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2009/05/31

ノムヒョンの悲劇

 手っ取り早く言えば、彼は早く生まれ過ぎたのかもしれない。社会を先導する者にありがちなことだが、大衆の先を行き過ぎていて、大衆はその彼に過大な期待をし過ぎて、自らを葬らせてしまったという感じがしてしかたない。   

 私の留学時代はそのままノムヒョン政権と重なる。既成の政治家には見られない先見的な感じのする彼が大統領に就任したものの、社会的基盤さえまともに構築されていないのだから、やるべきことは山積みだった。在任中、ノムヒョンには失望したという声を私は何度となく聞いたものだ。  

 軍事政権が終わり、形式的には1992年に初めての文民大統領が出たといっても、解放から47年、それまでの道のりを考えると、人々の意識はおいそれとは変わらない。誰もが食べて生きていくのに精一杯だった。

 永訣式に臨んだ人々の様子を映像で見る限り、失ってみて、改めて思い知ったノムヒョンの存在感に打ちひしがれているという感じだ。1988年に釜山から立候補して国会議員になるときの演説は、「とにかく誰もが安心して食べていける世の中を作りたい」というものだった。その年はソウルオリンピックが開かれた年だが、実態はオリンピックどころではなかったのだ。  

 白いお米を何不自由なく食べていけるようになったのは、それほど昔のことではないということ。これは隣の国の人間として銘記すべきことのように思える。

2009/05/30

KBS On lineで見たノムヒョン前大統領永訣式

 夜明けに生まれ故郷を出発して、ソウルの景福宮(キョンボックン)に到着したのが、午前11時。ノムヒョン政権時代の首相経験者であるハンミョンスク女史の弔辞に心を打たれた。彼を失ってしまった悲しみと悔しさ、そして思いやりに満ち溢れていた。 

 ソウル広場での一般国民とのお別れ。招魂の儀式、詩人による自作詩の朗読、舞踊とパンソリなど、韓国特有の風俗と文化を垣間見た。詩人アンドヒョンによる詩が正直に真情を吐露していたようで印象的だった。「コマウォヨ、ミアネヨ、イロナヨ」(ありがとう、ごめんなさい、起き上がって(ノムヒョン))という3つの言葉に、ノムヒョンの死を悼む気持ちが簡潔に表されていた。 

 その後の様子は長時間に及ぶので見なかったが、水原(スウォン)で火葬され、遺骨を首から提げた息子の様子は憔悴しきっていた。そして遥か故郷への道を目指したのだろう。 

 ソウル広場に集まった群衆は20万人とも30万人とも言われる。全国で焼香した人々は300万を超えるそうだ。故郷からソウルに向かう沿道には人々の群れや車が数珠繋ぎになって、故人を悼み、偲ぶ気持ちが果てるということがないように見えた。 

 外国の政治家が亡くなってこれほど心が痛くなったことは私も初めてだった。

2009/05/29

感受性の問題

 電車に乗るたびに不愉快な思いをする。ファッションはその人の好きに自由にしてもいいにしたって、TPOをわきまえないと、みっともないことになる。女子高生の改造制服(超ミニスカートにして、太ももを露にする、特に冬場は見ているだけで寒くなる)、下着と見紛う猥褻としか言いようのない女の子の服装(とてもレディには見えない。年齢はけっこう行っていても、女の子と形容するしかない)などを見せ付けられると、不愉快極まりない。なぜこちらばかりがこんな思いをしなくちゃならないのか。 

 
 見なきゃいいのだが、電車内は公共の場。破廉恥なスタイルで乗り込んで来れば、見ちゃうでしょうが。昨日もそうだった。某私鉄電車。この私鉄はホームも終日禁煙になって久しいが、地下駅から乗り込んできた女の子。タバコの匂いをさせて乗り込んできたのよね。そのみっともない服装に普段吸っているらしいタバコの匂いがこびりついていたと見えて、雨模様の高湿度の中、匂うこと。  

 そのスタイルは、ホットパンツに黒いストッキング+フリフリのガーターベルト。車内のおじさんたちは一斉に彼女の方に視線を投げていた。乗り込んで私の隣に座っている間中、携帯を覗き込んでいるんだよね。横顔を見ると、まあすごい厚化粧。 
 
