫌っていたのでは本当の意味の民主主義=リベラリズムは実現しないだろう。

2008/10/24

IMFシーズン2?

 世界同時恐慌の様相を呈してきたが、日本だけは円高で、アメリカもヨーロッパも日本の円に期待しているところがあると聞いた。韓国ウォンとの差は、なんと14倍! 2006年頃は7倍くらいだったと記憶しているから、実質ウォンの価値は半分になったわけだ。 

 日本に留学している学生や研究者は急激な円高で困窮はなはだしいのではないかと私は心配している。予算が突如、倍かかることになったと想像しても、すぐにはピンと来ない。あまりのことに、これからの生活どうしたらいいのかと思ってしまうだろう。 

 1997年にアジアを襲った国際通貨危機(IMF危機)。私たちはちょうどソウルにいた。暮らし始めた頃は、なんだか景気のいい国だなあと驚くことばかりだった。なにせ、銀行預金利息が年12,13%はついたのだから。おかげで私たちは利息を何度も東京行きの飛行機代に換えることができた。

  それがあれよあれよと言う間に、突然降って湧いたように起きたIMF危機。時々通っていた汗蒸幕の有閑マダムたちが、「1ドルがとうとう1200ウォンを超えたわよ」と、あまり危機感のない雰囲気で噂していたものだ。それが結局1700ウォンになる頃には私も汗蒸幕通いをやめてしまっていた。

  韓国でIMFシーズン2と巷で言われている今の経済危機。11年前のシーズン1のときと経済担当のトップの顔ぶれから、経済界のお歴々までほとんど同じ面子が揃っている。首相まで同一人物。違うのは大統領ぐらいかもしれないというのだ。 

 さて、韓国はこの事態をどうやって切り抜けるのだろうか。日本もおちおちしてられないが、韓国の方がずっと深刻なはずだ。

2008/10/22

USAは世界の警察か。

 私はUSAをあまり好きではない。USAに行ったこともないし、知人も友人も一人もいないからなおのことかもしれない。  

 好きになれない理由の一つに1945年の広島、長崎原爆投下という歴史的事実がある。原爆を搭載したエノラゲイという爆撃機はいまだに誇らしげに博物館に飾ってあるという話を聞いても、人類史上、初めての「実験」成功物語として、アメリカ国民の頭の中に残っているのだろう。戦争を早く終わらせるためだったなんて、大嘘だ。アメリカは原爆の威力を早く知りたくてしょうがなかっただけのことだ。科学の発展の裏にはいつもこうした残酷さ、残虐さが潜む。 
 
 好きになれないもう一つの理由。そのダブル・スタンダードの行使を堂々とやることだ。核の保有国を自分の物差しで計って決めている。最大保有国としての恥ずかしさなど想像したことがあるのだろうか。イスラエルとの癒着、アジア蔑視、数え上げたら切がない。 
 
 今、アメリカ経済が未曾有の混乱に陥っている様を見ても、自業自得だろうと言いたい。大量消費社会、貧富の差、金持ち優遇、貧乏人はまともな医療も受けられない。そんな状態で民主主義大国と言えるだろうか。おまけにアメリカのキリスト教は原理主義が幅を利かせている。ダーウィンの種の起源を教えないどころか、堕胎の自由を禁止したり、同性愛者を迫害したり、人種のるつぼと謳いながら、人種差別の熾烈なことと言ったらない。  

 USAはその存在自体が自己矛盾に満ち満ちている。自分で自分の首を絞めているようにも見える。  

 ついでに言うと、韓国の親米派もどうかと思うね。日本もそうだけど。USAに留学したり、移民したりする韓国人の数が決して減らない理由はなんなのだろう。何を学びに行くのだろう。外から見る限り、いい時代の民主主義は死んだ、あの国では。

2008/10/20

日常のありがたさ

 家人が地方に出かけていて、今朝は久しぶりに一人の朝だ。一人でも規則正しく起きられることに感謝。一昨日、喉が痛くて熱が出た。その日は一日中床の中。市販の薬(葛根湯入り)と、プロポリス入りの飴、そして蜂蜜漬けの高麗人参の破片を口に含んで一日をだらりと過ごした。  

 健康を取り戻して、食欲も戻り、健康が一番だと今更のように思い、日常生活復帰に喜びを見出せることに感謝する。夜明けに起き、中国茶を飲み、朝刊が来るまでパソコンをいじり、お腹が空いてきたので自分ひとり用の朝食を済ます。  

 来月のソウル行きを控えて、何かと準備に余念がない。少しずつ集まり出した原稿の中には、手書きのものもあるので、その入力だってけっこう神経使う。表紙の写真も決まった。コンテンツと裏表紙も含めて3枚の原本を送ってもらうことになっている。200枚近い写真ファイルから適当なものを選ぶ作業も、これで4回目だが、やはり大変な作業だ。  

 表紙が決まったので、カバーストーリーを頼んでいた詩人に添付ファイルで送る。インスピレーションが湧いてくれるといいのだが。今月末には注文原稿は揃う。後は、11月の取材原稿さえまとめれば終わる。年末年始に編集、印刷作業に入れればいいのだが。結局ソウルが一番冷えるときの作業が多い。凍った道で転倒しないようにしなければ。

2008/10/19

振り込め詐欺に思う。

 はっきり言って、馬っ鹿じゃなかろうか。親バカにつけ込んだ巧妙な犯罪だと思うが、これは多分に日本的な現象だ。親子のコミュニケーションがない、小金持ちがうようよいる、精神的に自立してない老人が多い、子供の無関心などなど。今の日本を端的に表している。

  私は電話の声で相手のおおよその知性がわかる。声には知性が出てくるものだ。セールスマンで知性に溢れた人、いまだかつて耳にしたことがない。だからセールスの類は電話でシャットアウトできる。  

 息子や孫息子にいくらそっくりだと言ったって、何も考えずにいうとおり大金を振り込むなんて正気の沙汰とは思えない。この詐欺を考え付いた奴は相当にしたたかに、病んだ日本の現状を把握した奴に違いない。 
 
 小金持ちのおじさん、おばさん、自分の胸に手を当てて、よーく反省してほしい。そんな電話をしてくるような息子や孫息子を育てたってことだからね。自業自得だ。同情なんかする気にもなれない。

2008/10/15

BoAちゃん

 Naver Blogで知り合った大のBoAファンの男の子。うちではBoAちゃんと呼んでいる。1983年生まれでソウルの住所、家族のこと、それと彼の携帯番号だけを知っている。昔から日本語を勉強していて、J-Popはもちろん、日本のTVドラマ、映画については私よりずっと詳しい。 

   その彼から一昨年だったか、時々メールが来るようになった。たどたどしい日本語なのだが、言いたいことはよくわかる。昨年からは、ほとんど毎日メールが来る。今では私が彼の日本語作文を添削しては返送している。こちらの正体は明かしていない。東京に暮らす既婚女性だということは知らせてある。日本語を添削しているので、彼は私のことを「先生」と呼ぶ。 

   今度11月にソウルに行ったら、食事かお茶か、とにかく一度会いましょうということになった。韓国で使っている私の携帯番号も教えた。会ったら、びっくりするだろう。彼が思い描いていた「先生」と実際の私とのギャップが大きいように思えるからだ。 

