うがった見方をすると、学問の仕方を知らずにライセンス取得にばかり血道を上げているという風情だ。晋州で大学院国文学科に在籍していたときも、40前後の遅いスタートを切った人々がライセンス獲得にやけに熱心なことに鼻白むことが多かった。生涯教育ということが言われて久しい日本からみると、韓国の教育は功なり名をとげるための手段の一つに過ぎない。現世的ご利益を重視する儒教文化圏だからそうなんだろうかと、初めのうちは彼我の差を思わずにいられなかった。
「その年齢で修士(韓国では碩士「そくさ」という)を取って、どうするのか、碩士を取ったら、博士に進むのか。」「日本に戻ってからどうするのか。韓国語を教えるのか」などと随分質問された。私を除く人々は必死に碩士を取って、博士に進み、あわよくば地方の国立大学で時間講師の一つでもやって、そのうち専任の道も開けるだろうなどと野心満々である。
私のように動機が不純のまま大学院生をやっている者など一人もいなかった。中学校の国語教師をしながらグレード・アップを目指していた女性が、ある日、「あなた、ライセンスのためでないでしょ。ここで(遊びながら)韓国を観察しているんでしょ?」と言った人が一人いたが、この人さすがに鋭いなあと思ったものだ。教師は人をよく見ているものだね。
学問にも段取りというものがある。日本で博士を取って韓国に帰国し、ようやく就職できた人がいるが、時々メールでびっくりするようなことを頼んでくるのだ。そんなこと、あなた専門家のはずでしょうが。なぜ素人の私に頼むのかと、驚くばかりなのだが、ハタと考えた。彼女は基本的なアプローチを間違っている。まずやるべき手段を知らない。適当な指導教師がいない。ジャーナリストの端くれのような私に随分細々としたこと、それもその専門だったら当然知っていてしかるべきことまで尋ねてくるのだ。日本の学問レベルから言ったら、失格だ。よくその程度で博士号を取れた、いや日本側は上げたねえとため息をついてしまうのだ。
インターネットの発達で、碌に勉強しないでも、検索の鬼と化せばほどほどの資料は手にすることができる世の中だ。それでも自分の足で資料を収集し、インタビューを試み、関係機関と連絡を取って研究を進めることには変わりない。そういった基礎的アプローチを学ばないで何が博士だ。ウッキンダ、チョンマル。
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