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2008/09/09

5年ぶりにチングに会う。

 高校時代の友人に会った。なんと5年ぶりだ。5年。私たちの年代ではかなり長い時間感覚だ。5年後は。。。年齢は秘密にしておこう。自分のためだ。

 5年前、韓国の地方都市にある某国立大学の大学院(国文科:韓国現代詩専攻)に正式入学が決まった頃、横浜で会ってワインで前途を祝ってくれたチング(親旧:韓国語で友だちの意味)だ。この間、私は夢のような学生生活を2年ちょっと送り、彼女は契約社員として楽しく働き、帰国後3年も経ったというのに、今日、ようやく会えた。夏のような陽気で、横浜の海に近いせいか、陽射しが痛いほどだ。

 それでも9月だ。季節外れの半ズボンを安く買うことができた。値段の割りに品質がよかった。吊り紐がついているのを見て、彼女が「あなた、まさかそれはやらないでしょうね」。

 自宅に戻り、私は嬉々として吊り紐をかけ、鏡の前でニヤリとしたのだ。家人は呆れるかと思いきや、「自宅で着ているだけなら、紐あった方がいいね」とのたまった。さすがに外出するときは紐なしだけど。

 5年も会っていないと積もる話も消化しきれず積もりっぱなしだ。二人とも終始笑ってばかりいた。横浜まで来てくれたんだからと、お昼は彼女の奢りだった。次回は私が代官山あたりを案内するねということに。これって韓国式なのだ。いちいち割り勘にして、これで二人の関係はその都度精算されますといわんばかりのダッチ・ペイ、どうも苦手になってきた。

 この方式のポイントは一つだけ。記憶力だ。前回は相手が払ったから今回は私が払うという程度の記憶力。こうしてエンドレスの関係が続いていくのである。韓国にいたとき、この方式がくずれたことはただの一度もない。記憶力というより、韓国人は義理堅いのだ。奢りに群がるなどというセコイことはしない。そこが私は好きなのだ。

 ということで、高校時代はすっかり過去のものとして化石化していくばかりだが、彼女との付き合いはエンドレスになるような気がする。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

私も実家の夏祭りなどに行くと懐かしい友人たちに会います。高校の友人どころか、中学校、小学校のクラスメートにも何十年かで会えます。

古い友人に会うとか、クラス会に出席するとかはもちろん近状報告もあるけれど、それよりも昔とは違う、少し素敵になった自分を見て欲しいという意味も含まれているのではないでしょうか。昔は子供だったけど、今は磨きをかけた大人の女よ、みたいな。

夏祭りで会う友人たちは開口一番、私のことを当時のあだ名で呼び、「全然変わってないね。」と口を揃えて言います。誉め言葉で言ってくれるのだろうけど、こっちはすごく傷つく。それでもグッとこらえて大人の雰囲気、素敵に変わった仕草で一生懸命頑張るのですが、昔のあだ名を連呼されるとだんだん体中が子供の頃に戻って、大人の雰囲気が消えてしまうのですね。
昔の友人って、悲しい。

Gamila さんのコメント...

 まあ、うらやましいわ。私は転校が多かったので、小学校時代、幼稚園時代の友達は一人もいません。いわゆる幼馴染って、いないのよね。

 昔のあだ名で呼んでくれる友人がいるなんて幸せなことだと思います。だって、年齢を重ねていくうちに、昔の自分を知っていてくれる人がどんどん亡くなっていくんだから。

 友人だけでなく、私の赤ん坊時代を知っている人は、もう数えるほどになってしまいました。年を取るということはそういうこともあるのね。
 故郷のある人がうらやましいな、やっぱり。