   彼は今まで日本語能力試験を受けたことがなく、自学自習で好きなように日本語の勉強を続けてきた。この秋になって突然、「僕、12月に日本語能力試験の3級を受けることにしました。」と書いてきて、私はもうびっくりしたのだ。かなりの意欲を示していて、この1年以上の私とのメールのやりとりが無駄に終わらなかったんだと、妙にうれしくもなった。 

   彼のブログを見ると、2級ぐらいの実力がありそうなのだが、慎重なBoAちゃんのこと、まずは3級から挑戦するということらしい。ベストを尽くして、合格できますようにと祈るばかりだ。 

2008/10/12

Sentimentalism

 韓国版Free TEMPOと言ったらいいかもしれない。一度聞いたら忘れられない。アーティストの名前はSentimetal Scenery。下のリンクをコピーして、Web上でその音楽を聞いて見て下さい。

       http://blog.naver.com/stessa/60056082808

2008/10/11

モンスター・ペアレント

 10月7日付毎日新聞夕刊。私のお気に入りコラムニスト、牧太郎氏の「大きな声では言えないが...」という毎週火曜日のコラムを読んで、ぶっ飛んだ。題して「亡国の親バカ」。一部を引用する。 

   「うちの子は塾通いで疲れているので、授業中は寝かせてくれ」と要求する保護者がいる。「背の高い子と低い子を並んで写真を撮られた。配慮に欠ける」と文句を言う親がいる、と聞いた。そんなバカな? 

 世の中には、何かにつけて「いちゃもん」をつける人はいるが......理不尽な。モンスター・ペアレントとか言われる「親バカ」の対応に、教師はきゅうきゅうとして「まともな授業ができない」と漏らす先生もいる。 

 この異常な自己中(心主義)。「校内暴力を経験した人たちが親になったから、もともと教師を尊敬する意識がない」と解説する向きもあるが、この「自己中」が日本を劣化させる。  

 と、こんな具合の内容だ。自己中が増えているのは、帰国して実感していることだが、親バカにも程がある。モンスター(化け物)と言われてもしょうがないわ。電車に乗ったってわかるじゃない。衆人環視の中、平気の平左で化粧している、美しさとは程遠い女性たち、飲物まではしかたないとしても、パンを平気な顔してパクパク食っているバカ者。彼女ら彼らはその醜態を曝け出しているというだけで、公共の利益に反するのだ。「恥」ということをまったく知らない、モンスター・チルドレン。羞恥心という言葉は一体どこに行ってしまったのだろう。 

   これらの現象は実は若者だけに見られるわけではない。いい年したおっさん、おばはんの中にも、高齢者の中にも存在する。年齢、世代では論じられなくなってきている。日本に蔓延する「羞恥心?、それってなに?」現象である。 

   先日のワコール大バーゲン会場でも、羞恥心欠如の女性たちを私は目の当たりにした。こういう小金持ちたちが今の自民党政権をしっかり支えているんだなあと苦々しい気分になった。引退した小泉。親バカ丸出しの引退ショーである。小泉を支持した母体は30代および60代以上の保守化した女性たちがそのほとんどを占めていたと聞く。小泉チルドレンなんかに踊らされたのもこの連中である。  

 日本ぐらいよ。政権交代もまともに出来ない国は。恥ずかしい。私の羞恥心の持って行き所が、ない。ああ、情けない。

2008/10/09

11月ソウル行き

 1年半ぶりのソウルだ。大気汚染は更に進んでいるだろうし、11月半ばと言えば、既にかなりの寒さに’なっていることだろう。冬には比較的強いのだが、東京とソウルでは寒さの質が違う。湿度が低いので、じとっとした、肌にまとわりつく寒さはないが、零下になると、寒いというより、肌が痛いという感じになる。東京のように海風は吹かないが、周囲を小高い山に囲まれているため、盆地の寒さといったらわかりやすいだろうか。  

 必然的に荷物は増える。11月に入ればコートを着ていくだろう。タートルのTシャツ、タートルのセーターは必需品だ。それにストール、マフラーの類。手袋も。そうだ、帽子も。室内は暖かすぎるほどの暖房だから、重ね着をしていくしかない。取材で歩くだろうから靴はスニーカーだね。 

 1週間の滞在予定だ。3つの取材と、出版社の社長との打ち合わせ、あとは友人たちと旧交を温めてきたい。仕事がらみと言っても、食事はきちんととらないとならない。一日2食は誰かと食べるとして、家人がやってくるまでの9食、誰と食べるか思案中である。  

 週末は自称息子と食事することになっている。彼も職業柄平日は時間が取れないのだ。先日出張でドイツに行ったそうなので(これが彼の最初の海外体験)、その時の話もいろいろ聞きたい。  

 晋州時代の友人も、もしかしたらソウルに来るかもしれない。食事もして散歩もしようと彼女は言う。うまく彼女のスケジュールが合うといいのだが。ぜひ会いたい。  

 あとは、7月に東京見物にやって来たM君。明洞(ミョンドン)が勤務先なので、いつでもお昼をごちそうしますとメールが来た。それと写真家のG君。彼とは打ち合わせも含めて食事したいと思っている。  

 前々から決めていても、ダメなときはダメなものだ。急に決めると、韓国では歓迎される。急に決まって急に施行され、いろいろミスに気が付いて慌てて修復。これ、韓国式。  人間、その日の気分だってある。前々から決めていても、天気や気分でどうしても気が進まなくなることだって多い。その日のことはその日に決める。非常にわかりやすく単純だ。  私からの突然の電話に当惑する人は断ってくれればいいのだし、今までの経験では、急な連絡の方が、人が集まる。さて、11月はどうなるか。

2008/10/07

秋夕(チュソク)は旧盆ではない。

 10月6日付け毎日新聞夕刊「アジアNOW」というコラム「クォン・サンウ電撃結婚」という記事(ライター=瀧谷由紀)を見て、「ああ、またか」と思った。文章の出だしで「チュソク(旧盆)」と書いているのだ。 

 Gamila日記で何度も触れたように、韓国の秋夕(チュソク)は日本の旧盆とは異なる行事である。「中秋の名月」を仰いで、秋の実りを祈る行事だ。もちろん故郷に家族が集まり、お墓参りもするし、民族大移動のために高速道路は渋滞になる。その点は旧盆に似ているが、行事の趣旨は全く違う。どうしていつまでも間違った情報がまかり通るのか。ライターと称しているのであれば、きちんと勉強してほしいものだ。プロで食ってるのならなおさらだ。

 韓国には名節(ミョンチョル)と呼ばれている行事が年2回ある。1つがソルラル、もう1つがこのチュソクである。ソルラルは旧正月のことで、中国でも同じように行われる。横浜の中華街で爆竹が鳴るニュース、よく見るでしょ。旧暦の正月だから毎年時期が移動する。

 チュソクも旧暦で行われるから毎年日にちがずれていく。私が経験した最も早いチュソクは8月の末だった。あとは大体9月、遅くて10月だ。8月末がチュソクだった年、1997年だったが、あの年の冬は寒かった。  

 ついでに書いておくと、日本の春分の日、秋分の日のお墓参りの習慣は韓国にはない。韓国では亡くなった人の命日に家族が集まる。お盆の習慣もない。迎え火、送り火をして死者を祀るということはない。これは仏教から来たのか、あるいは神仏混合的なものなのか、私はよく知らない。  

 韓国では国民の3割がクリスチャン、仏教徒も3割、残りは無宗教か、在来宗教である。日本はクリスチャンが人口の1%しかいないし、仏教に関しては葬式仏教だ。それでも8月の旧盆の民族大移動はいまだに続いている。宗教的儀式というより生活習慣だと考えてもいいような気がする。  