 ファッションはその人自身だ。他人のライフスタイルをうるさく言うつもりは毛頭ないけど、公然猥褻罪、すなわち、本来なら人前をはばかるべき物事をおおっぴらに行うことに対する罪で訴えたいぐらいだったね。  

 最近は女子大生とキャバクラ嬢、風俗勤務の女性の区別がほとんど出来なくなりました。

2009/05/28

呆れてものが言えない。

 ノムヒョン前大統領の死を巡って、あっと驚く事実が次々に明らかにされている。なんと、岩山から身を投げたときに、警護員がそばにいなかったというのだ。青瓦台からの命令で配属された45歳の警護員の陳述が二転三転した。本当に21世紀の話なのかと、疑いの目を持たざるを得ない。

 警察の取調べ、与野党の応酬、ノサモ(ノムヒョンの親衛隊というか、ファンクラブとでも言おうか)の人々による強硬な姿勢、そして、自分たちが直接選んだにもかかわらず、2MB(イミョンバク)総スカンの国民大合唱。そして、すでにこの世にいないノムヒョンに対する思慕と伝説化がものすごい勢いで突き進んでいる。 

 移民を本気で考え始めたという人もいれば、失望して毎日ソジュを飲む若い会社員、一体何を信じて生きていけばよいのかと落胆する若者、このところの一連の騒ぎを一切無視する人、こんな混乱、今に始まったことではないと驚かない振りをする人など、反応は人さまざまであるけれど、それにしてもねぇと、お隣の国のことと突き放して考えられない者としては、ため息をつくしかない。

2009/05/26

北朝鮮では地下核実験するし。

 朝鮮半島はもうメチャクチャだ。何でもありのカオス状態だ。  

 イデオロギーは違っても、北朝鮮も韓国も本当の意味での言論の自由がない。このところのノムヒョン騒動を見ていると、韓国という国が「インターネット劇場」と化しているという感がして仕方ない。世界一のインターネット大国は、数だけ世界一かもしれないが、その実態は非常に質が悪い。  

 一体韓国に本当の意味の健全なジャーナリズムがあるのか、大いに疑問だ。その国の成熟度はその国のジャーナリズムを見ればよくわかる。いくら経済的に奇跡の発展を遂げたと言っても、その中身はちっとも成熟していない。 

 韓国は噂社会だ。こういう印象を持ってかなり経つが、その思いはますます強くなるばかりだ。正当な手続きを経て、コツコツと取材して記事にするというジャーナリストの基本も身に着けていない連中が多すぎる。
  
 インターネットによって登場、支持されたノムヒョンは、パソコンに遺言を残したまま、絶望して自ら命を絶った。こんな象徴的なことがあるだろうか。

2009/05/24

なぜ政治家の家族はお金にルーズなのか?

ノムヒョン氏の遺書 

   衝撃的なノムヒョンの死は、どうやら自殺だったという結論が出たようだ。本人のコンピューターに残された遺書を読むと、かなり深刻なウツ状態だったことがよくわかる。なぜ、家族や側近は病院に連れていかなかったのか。執務室に閉じこもりっきりでいたらしいが、4月30日に検察の取調べでソウルに行くときの弱々しい表情が妙に印象的だったことを思い出すと、そのウツ状態はかなり前から進行していたと思われる。 

 夜明けに登山に行き、朝7時前に岩山から身を投げたようだが、夜明けや朝方はウツの状態が最も深刻さを増す時間帯だ。なぜもう少し配慮しなかったのか。ノムヒョンのような政治家は後にも先にももう出ないだろう。正義感の塊のような人物で、日本の政治屋には見られない高い志の持ち主でもあった。

 そして思うのだ。なぜ政治家の家族はお金にルーズになるのだろうか。今回の収賄容疑も、たぶん、本人はお金をもらっておらず、兄弟、夫人、子供たちがノムヒョンの預かり知らないうちにお金を得ていたと想像される。不徳の致すところだと言えばそれまでだが、金泳三も金大中も結局、親族がお金を受け取って問題を起こした。 

