遺伝子というのは、基本的に利己的遺伝子の複製のために存在する。子供と親は別の人格だと主張しても、やはり自分の子供は自分以外の何者でもない(と、想像する)。
すべての親は、親バカである。もちろん例外は存在するけど、それは表現力の差であって、自分の子供を殺めてしまう親にとっても、子供は自分と一体視してしまう存在なのだ。生物の本質が自己複製だとするなら、自己愛のない人は存在しない。
男性の力がどんどん萎えてきているそうだ。精子も脆弱になり、このまま行くと男性は滅んでいくとか。人類は滅びの方向へ向かっているのだ。その方が地球の環境のためにはいいかもしれない。人類発生以来、どれほど地球が傷ついたことか。その地球だって限りがある。人類が滅びるか、地球が瓦解するか、どちらが先か。
滅びの美学からすると、人工受精というのは、神をも恐れぬ不遜な行為に思えてしかたない。無神論の立場から見ても、この世には説明のできない、人智を超えた何者かが存在するように思えるのだが、生命という、神聖であらゆる不思議の連続の賜物を、人工的に操るといのはどうしてもいただけない。
不妊に悩む女性は多い。このストレス社会だもの、順調に妊娠できずに絶望する人もあるだろう。でも生命はやっぱり授かり物という感じがする。動物だってそうだ。人工授精、人の手が加えられた牛や馬の誕生は、どう見ても、則を越えているという気がする。狂牛病だって、不遜な人間が生み出したようなものだ。
人工授精によって生まれた子供の追跡調査がどうなっているのかよく知らないが、排卵誘発剤など、その副作用はすぐには現われなくても、何代か後に出現する恐れだって考えられる。そういうことをすべて覚悟した上で、女性は子供を産むのだろうか。それほど止むに止まれない要求なのだろうか。私は密かに心配している。
先日、新聞に載っていた14人(8人+六つ子)の人工授精児の母親の写真、ちょっとぞっとしてしまったのだ。
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