 「中秋の名月」を祝い、秋の実りを祈る秋夕(チュソク)を日本の「旧盆」になぞらえるのはもうやめにしてほしい。

2008/10/03

チェ・ジンシルの死

 韓国のトップスター、崔真実(チェ・ジンシル)が10月2日の早朝、亡くなった。まだ40歳という若さで、自殺したと報道されている。
 
 「私の人生最後のスキャンダル」という人気ドラマをついこの間まで見ていたので、あのコミカルな演技と魅力的な姿態がいまだに生々しく残っていて、どうにもその死が信じられない。

 2005年から今年に至るまで、韓国では芸能人の自殺が相次いでいる。私が知っているだけでも5人いる。それも現役のバリバリばかりだ。それだけ社会的衝撃は大きく、ネチズンたちの反応もすさまじい。

 韓国は世界有数のインターネット大国だ。その分、ネチズンの度の過ぎた書込みも多く、芸能人でなくとも傷ついた人々は数知れないだろう。その背景には、肖像権、知的所有権に対する認識の低さがある。

 今でこそ、両者に対する権利意識、守秘義務など少しずつ浸透してきたといえるが、それまではコピーのし放題で、それは画像に限らず、書籍に至るまで、平気で人の労作を簡単にコピーしてしまうという無神経ぶりが目立った。あれほど米国の影響が強い国で、なぜ、この点に関しては、米国を見習わなかったのか、不思議である。

  チェ・ジンシルの死の直接的な原因はわからない。わからないが、どうやらネチズンによる根も葉もない噂に悩んでいたことは確からしい。それにしても離婚後、あんなにたくましく雄雄しく女優業に専念していたのに、突然、ポキッと折れてしまったのか。彼女のたくましさに尊敬さえ抱いていただけに、その死が惜しまれてならない。

 彼女の死は韓国社会の病んだ一面を曝け出したように思える。軍事政権から民主国家になって、たかだか16年ぐらいしか経っていない。今、韓国社会のあちこちでひずみが浮き彫りになってきている。彼女の死をきっかけに少しでも改善されればいいのだが。

2008/09/30

1年半ぶりにG君に会う。

 G君は写真家だ。読者が忘れてしまう頃に出している日韓交流誌の表紙をここのところ担当してもらっている。一昨年に東京に留学してきて、日本語学校に通いながら東京という都会の日常を撮り続けた。昨日久しぶりに会って、日本語で対応してみたらかなり日本語ができるようになっていた。読む、聞くはかなりのレベルだが、ソウルでは話す機会がないと言うので、話す力は他に比べると少し劣るかもしれない。それでも写真の専門的な話に花が咲いた。

 7月に写真を趣味にしているM君に会ったばかりだったので、なんだか今年はやけに東京で韓国人に会う年だなあと思った。そして11月には私も1年半ぶりにソウルへ行く。取材を3つこなさなければならないが、後は久しぶりに友人たちと旧交を温めてくるつもりだ。

 雑誌は年末年始に編集・印刷の予定だ。原稿もぼつぼつ集まり出した。約3年ぶりに出すことになるので、わくわくするが、印刷やデザインの指示などはすべて韓国語でやるので、その勘が戻るかどうか少々不安な所もある。慌てず騒がず、納得の行く号にしたい。

  11月はかなり寒くなっていることだろう。東京もソウルも秋が毎年短くなっていくような気がする。

2008/09/28

父の三回忌  

 今日、9月28日は父の三回忌だ。2006年に突然亡くなってから2年経つが、速かったような遅いような、なんとも形容のし難い2年だった。
 
 実は私は父の死に目に会えなかった。突然亡くなったのではなく、亡くなってから約半月後にその死を知らされたのだ。それも偶然に。亡くなる前に一度でも会って、ゆっくり話をしていたらどんなに良かっただろうと、この2年間、父を思い出すたびに私は泣いた。

  私は父にとって最初の娘だった。弟もそうだったが、私たちは本当に愛された。父はそれほど口数の多い人ではなかったが、ア ルコールが入ると上機嫌になって、私たちとスキン・シップを図った。ウイスキーの匂いも、ヘビー・スモーカーでやや黄ばんだ父の指も、今では懐かしくてたまらない。

 幼い頃は外で飲んできて、バーでもらったお土産の胡桃をいくつか持って帰ってきたものだ。父の指と同じようにいい飴色になった胡桃と、それを割って私たちに食べさせてくれた父の姿、そしてなんとも香ばしい胡桃の味。私はその夜のシーンを繰り返し繰り返し思い出したものだ。

 私は父親っ子だった。幼い頃から「父に似た娘」として、父の自慢の娘として大切に育ててもらった。甘やかされることは決してなかった。甘やかされることと、可愛がられることは全然違う。

 人生で何が大切なのかについて、私は父から学んだような気がする。仕事熱心な父の後姿を見て成長していったような気がする。そして結局父は私に死に顔を見せることなく、まるで象が仲間の誰にも知られずに静かに死に場所を求めて移動していくように亡くなってしまったのだ。

 父さん、私は父さんが大好きでした。そのことを一度も告げられなかったことが哀しいです。私の思いは天まで届くでしょうか。とにかく安らかに穏やかにそちらの世界で過ごして下さい。私があの世に行ったら、話の続きをしましょう。約束して下さいね。

2008/09/27

コンクリート建築

 私たちが暮らしているマンション、だいぶ年数が経って、見かけはともかく内部の配管などをチェックすれば、知らなきゃよかったという事実が少しずつ見えてくるのだ。  

 ?十年前の入居説明会での不動産屋の最初の一言。「この建物も60年後には瓦解します」。がかい? そう崩壊してしまうのだ。何も入居前に脅しを入れなくたっていいのにね~と、当時はそれでものんびり構えていたものだ。だって60年後よ。生きてるかどうかだってわからない、本当に遠い遠い未来の話だったのだもの。 

 ところがその瓦解年齢にだいぶ近づいてきたこの頃、冷静に考えてみるのだ。では、あの原宿や代官山の同潤会系のアパートはなぜしっかり残っているのか。あれは確か、大正時代、関東大震災の後、建設されたはずのもの。少なくとも85年は経っている、瓦解せずに。

  コンクリートに関しては、この間さまざまな問題点が指摘されてきて久しい。海砂を混ぜて作ったコンクリートのひび割れ問題に端を発し、コンクリート寿命70年説はそれこそ見事に崩壊し、思いの外その耐用年数は短いということだ。 
  
 ヨーロッパの諸都市に見える建造物はコンクリートなどというナマッチョロイ代物ではない。石だもの。部分的には大理石だったりするし。天然物がいかに優れ、人工物がいかに劣っているかという根源的な問題に改めて突き当たるのである。 

 幼い頃からアパート暮らしが長かったので、一戸建てに暮らす知恵も望みもないが、集合住宅を建て替える例は、日本ではまだまだ少ない。土地さえあれば、木造だろうがなんだろうが個人の意思で建て替えることができる。  

 アパート暮らしの悲哀を感じないでもないが、それでも私は一生アパート暮らしから足を洗えないだろうなあ。

2008/09/26

People Treeと Organic Cottonについて

 松本に、その昔、三六(さんろく)という呉服屋があった。家人の母が暮らしていた頃には呉服のほかに、洋服の仕立てや、仕立て直しをしてもらって、母はよくそこでスカートやスーツなどを作ってもらっていたらしい。今のように溢れんばかりの既製服が店頭に並んでいた時代ではなかったし、大量生産全盛の時代にはまだ間があった頃である。 
 