 大統領はこの上ない権限を持つから、人々が群れるのは仕方ないことだろう。ノムヒョンも前の轍を踏まないように、娘や息子をわざわざ遠ざけるために国外に送っていたのに、その国外で莫大なお金を手にしていたという話だ。ノムヒョンの心情は察するに余りある。その無念さは計り知れない。高い志も、一番身近な家族によって汚されてしまったということだ。 
 
 韓国はこれからどうなるのだろう。6月にソウルに行く頃は政治的にかなり荒れているのではないかと思う。ノムヒョンを慕う人々による現政権への非難が強まるばかりだろうし、そうでなくとも、最近、労働争議が頻発している。2MB側がどう出るか。 2MB OUTの声が高まるばかりだろう。

2009/05/23

ノムヒョン前大統領が死亡した。

 さっき偶然、インターネットのニュース速報が入ったのだが、なんと、あのノムヒョン前大統領が亡くなったそうだ。朝、登山中に事故に遭ったらしいが、自殺の可能性もあるとの報道だ。転落事故だと思いたい。詳しいことはこれからわかるだろう。もう二度とあの姿に会えないのかと思うと、胸が痛い。金海からソウルに連れて行かれた、ちょうどその日、私たちも金海にいたので、なおのこと切なさが募る。思いがけないニュースに言葉もない。

2009/05/21

なんだかなあ。

 6月に母を連れてソウルに行く。母はなんと14年ぶりのソウルだ。私たちがソウルにいたときも、私が晋州で留学していたときも再三来るように行っていたのに、身体の調子や、家族の不幸が重なって、とうとうその機会を逸していた。 

 インフルエンザ騒動もなんだかかまびすしい。日本人はよほどマスクが好きなんだねと、韓国のブログ仲間は不思議がっている。関西に続いて東京でも患者が出た模様だが、これはアメリカから帰国した高校生だった。  

 インフルエンザとしては、通常とさして変わりない弱毒性のものらしい。いっそのこと蔓延して、全員抗体を持ってしまった方がいいのでは?などと思ったりする。ワクチン作製も予定より遅れるらしい。いずれにしても6月の成田と仁川での検疫、検査で待たされるかと思うと、気が重い。 

 教保文庫のブックログのコメント、ポスティングが突然出来なくなった。コメントを書こうにも、更新するにもいちいち「本人確認」の窓が開くようになった。韓国在住の外国人の欄はあっても、外国在住者の欄がない。基本的に韓国国内だけを見ているわけね。本人確認云々は、あくどい書込みを封じ込めるためのもので、最近急にうるさく言うようになった。教保は、昨日5月20日から突然、この窓が開くようになって、ちょっとびっくりした。 

 現政権の思惑も多分にあるのではないか。あのYou Tubeが原則として匿名で書けることに対して、韓国側が難色を示し、結局、You Tubeは韓国を除外処分にしたという話をだいぶ前に聞いた。匿名性を認める言論の自由を駄目だと言う韓国の了見の狭さに、韓国社会の問題点がモロ出ている。世界一のインターネット王国である韓国が自ら自分の首を絞めているのではないかとも思える。

 李ミョンバク政権が言論統制の方向に向かっているのは確かだ。教保は昔から融通の利かない所だという認識があるので、別に驚かないが、独占に近い形で韓国のある種のエリート層を抱え込んでいるだけでは、先がないように思う。結果として、外国人排斥のようなことをされたのだから、当分気分の悪い日々を過ごさねばならない。なんだかなあ。

2009/05/19

アイス・ワイン

 光州へ行ったとき、知人の家でアイス・ワインなるものを振舞われた。なんでも氷結した葡萄から偶然作られるようになった代物で、値段も割高だ。ビンのデザインが華奢でおしゃれだ。  

 帰国して酒屋を何軒か回ったが、どこにもアイス・ワインは置いてない。恵比寿の三越にもなかった。ところが、先日松本に行ったら、イトーヨーカ堂にあったのだ。別のスーパーにも何気なく置いてあった。 

