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2008/08/20

映画「西の魔女が死んだ」  監督:長崎俊一

http://nishimajo.com/i_index.html  久しぶりの映画館。 考えてみたら、帰国後初めてだったということに思い至り、びっくりした。 

 梨木香歩(なしき・かほ)原作の映画化は、原作者のOKが出るまで長い歳月がかかったそうだ。登場人物の「まい」と、英国人祖母のとの切なくも心温まる物語は、わざわざ映像化する必要があるのだろうかと思われるほど、梨木の筆致は優れて平易だし、読者の頭に出現する森の有様、そこでの日常は活字の世界で十分堪能できる。 

 でも映像関係者であれば、この作品を映像化したいという気持ちになることは十分想像できる。映像化すれば、風の音、雨の冷たさ、霧の湿り気、セミの声など五感にも訴えられるし、本に描かれた、さまざまなハーブ、小さな植物、摘み立てのイチゴ、森の木々など眼前に広がる景色は、実際、映画を見ると、見事な映像世界として既に私の頭の中にあった風景と重なっていくことに驚かされるのである。 

 主人公の「まい」は、私が頭の中で描いていた中学生のまいとほぼ同じイメージで、その自然な演技は初めてとは思えないほど心に残るものだった。  

 そして、おばあちゃん。英国人で、中学の英語教師として日本に渡り、同僚の理科教師である日本人と結婚するという設定なので、これはもうかなりむずかしいキャスティングだったと思われる。 

 知日家で知られるシャーリー・マックレーンの娘、サチ・パーカーは、まさにこのおばあちゃん役にうってつけだった。彼女以外には考えられない。サチ自身、2歳から12歳まで日本に暮らしていた経験があるからなのか、それはそれは美しい日本語を話す。丁寧な物言い、明瞭な台詞の言い回しに、最初、吹き替えかしらと思ったほどだ。まいを見つめる彼女の愛情に満ちた表情と、まいとママ(おばあちゃんのひとり娘)を見送るときの悲しそうな、でもちょっとおどけたように見える表情は今も私の目に焼きついている。実はこのシーンがまいとママにとっておばあちゃん最後の姿になったのだ。  

 梨木の描く「魔女」は、人々をたぶらかしたり、魔法を使ったり、占いで未来を占ったりしない。 「魔女」は「自分のやるべきことを自分で決めて実行することの出来る女性」のことである。日本ではそういうタイプが生きていくのはまだまだむずかしい。 

 森の生活は単調であるが、生活するための智恵と工夫と、自然からの刺激に満ちている。まいは1カ月余りの生活を通して、おばあちゃんから多くのことを学んでいく。

 おばあちゃんとの最後の約束。「魂が肉体から離れたときは知らせてね」。キリスト教的世界観ではなく、仏教的世界である。というより、既成宗教が出現する以前の原初的な考え方であるというべきかもしれない。 

  人は亡くなると、肉体は滅ぶが魂はそこから離れて自由な存在になる。肉体にくっついていたときは、そのことによるさまざまなこだわり、軋轢、煩悩に悩まされるが、魂が離れて初めて自由な存在になるという考え方である。死んだら「私の心はどうなるの?」と思い悩んでいたまいにとって、これは救いになった。  

 物語の映画化は、物語をそのままなぞらえることではない。原作を元にした、監督によるもう一つの作品化である。女性性が強く表現されたこの作品を長崎監督がどこまで消化し映像化したのだろうかと大いに興味があったが、想像以上に成功したと思える。 

 ただし、原作にはない郵便配達夫とのエピソードは、おばあちゃんの日常生活を裏付けるものとして設定したように感じられたのだが、それは必要なかったのではないか。浮世離れした森のおばあちゃんと村人との触れ合いをわざわざ描かなくても、森での日常を観客に感じさせる演出がほしかった。 

 サチ・パーカーという不世出の女優の存在は、この作品の中でも異彩を放っている。原作者の描いたおばあちゃんがそのまま私の目の前に登場したという感じだった。サチ・パーカーが娘と孫娘を見送るシーンはあまりにも素っ気ない様子だっただけに、それだけ切なく、いつまでも心に残った。 

 撮影監督は渡部眞氏で、その深い色合いと、光と影が織り成すコントラストが印象的だったことも付け加えておきたい。 (8/7木曜日 恵比寿ガーデンシネマにて )  *8/29まで一日一回上映されています。(10:30~12:40)

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