 松本の中心部にあるこの店は今は地元のデザイン・スクールの若者たちにそのスペースを提供して、在学生の作品から、卒業してブランドを立ち上げた新進デザイナーの作品まで陳列していて、中にはなかなか魅力的なスカートやパンツ、ジャケット、アクセサリーなども揃っている。値段もリーズナブルである。  

 学生たちの作品とは関係ないが、People Treeというブランドと、 Organic Cottonで出来たTシャツやカットソーのコーナーもある。下記のホーム・ページを是非覗いてみてほしい。ポイントは、海外現地で製作に当たる人々にきちんとした収入が保障されているというシステムである。そんなこと当たり前のことではないかと思うだろうが、いまだに世界の至る所で旧植民地的発想で、搾取が行われているという実態が再確認できる。 

 次のポイントは、オーガニック・コットン。綿栽培から製品化に至るまで、いかに大量の農薬が使われているかということに衝撃を受け、私は自分の無知を恥じた。それを着る人はもちろんのこと、綿花の栽培から携わっている人々に及ぼす残留農薬被害のことを考えると、暗澹たる思いにかられる。 http://www.peopletree.co.jp/ http://www.joca.gr.jp/

  とにかく自分の健康を自分で守りたい人や、搾取に憤りを感じる人はホーム・ページで確認して今後の参考にしてもらえれば、私としては満足である。よろしく。

2008/09/19

池田書店『しあわせ天然石』ハンディブック

 新書版で、値段は950円+消費税。中央宝石研究所監修、2008年1月刊である。誕生石から始まって聞いたこともないような天然石に至るまで、見開きまたは1ページにコンパクトに編集されている。  

 花言葉ならぬ石言葉が付いているほか、その石の由来、ギリシャ神話、ローマ時代のエピソードなど美しいカラー写真とともに見ているだけで、私は気分が落ち着く。天然石の基礎知識も簡潔に説明されていて、これ1冊で天然石の基本が身につくようになっている。 

 例えばダイヤモンド。モース硬度が10で、最も硬いとされているが、一定方向からの強い衝撃には弱く、注意を要するとのこと。色も無色以外に、赤、青、ピンク、緑、褐色などがある。そういえば、ある韓国ドラマに黄緑色のダイヤモンドを恋人のために用意する成金の話があったのを思い出した。かなり珍しいものらしく、もうそれだけで負担に思ってしまうのが女心である。 

 私が好きなのはラピスラズリだ。ツタンカーメンの黄金のマスクで有名だ。子供の時、上野の博物館で開催されたツタンカーメン展を見て以来とりこになったような気がする。この石は、知恵と洞察力、決断力を高めてくれ、持つ人を成功に導いてくれる力があるそうだ。また、嫉妬や邪念、不安などマイナス要因を遠ざけてくれる効果もあるとのこと。ソウルの仁寺洞(インサドン)で10年前に買い求めた銀の魚の形とラピスラズリの原石で出来たブレスレットはいまだに私のお守りの一つになっている。  

 何十万もするような高価な宝飾には興味ないが、高くても1万円前後の天然石であれば、私に癒しと勇気を与えてくれそうな気がする。これからもマメにこの本を見ながら知識を身につけ、自分にふさわしい天然石との出会いを楽しみにしたい。

2008/09/14

携帯電話

 明日は敬老の日なんだってね。いつから9月の第3月曜日になったのか、よく覚えていない。もしかしたら私が留学中にそういう法律が通ったのかもしれない。いずれにしてもいやになるほど三連休の多い国だわ。 
  
 松本から戻ったら、あまりに蒸し暑いので閉口している。あちらは朝夕は肌寒いほどで(窓を閉めて寝た)、昼間は湿度が低いせいか、陽射しは強くてもさわやかな秋晴れといった感じだった。いやあ~、東京はいつまでも暑いね。しつこいね。  

 この写真はauの代理店(都内某所)で撮ったもの。敬老の日にちなんで祖父母に携帯をプレゼントしようという趣旨。高齢者に携帯を贈るというのは、けっこう面倒なことが待ち受けているのだ。安売り電話機を売る店には、丁寧な説明はあまり期待できない。

  電話を買ってからは、なおさらだ。アフター・ケアーは望めそうで望めない。簡単機能を謳っていても、カメラはもちろんのこと、やたら複雑な機能がどうしても付いてきてしまう。 

 私の母も携帯を買ってから2年以上過ぎたのだが、相変わらずカメラ機能は使わず、今年になって、ようやくCメールのやり取りができるようになった。もちろんこちらから電話をすればちゃんと出てくるようになったし、彼女が思いついたときにはいつでも電話してくるようになった。留守番機能のメッセージもちゃんと聴き取れる。 

 ところが、時々、「呼び出し音が知らないうちにメロディーから振動に変わったのよ。どうしちゃったのかしら」とか、こちらがCメールを送ると、「今、電話くれた?」などとタワケタことを言って電話をかけてきたりする。要するに、Cメール、通話の呼び出し設定を自分のものにしていないということなのだ。手取り足取り教えるべきなのだが、そんな時間的、精神的余裕はこちらにはない。相手が見ず知らずの高齢者であれば、無条件に親切にしてさしあげたくなるのに、わが母となると、イライラが募るのみで、結局は自己嫌悪に陥るだけだ。  

 携帯は自分の都合でかけたり、思いついたときに自由にメールを送ったりできるからいい。着信履歴が残るからモレもないし、普通にうまく使いこなせば、これほど便利な道具はない。ところが、母の携帯ときたら、時と場合によってはこちらのストレスにもなり得る。困ったもんだ。 

 「近所のauの人に聞いてみて」。私は電話のこちら側で少々イライラしながら、母に言うのだ。でもまあ、Cメールを打てるようになったのだから上等かも。家人の母は、ただ持っているだけで、着信も発信もしないまま充電だけはマメにしていたものだから、とうとうこわれちゃったそうだ。充電ひとつとっても、わかりやすくて適切な説明を求めても、携帯電話関連の会社には期待できそうにない。 

 auにしても、DOCOMOにしても、KDDIもNTTも、超高齢化社会で生き延びて行こうという企業としての意欲に欠けているのではないか。ほんと、つくづくそう思う、敬老の日イブでした。

2008/09/10

短気は損気と言うけれど。

 私は基本的に短気だ。ただし、「待つ」のはそれほど苦にならない。「待たす」のは、ストレスになるけど。 

 短気というのは私の場合こういうことだ。相手に誠意が感じられなかったり、頭がそれほど良くないのにそのことを自覚していない相手だったり、いわゆるお役所仕事に対して、めっぽう腹が立つのである。  

 今朝も腹を立てた。私が暮らす東京都某区の区役所に、放置自転車のことで電話をしたら、 「あ、その道路の管轄はうちの区ではなくて、東京都なんです。恐れ入りますが、都の方に電話していただけますか」だって。  

 電話しないよ。今、私から詳しく話を聞いていたはずの「あなた」が直接東京都の道路なんとかにお電話なさったらよろしいんじゃないかしら?と、かなり怒りを抑えながら言ったのだ。相手はその微妙なな嫌味にも気づく感性の持ち主であるはずもなく、ひたすら「管轄が違う」と言い張る。私も負けてはいない。  