 松本という所は面白い。東京で見つからない物が案外簡単に見つけられるからだ。以前、カゴメのラグベジという、石榴の入ったジュースを松本で見つけたことがある。おいしかったので東京でも探してみようとしたが、いまだに売られている所を見たことがない。カゴメのホームページには確かに載っていて、インターネットショッピングで手に入れるしかない。  

 松本はもしかしたら、新商品の反応を試す地域になっているのかもしれない。確かに新し物好きがたくさんいる。観光以外にさして産業のない地域だが、都会より鋭く反応するような気がする。アンテナ・ショップならぬ、アンテナ都市だったりして。  

 とにかくアイス・ワインが松本で普通に販売されていたことは特筆すべきことだった。

2009/05/15

ヒスンさんからのメール

 ヒスンさんのことを覚えている人がいるだろうか。楽天で書いていたとき、晋州時代の友人としてよく登場していた女性だ。小学校のベテラン教師で、敬虔なクリスチャン。私が2年間暮らしたワンルーム・アパートに程近い所に暮らしていたので、週に1度は会っていた。保証人の先生の奥さんが同僚の彼女をわざわざ紹介してくれたのだ。 

 晋州を去るとき、彼女は巨済島に引っ越していたので、会うのはむずかしかったが、たまたま実家に戻ったときに連絡が入り、ワンルームまで顔を見に来てくれた。私も病気ですっかり元気を失くし、彼女も巨済島での生活がつらいと言って、二人でため息をつき、玄関でしばらく抱き合って別れを惜しんだ。  

 その後、メールのやり取りをするでもなく、韓国に行くたびに彼女のことを思い出していたが、電話もせずにそのままにしていた。昨日、そのヒスンさんからメールが来た。筆不精の彼女からメールが来るなんて、ちっとも期待していなかった。光州から釜山に戻るとき、途中ワンルームのある町を通過して、涙が出そうになったが、ヒスンさんもあの町にはもういないしなあと思ったりした。 

 彼女のメール。「晋州に戻ったのよ。上の娘も地元の高校の2年生、下の息子は中学生になった。あなたのことは以前ブログで知っていたけど、コンピューターの調子が悪いまま、アドレスもどこかへ行っちゃって。元気なんでしょ? とにかくメール下さい」とあった。慣れない巨済島を去って、故郷の晋州に戻ってきたんだ。本当によかったね。子供たちもいつのまに大きくなったんだろう。そうだね、あれから4年経ったんだね。 

 あの光州行きがなんだか呼び水のようになって、またヒスンさんに会えたような気がする。不思議な気分だ。6月に韓国に行ったら、電話してみよう。私は早速長い返事を出した。

2009/05/11

釜山 海雲台のチンチルパン

by Nikon Coolpix / 25 April 2009 / 해운대 찜질방에서

 5年ぶりに再会したヨンミさんはサービス精神に溢れた人だ。5年前に釜山で会ったときも車であちこち連れて行ってくれた。昼食の後、梵魚寺(ポモサ)、海雲台、彼女が勤務する小学校などを見物して、海岸沿いにある映画館でヴィム・ベンダースの映画を見て、夕食は彼女の同好会の仲間たちと一緒に海の見えるレストランで会食した。昼前に高速バスターミナルで会ってから、再びバスターミナルで別れたときは11時近かった。フルコースの歓待を受けて、晋州行きの最終バスに乗った私は疲労困憊して泣きたいぐらいだった。

 そのときの体験があるので、ヨンミさんのペースに唯々諾々としていると、疲れ果てるに決まっている。夕べは雨の中、ホテルまで送ってもらった。今日は午後、テグに向かえばいいのだから、午前中は少しゆっくりしたいと申し出た。彼女の心積もりでは、郊外のお寺に行って、写真を撮ったり、東洋一と言われる釜山のショッピングモールに行ってお昼を食べたり、教保も覗いてみようということだったらしいが、お寺は次の機会にして、海の見えるサウナでのんびり過ごしたいと言った。

 釜山駅まで家人を送り、駅の駐車場でヨンミさんを待った。家人は一足先にテグに行って、学会発表のコメントをしなければならない。時間がないので、9時発のKTXに乗って行ってしまった。20分くらい待ってようやくヨンミさんから電話あり。トランクに一眼レフの重そうなカメラを積んできた。

