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2008/11/09

見返りを求めない愛。

 両親から受けた愛を一言で言うと、それは見返りを求めない愛である。それは目に見えないものだ。そのときには気がつかなくても、後になってしみじみわかる愛だ。年齢を重ねてみると、そのことがいよいよはっきりしてくる。

 父母の愛に勝るものはない。私は子供を持たなかったから、本当の意味で父母の気持ちがわかっていないところはあるだろう。母にならなければ、自分の子供に対する慈愛、いとおしみと言った感情は切実なものとしては迫ってこないだろう。だから私が考えることはあくまで推測に過ぎない。

 見返りのない愛ほど美しいものはない。相手に対してここまでしたのに何の反応もなかったとか、こちらを利用してばかりの相手に対して腹を立てたりとか、そういうことが一切ないということだ。

 そういう意味で、私は韓国の知人からどんなに深い思いやりと愛情を受けたか知れない。残念なことに、日本ではあまり体験したことがなかったものだから、彼らの「情」の深さに、最初は戸惑いながらも次第に甘えていく自分を見出だすのだった。

 1年あまりのソウル滞在のときも、2年余りの留学時代も、私は本当にどれだけ多くの韓国人の情に支えられて過ごしただろう。たった一言でも、その思いやりの深さにどれだけ励まされたことか。それは年齢、性別を超えて、いつも私を元気にしてくれた。

 「韓国では水を得た魚のようね」と、昔日本人の知り合いから言われたことがある。そう言われてみてそうかもしれないと思った。基本的に私は日本にいるとエネルギーが枯渇し、韓国に行くと、生き生きとしてくるのだ。食べ物のせいばかりではない。それはやはり韓国人の深い思いやりのお陰なのだ。

 もちろん韓国も日本のように物質主義が横行し、自分の肩書き、経歴のためには何でもするという俗物根性丸出しの人もいるにはいる。でも、表面的な社会の趨勢がたとえそうなって行っても、社会の底に流れる情緒はそれほど急激には変貌していかないものだ。その情緒はすでに日本では見られなくなった。

 日本は随分ドライな社会になってきた。自分もしくは自分の家族さえよければいいという人が増えた。それだけ世知辛い世の中になったのだ。ゆとりというものがおよそ感じられない。韓国も確かにゆとりがなくなってきた。でも思いやりという人間最後の砦はちゃんと残っているように思う。日本がそれを取り戻せるか、そして韓国がそれを維持できるか、それが私の関心事である。

 

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