 「そうやって、たらい回しすんじゃないわよ」(いつのまにか、けんか腰)。 「お宅から直接今の話を都に伝えられない事情があるなら、説明していただきたいわ」。 

 相手曰く「都の方から細かいことを聞かれた場合、お客様のように詳しくは説明できないからです。前もって見ているわけではないですからね」  

 「見に来い」と言ったところで、管轄の異なる通りまで視察に来るわけでもなし。 「とにかく、今こうしてお伝えたしたことが事実のすべてなのです」 

 ということで、東京都にはこのアジョシが「電話してみることにします」と、まるで「清水の舞台から飛び降りる」ような決心をして、私の怒りに対処したのである。何かあった場合のことを考えて、私の連絡先と名前を教えてくれと言うので、それには従った。 

 何よりも腹が立つのは、放置自転車である。近所に駐輪所がいくつもあるのに、狭い歩道をさらに狭くして、車道側のガードレールに寄っかからせて横並びにずらっと並べているのだ。数えてる暇なぞなかったが、30台以上はあった。駅前の放置自転車がようやく解決してきた矢先のこの暴挙。自分勝手な日本人が増えたね。まったく。

2008/09/09

5年ぶりにチングに会う。

 高校時代の友人に会った。なんと5年ぶりだ。5年。私たちの年代ではかなり長い時間感覚だ。5年後は。。。年齢は秘密にしておこう。自分のためだ。

 5年前、韓国の地方都市にある某国立大学の大学院(国文科:韓国現代詩専攻)に正式入学が決まった頃、横浜で会ってワインで前途を祝ってくれたチング(親旧:韓国語で友だちの意味)だ。この間、私は夢のような学生生活を2年ちょっと送り、彼女は契約社員として楽しく働き、帰国後3年も経ったというのに、今日、ようやく会えた。夏のような陽気で、横浜の海に近いせいか、陽射しが痛いほどだ。

 それでも9月だ。季節外れの半ズボンを安く買うことができた。値段の割りに品質がよかった。吊り紐がついているのを見て、彼女が「あなた、まさかそれはやらないでしょうね」。

 自宅に戻り、私は嬉々として吊り紐をかけ、鏡の前でニヤリとしたのだ。家人は呆れるかと思いきや、「自宅で着ているだけなら、紐あった方がいいね」とのたまった。さすがに外出するときは紐なしだけど。

 5年も会っていないと積もる話も消化しきれず積もりっぱなしだ。二人とも終始笑ってばかりいた。横浜まで来てくれたんだからと、お昼は彼女の奢りだった。次回は私が代官山あたりを案内するねということに。これって韓国式なのだ。いちいち割り勘にして、これで二人の関係はその都度精算されますといわんばかりのダッチ・ペイ、どうも苦手になってきた。

 この方式のポイントは一つだけ。記憶力だ。前回は相手が払ったから今回は私が払うという程度の記憶力。こうしてエンドレスの関係が続いていくのである。韓国にいたとき、この方式がくずれたことはただの一度もない。記憶力というより、韓国人は義理堅いのだ。奢りに群がるなどというセコイことはしない。そこが私は好きなのだ。

 ということで、高校時代はすっかり過去のものとして化石化していくばかりだが、彼女との付き合いはエンドレスになるような気がする。

2008/09/08

ブラック・フォーマルそして「クローバー」

 先日、久しぶりに新宿の伊勢丹に行った。ブラック・フォーマルの下見のためだ。9号サイズのワンピースとジャケットのアンサンブルがあるのだが、袖を通したら、きつくて着ていられなくなった。同じ9号でも小さめの9号に違いないと思いたいところだが、バスト、ウエストなどのヌード寸法を測ると、どう見ても11号サイズに変貌したと考えるしかない。

 伊勢丹は婦人服が充実しているという噂通り、ブラック・フォーマル・コーナーも品揃えは豊富だった。しかし、「帯に短し、たすきに長し」だったのだ。ワンピースが素敵だと、ジャケットがダサいとか、その逆もあった。森英恵デザインのものは、ジャケット、スカート、ブラウスのスリーピースが組み合わせ自由で良さそうに思えたのだが、その組み合わせは思ったより種類が少なかった。

 着たり脱いだりですっかり疲れたので、同じ階の「クローバー」というカフェに入った。商品券が1枚余っていたので、そこでカフェ・オレをゆったりとした気分で飲んだ。六本木にある本店は、1931年オープンだというから、今年で77年を迎える。写真はカフェ・オレのカップと、シュガーポット。

 フォーマル・ドレスは10月に入れば、3シーズンのものがどっと入ってくるらしい。また出直してみることにした。

2008/09/04

岡本太郎が見た韓国 1964・1977 川崎市岡本太郎美術館

 9月28日まで、川崎市の岡本太郎美術館(小田急線向丘遊園駅より徒歩20分ぐらい)で「岡本太郎が見た韓国 1964・1977」が開催されている。昨日、行ってきたが、お薦めである。まず、場所がいい。生田の森の緑に目が休まり、同じ敷地に日本民家園があって、100円X25枚分、2000円の回数券を買えば、日を改めて何度でも訪れることができる(1000円の回数券もあり)。 

 美術館は入場料700円。館内に入る前に右手横に敷設された洒落たカフェで簡単な食事をとった。ガラス張りのカウンターに家人と腰掛けて外を眺めると、岡本作の牛の角を模したモニュメントが水に浮かんで残暑の中、光り輝いていた。メタセコイアなのか、木肌の赤い木を見上げると、首が痛くなるほど天に向かってまっすぐ伸びている。 

 館内の照明も効果的に使われている。私は岡本の絵画自体はあまり好きではないが、2006年に東京都写真美術館で行われた、岡本の見た東北というイベントに接して、彼の写真、文章の才能に驚いたことがあったので、今回も常設展より「韓国」に期待を寄せていたのである。  彼の見た「韓国」は1964年と1977年のそれぞれ1週間ほどの旅程の中で、岡本が初めて訪れた韓国を身体で感じ取ったすべてを記録したものである。凡人が行く旅行とはさすがに違う。人が感じないことを感じ、人が見ないものを見て、その後も岡本自身のものの考え方に長く影響を及ぼすことになるのだ。特にシャーマンについての見識は優れている。朝鮮半島全土にわたってみられるシャーマン(巫女)の儀式(クッ)が地方毎に多様であることに、岡本は着目し、私自身も今更のように驚かされたのである。 

 岡本は何度も書いている。 「韓国は北ユーラシア大陸から直接何かをもらっている。李氏朝鮮時代、中国からの影響が強いといっても、それだけには終わっていない。その大らかさ、色彩、遊び心など、カチッと決まった中国には見られない韓国独特のものが感じられる」  岡本は芸術家であり、文筆家であり、そして何より、欲深な人間であると自認している。その優れた感受性は芸術家というより優れたジャーナリストだったのではないかと思わせるものがある。 

 さあ、また生田の森を訪れよう。森に接するだけで頭の中のモヤモヤがスキーッとしてくるような気がするからだ。

2008/09/01

MBCドラマ 視聴者意見

 いったん涼しくなったのに、秋雨前線が停滞してまたもや蒸し暑い日が続いている。夕べも雨がけっこう降って、CS放送のドラマ「糟糠の妻クラブ」(SBSの「조강지처 클럽」)が見られなかった。CS放送はめっぽう雨に弱い。雷雨ならいざ知らず、あの程度の雨で放送中止になるなんて困ったもんだ。対策はないのだろうか。再放送があるからまだよしとしても、天候が直接放送の有無を決定するなんて、ちょっと原始的過ぎやしないか。 