 土曜日で学校はお休み。ご亭主も集まりがあるとかで「今日は午後遅くまで付き合えることになったのよ」とうれしそうに言う。私もありがたい。一路、海雲台へ。瀟洒なフィットネス。海側は全面ガラス張り。3階から海がよく見える。77度、51度など、微妙に温度の違うサウナを少しずつ楽しむ。50度前後だと、そのまま横になって眠ってしまいそうになるほど。ヨンミさんものんびりムードに浸りきっている。横になりながら家族のこと、仕事のこと、趣味の写真のこと、今後やりたいと思っていることなど、じっくり話した。彼女はおしゃべりが好きだ。淀みなくしゃべる彼女を見ていると、このまま永遠にしゃべり続けるのではないかと思われるほどだ。うれしいことに彼女の言うことがほとんど聞き取れる。韓国語を続けててよかった。5年前は今ほどは聞き取れなかったものね。

 彼女が教師として悩んでいること、少しでも子供たちのためになるように不断の努力をしていることなどを聞いて、すっかり感心してしまった。今回で2度しか会ってないのに、昔からの友人のように話は尽きない。興味の対象が似ているからかもしれない。私たちは芸術をこよなく愛するという点で一致している。写真が取り持つ不思議な縁を思った。

2009/05/10

オボイナルの電話

 5月8日は、韓国ではオボイナルと言って、母の日と父の日が2つ合わさった日だ。一度に済むからいいかもしれない。ソウルに暮らしていたとき、友人が「明日はオボイナルだから、姑に何かプレゼントを買わなきゃ」と言って、一緒にデパートに出かけたことがある。姑にも贈り物をするのかと感心した。
 
 父の日の記憶はさしてなくても、母の日の思い出は誰でもあるのではないだろうか。アメリカから来たこの習慣だが、赤いカーネーションを贈る。母のいない人は白いカーネーションだった。  私たちも、母とシオモニ(姑)に小さなプレゼントを用意して、子供の日に、練馬のイタリアンでお昼を食べた。そのレストランは裏に大きな畑を持っている。そこで取れ立ての野菜を使っておいしい食事を出す。母もシオモニも喜んでいた。

 5月8日の晩、韓国から電話が入った。ソウルの自称息子(オリンワンジャ)からだった。「週末に電話しようと思ったんだけど、プチョニムオシンナル(お釈迦様の誕生日)で、故郷に戻って、家族で山寺に行ったんだよ。従兄弟の子供を負ぶって山に登ったものだから、疲れて電話できなかった。それで今日、オボイナルまで待って電話したんだ」  

 うれしかった。オボイナルに私を思い出してくれたなんて。  

 「本当のお母さんには電話したの?」と聞くと、「したよ。土曜日にはお小遣いもあげた」と、ボソッと言う。孝行息子だね。お父さんはとっくに亡くなっているということをこの日初めて知った。  

2009/05/09

立ち遅れている韓国の学問世界

 歴史が浅いからなのか、韓国の学問の世界はどう見ても遅れている。遅れているというより、基礎研究が立ち遅れているのだ。高学歴志向の韓国、博士は掃いて捨てるほどいるが、どうも私の周辺の研究者を見ていると、こんなことも知らないのかというほど、基礎的手段を知らないことが多い。  

 うがった見方をすると、学問の仕方を知らずにライセンス取得にばかり血道を上げているという風情だ。晋州で大学院国文学科に在籍していたときも、40前後の遅いスタートを切った人々がライセンス獲得にやけに熱心なことに鼻白むことが多かった。生涯教育ということが言われて久しい日本からみると、韓国の教育は功なり名をとげるための手段の一つに過ぎない。現世的ご利益を重視する儒教文化圏だからそうなんだろうかと、初めのうちは彼我の差を思わずにいられなかった。 

 「その年齢で修士(韓国では碩士「そくさ」という)を取って、どうするのか、碩士を取ったら、博士に進むのか。」「日本に戻ってからどうするのか。韓国語を教えるのか」などと随分質問された。私を除く人々は必死に碩士を取って、博士に進み、あわよくば地方の国立大学で時間講師の一つでもやって、そのうち専任の道も開けるだろうなどと野心満々である。