 もっとも、このドラマ、最近ダレ気味である。16回くらいのミニ・シリーズか、せめて20回くらいの長さだと、内容も引き締まるように思うのだが、脚本家、スポンサー、そして視聴者(主にアジュモニたち)の三位一体で、ちょっと人気が出たとたんに、筋の運びにメリハリがなくなり、単にだらだらと続いて、結局は悪評のうちに終了してしまうドラマが跡を絶たない。 

 最近の代表格は「悪い女、良い女」(「나쁜 여자, 착한 여자」韓国では2007年7月初めまで約半年、140回続いた夜の連続ドラマ일일연속)である。최진실の人気にあやかったキャスティングなのは見え見えなのだが、착한 여자だった 최진실 が性悪女になったり、나쁜 여자 の設定だった不倫女が妙に恵まれた環境の下、最後は呆気にとられるほど幸福になっていくという、どう考えても納得のいかないエンディングを迎えた。 

 MBCのホーム・ページ視聴者意見の欄を見ても、「このドラマで言いたいことは何なのか?」「不倫女があのように金持ちの父に支えられながら、結婚後、6年間もの間、유부남(妻ある男)と付き合っていたというのは許せない」「최진실があまりにも可哀想だ。あそこまで夫に尽くして、なさぬ仲の娘を可愛がって、しかも認知症の祖母(姑の姑)の面倒も見るなんて、脚本家は一体何を考えているのか」といった比較的穏やかな意見から、視聴者どうしの罵詈雑言に至るまで、ドラマよりずっと面白い展開がこのコーナーで楽しめた。 

 それにしても、不評のドラマにしては随分熱心にこのドラマに嵌っているアジュモニたちの様子が見て取れ、なんだ、結局、視聴率上げているんじゃないのと、彼女たちの(ほとんどが中年のアジュモニ)連続ドラマに対する病的ともいえる情熱にただただ圧倒されていた。 

 悪評のうちに終わったこのドラマの後続が「アヒョン洞の奥様」(아현동의 마님)なのだが、これもなんと204回まで続いて(週5回だから41週、つまり10カ月以上の長丁場)、今年の5月初めにやはり不評のうちに終了した。日本では今、90回目ぐらいなのだが、일일연속 드라마は見始めるとやはり続きが気になるものだ。脚本家がそれだけうまいということなのだろうか。くだらないと思いつつ、念のためにビデオにとって私は見ているのだ。

 このドラマに関しては、そのうち詳しく触れることにするが、脚本家の実体験、つまり、12歳年下の男(新任検事)と結婚した(なんとも羨ましい)ベテラン女性検事の、結婚に至るまでの両家にまつわるすったもんだ、プラス結婚後のすったもんだ、これがこのドラマの大方の筋である。

2008/08/27

SONYの企業姿勢を問う。

 天下のSONYに対する怨みは深い。その最初はビデオのベーターがVHSとの競争に負け、市場から撤退したことに対する怒りである。そう、うちはSONYのビデオ再生機をわざわざ買ったのだ。それも、巷では既にベーターの撤退が噂されていた時期に。買った私もアホだったが、そのことを知ってか知らずか、売りつけたSONY代理店のおっさんの顔、私は忘れない。撤退を知らないわけないじゃない。道理で安かった。 

 互換性に対する認識不足。これって一流企業のやることでしょうか。国際競争力低下が進むだけ。衰退するSONY。私には近い将来の、その姿がどうしても目に浮かぶのだ。ブランドに胡坐をかいていたら、おしまいだ。吉兆だけではないのだ、今の日本で凋落の一途を辿る運命にあるブランド店は。 

 次なる互換性欠如の怨みはMP3、WALKMANだ。私は韓国の音楽(いわゆるK-Pop)CDをけっこう持っている。パソコンにコピーして、かつてはOZZIOという韓国系(?)のMP3に入れて、留学生時代散々聞いていた。東京に戻ってSONYのWALKMANを家人が買ってくれたので、同じように楽しもうとパソコンから入れようとした。ところが入らない。理由は韓国語版だからだって。なんという偏狭さ。ハングルは中国語と並んでJR、Tokyuほか私鉄の駅表示板にも併用されている時代よ。なんというアナクロニズム。   

 韓国ではSONYのVaioの人気が高いらしい。各メーカーの人気の度合いは、何を目的にするかによって決まる。たぶんSONYなら、音質だろうか。SONYのスピーカー、イヤホーンに対する神話はいまだに韓国では根強い。実態はどうなのだろう。割高のSONYをわざわざ選ばなくても、音の解像力の点で差はなくなってきているのではないか、というのが私の見識である。もっともSONYのPlay Stationの人気は不動のものかもしれない。ゲームの世界で生き残っていくしかないのかな。 

 ということで、互換性を無視したソニーのMP3は机の引き出しに入ったままだ。今すぐにとは思わないが、あの最新iPodが定着して安定供給されるのを私は密かに待っている。

2008/08/23

涼しい土曜日

 処暑/二十四節気の一つ。陽暦8月23日。    朝晩次第に冷気を覚える時分の意。   (新明解国語辞典より) 

 本当に涼しい日だった。あの蒸し暑さはなんなんだったのか、今や思い出せないほどの涼しさ、快適さ。あまりに突然だったので、うれしいけど、やはり調子が狂う。 

 今日、西武池袋線を利用したのだが、駅に着いてドアが開くたびに、弱冷の車内よりホームの方が余程ひんやりした風が入ってくるのだ。これで暑さがぶり返したら、きついだろうなあ。少しでも残暑が短いことを祈るしかない。 

 ソウルは先週ぐらいから既に涼しくなってきたそうだ。今年の秋夕(チュソク)は、9/13~9/15で、中秋の名月は14日だ。日本も敬老の日で三連休だから、今年は日韓で休日が同じ時期になるわけ。秋夕が過ぎれば、秋の始まりだ。昨年はもう少し遅い時期だったせいか、暑さがいつまでも続いた。 

 「ソウルの秋は年々短くなる」と、知り合いの誰もが言う。8年ぐらい前の10月初頭に、朝、旅館から出たら5℃だったことは記憶しているが、私の感覚から言うと、10月の中旬ぐらいからソウルの冬が始まるという感じがする。ちなみにオンドルはほんのり暖かい程度だが、9月から入っている。オンドルの温度が上がれば、外気は零下に下がってもなんの心配もない。オンドルの季節に向かっていると思うだけで気力が湧いてくる。 

 この秋、あるいはもう冬になっているか、1年5カ月ぶりに私はソウルに行くことになっている。

2008/08/22

欠陥網戸のこと。

 夕べ、雷が鳴って待望の雨が降った。強い北風が吹いてきて、南側の網戸下半分の網が剥がれてしまった。レースのカーテンと一緒にベランダ側にぺラッと突き出ている。この網戸は2年前だったか、便利屋さんにお願いして網戸2枚を張り替えてもらったばかりのもの。もう1枚の網戸だって、設置後まもなく、部分的にひずみが出来て、ある程度の大きさの虫ならたやすく入り込める隙間が出来てから久しい。 

 便利屋さんの腕が悪いのか、網戸自体の構造に欠陥があるのか(網を食い込ませる深さが浅いとか)、ともかく網戸の用をなさなくなった。 

 昔、網戸を自分たちで張り替えたことがあった。NHK教育TVの「Do it your self」とか何とかいう番組に刺激されて、網を購入してヒーヒー言いながら張替えに成功したことがある。でも2年前はその気力が失せてしまい、網戸2枚分、9000円を払って(1枚4500円は今思っても高い!)短時間のうちに仕上げてもらったのだ。 

 2年経てば、作業の有効期限は切れるのだろうか。あまりの早業に「プロは違うわね」などと感心したものだが、「お金、返してくれ~~」と、私は心の中で叫んでいる。欠陥作業だった可能性だって否めないからだ。 

 9000円といえば、韓国ウォンに換算して9万ウォンだ。4人で十分会食できる金額だ。怒りが新たにこみ上げてきたが、あの便利屋さんには2度と会いたくない。さてどうするか。網戸自体の構造に問題がある可能性だってあるかもしれないから、網戸そのものを買い換える、これが今のところの結論だ。  

 今日は近所の病院で人間ドックを受けに行く。午前中だけの簡単コース。留学前から検査を受けていなかったから、かれこれ5年以上にはなるか。いや、手元の資料によれば2000年が最後だった。ボロくなったのは網戸だけではなかったりして。

2008/08/20

映画「西の魔女が死んだ」  監督:長崎俊一

http://nishimajo.com/i_index.html  久しぶりの映画館。 考えてみたら、帰国後初めてだったということに思い至り、びっくりした。 

 梨木香歩(なしき・かほ)原作の映画化は、原作者のOKが出るまで長い歳月がかかったそうだ。登場人物の「まい」と、英国人祖母のとの切なくも心温まる物語は、わざわざ映像化する必要があるのだろうかと思われるほど、梨木の筆致は優れて平易だし、読者の頭に出現する森の有様、そこでの日常は活字の世界で十分堪能できる。 

 でも映像関係者であれば、この作品を映像化したいという気持ちになることは十分想像できる。映像化すれば、風の音、雨の冷たさ、霧の湿り気、セミの声など五感にも訴えられるし、本に描かれた、さまざまなハーブ、小さな植物、摘み立てのイチゴ、森の木々など眼前に広がる景色は、実際、映画を見ると、見事な映像世界として既に私の頭の中にあった風景と重なっていくことに驚かされるのである。 

 主人公の「まい」は、私が頭の中で描いていた中学生のまいとほぼ同じイメージで、その自然な演技は初めてとは思えないほど心に残るものだった。  

 そして、おばあちゃん。英国人で、中学の英語教師として日本に渡り、同僚の理科教師である日本人と結婚するという設定なので、これはもうかなりむずかしいキャスティングだったと思われる。 

 知日家で知られるシャーリー・マックレーンの娘、サチ・パーカーは、まさにこのおばあちゃん役にうってつけだった。彼女以外には考えられない。サチ自身、2歳から12歳まで日本に暮らしていた経験があるからなのか、それはそれは美しい日本語を話す。丁寧な物言い、明瞭な台詞の言い回しに、最初、吹き替えかしらと思ったほどだ。まいを見つめる彼女の愛情に満ちた表情と、まいとママ(おばあちゃんのひとり娘)を見送るときの悲しそうな、でもちょっとおどけたように見える表情は今も私の目に焼きついている。実はこのシーンがまいとママにとっておばあちゃん最後の姿になったのだ。  

 梨木の描く「魔女」は、人々をたぶらかしたり、魔法を使ったり、占いで未来を占ったりしない。 「魔女」は「自分のやるべきことを自分で決めて実行することの出来る女性」のことである。日本ではそういうタイプが生きていくのはまだまだむずかしい。 

 森の生活は単調であるが、生活するための智恵と工夫と、自然からの刺激に満ちている。まいは1カ月余りの生活を通して、おばあちゃんから多くのことを学んでいく。

 おばあちゃんとの最後の約束。「魂が肉体から離れたときは知らせてね」。キリスト教的世界観ではなく、仏教的世界である。というより、既成宗教が出現する以前の原初的な考え方であるというべきかもしれない。 

  人は亡くなると、肉体は滅ぶが魂はそこから離れて自由な存在になる。肉体にくっついていたときは、そのことによるさまざまなこだわり、軋轢、煩悩に悩まされるが、魂が離れて初めて自由な存在になるという考え方である。死んだら「私の心はどうなるの?」と思い悩んでいたまいにとって、これは救いになった。  

 物語の映画化は、物語をそのままなぞらえることではない。原作を元にした、監督によるもう一つの作品化である。女性性が強く表現されたこの作品を長崎監督がどこまで消化し映像化したのだろうかと大いに興味があったが、想像以上に成功したと思える。 

 ただし、原作にはない郵便配達夫とのエピソードは、おばあちゃんの日常生活を裏付けるものとして設定したように感じられたのだが、それは必要なかったのではないか。浮世離れした森のおばあちゃんと村人との触れ合いをわざわざ描かなくても、森での日常を観客に感じさせる演出がほしかった。 

 サチ・パーカーという不世出の女優の存在は、この作品の中でも異彩を放っている。原作者の描いたおばあちゃんがそのまま私の目の前に登場したという感じだった。サチ・パーカーが娘と孫娘を見送るシーンはあまりにも素っ気ない様子だっただけに、それだけ切なく、いつまでも心に残った。 

 撮影監督は渡部眞氏で、その深い色合いと、光と影が織り成すコントラストが印象的だったことも付け加えておきたい。 (8/7木曜日 恵比寿ガーデンシネマにて )  *8/29まで一日一回上映されています。(10:30~12:40)

2008/08/18

梨木香歩『西の魔女が死んだ』新潮文庫 2001年

 梨木香歩という作家を全く知らなかった。児童文学、ファンタジーの分野でかなり以前から活躍していたらしいが、ここ何年か日本を留守にしていたこともあって、今日まで知らずにいた。  

 文庫の帯には映画化の宣伝と、「最後の3ページ、涙があふれて止まりません。」というコピーがついている。 

   作者は1959年生まれ。鹿児島で生まれたが、外国で育ったらしい。そのせいか、森を舞台にした、祖母と孫娘(まい)の美しいストーリーは、日本的な雰囲気があまり感じられない。祖母が英国人という設定のせいもあるだろう。  

 人は死んだら、どうなるの? 私自身の魂はどこに行くの? 中学生なら誰もが抱く素朴な疑問にとりつかれたまいは、大好きな祖母と1カ月ちょっと森の家で生活して、彼女からすばらしい心の贈りものを受け取るという物語だ。 

 帯のコピー通り、私は鼻水まで出して、号泣した。自分のあまりの単純さに呆れたが、まだ感動する心が残っていたことに安堵した。 

2008/08/14

雷鳴だけで雨降らず

  暑い!  