 私のように動機が不純のまま大学院生をやっている者など一人もいなかった。中学校の国語教師をしながらグレード・アップを目指していた女性が、ある日、「あなた、ライセンスのためでないでしょ。ここで(遊びながら)韓国を観察しているんでしょ?」と言った人が一人いたが、この人さすがに鋭いなあと思ったものだ。教師は人をよく見ているものだね。  学問にも段取りというものがある。日本で博士を取って韓国に帰国し、ようやく就職できた人がいるが、時々メールでびっくりするようなことを頼んでくるのだ。そんなこと、あなた専門家のはずでしょうが。なぜ素人の私に頼むのかと、驚くばかりなのだが、ハタと考えた。彼女は基本的なアプローチを間違っている。まずやるべき手段を知らない。適当な指導教師がいない。ジャーナリストの端くれのような私に随分細々としたこと、それもその専門だったら当然知っていてしかるべきことまで尋ねてくるのだ。日本の学問レベルから言ったら、失格だ。よくその程度で博士号を取れた、いや日本側は上げたねえとため息をついてしまうのだ。 

 インターネットの発達で、碌に勉強しないでも、検索の鬼と化せばほどほどの資料は手にすることができる世の中だ。それでも自分の足で資料を収集し、インタビューを試み、関係機関と連絡を取って研究を進めることには変わりない。そういった基礎的アプローチを学ばないで何が博士だ。ウッキンダ、チョンマル。

2009/05/08

飛ぶ矢は飛んでいない。

 その昔、大学の哲学の講義で老教授が繰り返し言っていたゼノンの「飛ぶ矢は飛んでいない」というパラドックス。結局、この講義で唯一心に残った一節だ。「飛ぶ矢は飛ばない」。「飛んでいる矢」を微視的に観察すると、止まっているというのだ。永遠に目的地に届かないというのだ。わかったようなわからないような話に当時はキョトンとしていた。今ならわかる(ような気がする)。 
 
 死んでしまった者はこの世には生きていないけど、いつまでも私の心の中で生き続ける。生きることはほんの束の間の話に過ぎない。でも、死んでしまったら永遠の生を得る。よく生きることはよく死ぬことだ。  

 二律背反とういうか、パラドックスというべきか、最近、そういうことにハタと行き当たって、ニンマリしたりすることが多くなった。あの老教授はとっくに亡くなってしまったが、そのワンパターンの講義はあながち無駄には終わらなかった。

2009/05/07

釜山 海雲台(ヘウンデ)のブックカフェ・Luca


 4/24(金)。午後から雨になった。私が釜山に行くと、なぜか雨になることが多い。午後1時に金海に到着。ホテルにチェックインして、ヨンミさんに早速連絡。彼女は小学校のベテラン教師だ。まだ授業中なのか電話に出ないので、メッセージを残しておいた。折り返し彼女から電話が入る。久しぶりの釜山サトリを懐かしく聞く。予定通り地下鉄の駅で会う。なんと5年ぶり。彼女、ちっとも変わっていない。家人を紹介してヨンミさんの車で一路海雲台へ。彼女はかなりの方向音痴だ。今回はナビがあるからいいけど、5年前はけっこう慣れない道をあっちこっちと経巡った記憶がある。
  
 写真ギャラリーでヒマラヤ写真展を見る。チベットの少女や赤ん坊の澄み切った瞳が今でも忘れられない。アナログもあるけど、デジタル写真もけっこうあった。専門家の間でもデジタルはなんの抵抗もなく使用されているのだ。一眼レフの高性能デジタルも人気があるしね。
 カフェ・ルカへ。ここで写真評論家のジン・ドンソン氏に紹介してもらう。彼はこのカフェのオーナーであり、韓国各地で行われる写真や美術ビエンナーレの総監督としても活躍しているそうだ。非常に穏やかな人物で、フランスに留学していたらしい。著書も多く、日本の写真界にも造詣が深い。昨年11月にオープンしたばかりのこのカフェをお嬢さんに任せて、急がしい日々を送っている。
 4人で夕食後、再びカフェ・ルカへ。ルカはLucaと書き、LumiererとCafeを合わせた名前だ。雨の音を聞きながら写真の話に花が咲いた。