 遠雷が聞こえるのに、雨降らず。湿度が割合に低いので(60%)、室内が32℃に上がっても、自然の風と扇風機だけで何とかしのげる。それほど私はエアコンが嫌いだ。各戸の室外機から出てくる猛烈な熱と、電車、地下鉄、車のエアコンで都会は熱帯だ。昨年のメモによると、暑さは10月の上旬まで続いた。1年のうち、半年は熱帯だということだ、今の東京は。 

 韓国から戻った家人によると、あちらも暑くて、東京とあまり変わらなかったそうだ。  20年前の9月初旬に初めて韓国を訪問した。成田に戻って空港の外に出たら、あまりの熱気と蒸し暑さに、思わず引き返そうと思ったことがある。それほど当時の韓国は蒸し暑さとはほど遠かった。まだ開発がし尽くされていなかったのだと思う。その韓国も今や、ヒート・アイランド現象と、二酸化炭素大量排出のため、暑く長い夏に悩まされるようになったのだ。

 子供の頃、エアコンなどなかった。扇風機がようやくあるぐらいで、夏の蒸し暑さも何とか凌げた。まだあの頃は学校の運動場も土だったし、空き地も林も残っていた。 

 今ではアスファルトの運動場、空き地の代わりに駐車場、そして緑は公園を除いて少なくなった。 

 二酸化炭素削減などと声高に言っても、その程度の努力で昔に戻れるはずもない。一度味わったエアコンの快適さを捨てる人はもういない。

2008/08/12

M嬢に電話する。

 プリペイドの国際電話カードが5枚残っている。使用期限があって、使用開始から24カ月である。5枚のうち、2枚は2007年に使い始めたから、期限は2009年まで。未使用の3枚については、2009年1月末までに使用を開始するようにとあるから、最大限2011年初めまでは使えるということだ。 
 
 私が留学中、家人が買っておいたものだが、帰国してからそのままになっていた。韓国人とはメールで連絡すれば事足りていたが、せっかくの国際カード、使わないのはもったいない。ということで、昨日、本当に久しぶりに遊び人のM嬢に電話してみた。彼女は一昨年結婚したから「嬢」というのもどうかと思うのだが、私の中ではいつまでも遊び人のお嬢さんだ。昨年の2月に東京で会って以来音沙汰がなかった。  

 国際電話カードは所定の電話先にまず電話してからカード番号を入力、それから相手の電話番号を押すのだが、相手の携帯電話の画面に韓国内の電話番号が表示されるということが最近わかった。  

 韓国人の中には、知らない電話番号には一切出ないという人もけっこういる。細かいことを気にしないとか、好奇心が旺盛な人なら、見知らぬ電話番号であっても気軽に出る。 
 
 案の定、M嬢は電話に出た。呼び出しメロディーも相変わらずけたたましい感じの노래だ。彼女は私とわかると、奇声を発して、「私、娘を産んだんです、去年の11月に」。びっくりした。彼女は教師なので、방학中の今、どこか旅行に出ているか、昼寝でもしているかなどと思っていた。あのM嬢が母になったとは。 

 母になって9カ月目。それでも彼女は相変わらずキャラキャラしている。新学期からは娘を預けて復職するという。'아빠~'としか言わないと彼女は憤慨するが、どんな赤ちゃんだろう。秋にソウルへ行ったら、ぜひ会いたいものだ。 

 教え子のヒョンジンにもかけてみた。呼び出しメロディーは聞こえたが、結局、切れた。やっぱりね。彼女はとても慎重で、軽はずみなことなどしない。今はどうか知らないが、当時は唯一남자 친구がいなかった。友人たちから、もっと積極的に生きないとだめよと常々言われるような子だった。韓国に行って電話するしかないなあ。そうそう、残りの教え子3人は結婚したのだ。3人のうち一人は新婚の夫をおいて、大阪に留学中である。ヒョンジンも博士課程に進んだ。  

 月日が流れたということだ。

2008/08/11

アクセサリーの整理

  夕べ雨が降って、정말 시원해졌다.久しぶりにエアコンを使わずに眠れた。 

 ぐっすり眠れたからか、6時半には生ゴミを捨てに行って、ついでに葉書を一枚投函した。午前中も北からいい風が吹きぬける。掃除、洗濯をして気分もさっぱりした。 

 韓国の북로그も一つポスティングした。猛暑でぼんやりしていた頭もすっきりしてきて、韓国語の作文も効率よくはかどった。 

 昨日は扇風機をかけながら、小引き出しのアクセサリー類の整理をした。まがいものから高価な品までいっしょくたに入っているので、ネックレス、ピアス、ブローチ、ブレスレットをそれぞれビニールの小袋に入れて、整理してみた。 

 リフォームしたら使えそうなものと、一生使わないと思われるようなものなどがあって、いずれ近所の宝石屋に行って、相談するつもりだ。 

 ふだん使う辞典類、国語辞典、英和辞典、韓日辞典、日韓辞典、植物図鑑、仏和辞典などなどは、先日松本から持ち帰った義弟手作りの机上本箱にうまく収まった。 

 さて、次は何をどういうふうに片づけるか。 

 突然、蝉の鳴き声がしてきた。夕べの雨で地中から出てきたのだろうか。 

 昼前後から気温がぐんぐん上がってきて、午後には光化学スモッグ警報が出た。外出はできるだけ避けてみよう。戦前の空襲警報よりはいいけど、環境は確実に悪化している。

2008/08/10

留守をフルに活用する。

  予報通り、北から冷たい風が入ってきた。明け方、家人がクーラーを消して窓を開けたらしいのだが、目覚めたら、冷たい空気を感じて、まだクーラーがついているものとばかり思っていた。 

 熱帯夜は最低気温が25℃以上のことだが、夜明けの室温は、このところ28℃とか29℃とか、とんでもない温度だった。今日は昼間も31℃くらいで「しのぎやすい」とのこと。それでも31℃だもんね。

  家人は今日から韓国に行く。朝6時には羽田に向かった。今日から4日間、すべての時間が私だけのものになる。贅沢な夏の休暇。することはたくさんある。
 
 まず、身の回りの片付け。リビングの一隅を占める私の机、書棚、パソコン周辺、かなり雑然としてきてからだいぶ経つ。いらなくなった書類の破棄、一度読み返したらもうそれで捨ててもいいような手紙類、写真の整理。それに冷蔵庫、台所の収納庫など、気にはなっていたけど手つかずのままにしていた諸々の片付けをゆっくりやるとしよう。 

 それと、パソコン内部の整理も。ドキュメントをもう少しすっきりさせたい。
  
   お盆を目前に通りの車もだいぶ減ってきた。今日は日曜日、近所のワンルーム・マンション建設工事もない。ああ、いい気分だ。  

2008/08/09

さて、始めるか。

 5年ぐらい続けていたブログを、昨年の猛暑の中、魔がさしたといったらいいのか、とにかく、一挙に消してしまってから(何者かの力が働いて、突然消えてどこかへ飛んで行ってしまったという感じがいまだに残っている)、また猛暑の真っ只中にいる。 

 さすがにクーラーはつけているが、それでも頭の中は朦朧として、こんな状態で始めていいものだろうかとも思うのだが、始めよう。Gamila日記の再開だ。場所は変わって、Google。  

 世間では北京オリンピック一色のように見えるが、私は全く関心がない。こんな暑いときに暑苦しいイベントをよくもするものだわと、大国嫌いの私は思うのだ。いつからスポーツの祭典が政治の道具と化したのかよく思い出せないが、犠牲者が出ないまま無事に終わってくれることを祈るしかない。 

 そうだ、今日は長崎に原爆が落とされた日だ。午前11時過ぎだったよね。忘れなかったら、黙祷しよう。63年経つんだね。63年経っても、相変わらず、世界のあちこちで戦争が勃発している。独立を求めるチベットの人々を押さえ込み、四川大地震の惨状も隠して、オリンピックが開かれている。しらけるね。  

 最近思う。人間性に欠けた人が政治家になるのか、政治家になってから、徐々に人間性を失っていくのか。  

 ともかく暑い。明日は少しマシになると言ってるけど、週が開ければ、当分の間、猛暑がどっしりと腰を据えることだろう。今日はこの辺にしておこう。