2009/05/04

旅の醍醐味

 久しぶりに沖縄のTINGARAを聞いている。今年は2月から旅が続いた。沖縄、仙台、大阪、韓国南部地方と、あちこち出かけたが、旅の日程もゆったりしていたし、3月はずっと東京にいたからか、それほど慌しい感じがしない。今月もしばらくはおとなしくしているつもりだ。

  旅から戻ると、旅を思う。旅に出ると、日常を思う。所詮、人生は旅みたいなものだ。韓国の高速バスの窓辺で疾走する風景を身体に感じながら、進行方向に向いた身体ではあっても、心は過去を遡り、また現在に戻り、そしてまた追憶に耽ったりして、そういった行きつ戻りつの贅沢な時間を味わえるのも旅の喜びの一つだ。 

 帰宅すれば、新聞が山のように溜まり、郵便物の処理、メールの削除、写真の整理、ブログの書込みなどを黙々とやるだけだ。私がいない間に起こった事どもはパソコンを開けば、把握できる。デジカメで撮った300枚ほどの写真を整理しながら、過ぎ去った時間に対する愛惜の念が芽生える頃、また次の旅を計画する。

2009/05/02

新型インフルエンザ

 新型インフルエンザについては、疑問だらけだ。なぜメキシコで犠牲者が多いのか。本当にブタが感染源なのか。新型と特定されたわけだから、ウィールスが活躍中であることは確かにしても、死に至る病とは、これいかに。昔からあったよね。スペイン風邪で何十万人も亡くなったとか。風邪といっても侮れない。  

 韓国滞在中にphase 4からphase 5に上がったことは知っていたが、関空に着いて、あら驚いた。入国手続きの職員が全員マスクをしているのだ。金海を出るとき、健康状態に関する書類を余分に書くよう指示されていた。住所、氏名もきちんと書かなければならない。鼻がムズムズするけど、これはミンドルレ(たんぽぽ)の種のせいだ。

 羽田に飛び、帰宅したときには8時半を回っていた。飛行機の乗り換えはさすがに疲れる。でも、今回の新型インフルエンザ騒ぎを見ていると、成田を利用しなくてよかったかもしれない。 

 6月にまたソウルに飛ぶ。それまで騒ぎが鎮静化していればいいけど。この騒ぎで、麻生政権は得したかもね。年金問題も総選挙もすっかりかすんでしまった感じよね。

2009/05/01

韓国南部地方の旅を終えて

 1週間の旅だった。釜山、テグ、光州と慶尚道の2つの都市と、全羅南道の都市を巡る旅は、天気にも恵まれ、知り合いの好意にも甘え、この上なく充実したものになった。4/30、帰国する日はちょうどノムヒョン前大統領が検察の事情聴取のため、故郷の金海市郊外の村からバスに乗せられてソウルに上京する日だった。朝からTV中継され、宿泊していたホテルからさほど離れていない所だったので、なんだか複雑な心境になった。受け取ったらしい金額は、歴代の大統領が得た額に比べれば、桁外れに少ないものだったらしく、ノムヒョンを慕う人でなくとも、こんな額で調べられるなんてひどい話だと感じる人が多いようだ。明らかに現政権の介入が大きい。 

   TV画面に映ったノムヒョンは「面目ない、国民を失望させて申し訳ない」という短いコメントを残してバスに乗り込んだ。ちょうとノムヒョン政権のときに留学していた私としては、本当に残念な気持ちで一杯だ。収賄の事実が出なければいいのにと思う。絶大な権限を握る大統領という職責に就いた者としての責任を問うことより、人権派弁護士として、韓国の民主化に寄与した彼の功績を忘れずにいることの方が大切なのではないかと思うのだが。

 写真は、ホテルの窓から金海空港方面を望んだものである。同じルートをソウルまで何度も行ったり来たりしたものだから、なおのことノムヒョンの上京は心が痛い。