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2010/11/26

You Tube

 最近You Tubeを使って、音楽の検索をすることがよくある。検索欄にNat King Coleと入れれば、往年のSmileも聴けるし、J-Popも懐メロ(80年代のものはこう言われる)も思うままに楽しめる。  

 CarpentersのA Song For YouやRainy days and Mondaysなどカレンの声に会いたければ、昔の動画やスチール写真付の画像が出てくる。彼女のスレンダーな身体から滲み出る低音を聴くと、やっぱりこの人はうまかったなあと今更ながらに思うのだ。

 惜しい人を亡くしたものだ。生きていたとしたら今年60歳だって。残された兄のことを思うと生き続けていくことの大変さを思う。

2010/10/09

アジュモニとのその後

 私が出した手紙がアジュモニの所に着かなかった理由がわかった。アジュモニが書いてきた住所が間違っていたのだ。最初来た手紙に31番地とあったのに、2通目には38番地に変わっていた。郵便番号も記されていなかった。そういえばアジュモニにはそそっかしい所があったっけ。 

 インターネットで郵便番号を調べ、私は2通目を出した。

 1週間後、アジュモニから電話が返ってきた。「住所が違ってたんだね。すまないね。私は恥ずかしいよ」と言って、笑った。ご主人は2008年の7月に亡くなったそうだ。私が13年前に近所に暮らしていた折に、ご主人に対する愚痴をよく聞かされた。精神的に傷つけられることが多かったようだ。それでも長年連れ添った配偶者を亡くしたのだからその心情は計り知れない。 

 「ソウルに来たら、うちに泊まって話をしよう。美味しいものを作ってあげるから」とアジュモニが言う。指折り数えれば、アジュモニも今年77歳になる。早い機会に会いに行きたい。

2010/08/29

ああ、すれ違い

 5月だったか、6月だったか、ソウル時代親しくしていたアジュモニから手紙が来た。長年患っていたアジョシがとうとう亡くなったとのこと。私の電話番号をなくしたので、知らせてほしいとも言ってきた。すぐに返事を書いて出した。 

 待てど暮らせど返事が来ない。アジュモニは当時暮らしていた隣の区に引っ越したので、その電話番号がわからない。 

 今夜、ひょっとしてと思い、以前のアパートに電話してみた。私の声がすぐにはわからず、開口一番「さっき東京から戻ってきたのに」と嘆いた。「返事が来ないから、あんた病気でもしているかと思った。2泊3日の東京旅行に行っても、電話もできなかったなんて、ほんとに残念でしょうがない」 

 アジュモニはまた手紙をくれると言う。電話もしてくれると言う。  

 韓国の知人に手紙を送って到着しなかったのは今回で2回目だ。韓国の郵便事情はよい方だと思うのだが、どうしたことか。2通とも、宛名は道峰区だ。もどかしくじれったいこと、この上ない。誰もが気楽にメールをやるわけでもないのにさ。

2010/08/16

久しぶりの猛暑にクラッとする。

 しばらく32度程度で推移して、風も吹いてくれていたので、昨日からの暑さのぶり返しには閉口するばかり。8月15日というのはいつもいやな感じのする日だったし、今回は閣僚の靖国参拝がなくてほっとしたものの、安倍や小泉の息子など、なあんにもわかっちゃいない輩がシタリガオで靖国に行ったようだ。  

 当時、広島や長崎に原爆を落とされてから1週間近くも一体何をしていたのか。いかにも敗戦受諾の動きが遅い。武道館での戦没者慰霊祭も偽善的なにおいがして、何よりもカラスの集団みたいで暑さがいや増す。 

 65年も経つというのに日本はなぜドイツのように明確なスピーチを海外に向けて発することができないのか。猛暑が曖昧さをくるんでしまって、蝉の声だけがやけにうるさい。ああ一刻も早くシベリアから高気圧が降りてきてほしい。

2010/07/29

久しぶりの28度にほっとする

 「梅雨明け十日」というのは本当だったね。この10日間は連日35度前後の猛暑日。昔の人の言葉には説得力がある。今日は30度を越さない。まさに慈雨だ。熱された大地が幾分かは冷やされればいい。ああほっと一息の慈雨に感謝。

2010/07/20

暑い

 梅雨が明けて、昨日今日と東京は35度を記録。日が落ちても32度近い。最低気温がもう少し低いと楽なのだが、一日中メリハリなく暑い。布団が干せるからまだいいけど、こう暑いと脳は思考停止だね。水分こまめにとって梅雨明け十日を乗り切ろう。でも乗り切る元気なし。わっつい。

2010/07/15

人のふんどしで相撲をとる

 早朝、時計代わりにTVをつけると、新聞記事にやたら線を引いて、それを丸読みしてはなんだかんだと言っている。自称「報道」ワイド番組だ。人が取材したものをそっくり読むだけで番組が成り立つなんて。TV界の人間の質の悪さに今日も音を消す。マスメディアの質の低下は目を覆うばかり。読んでいる人、情けないと思わないのかしら?

2010/06/23

気に入らない言い方

 「~させていただきます」。これがやけに耳につく。単純に「~します」ではいけないんだろうか。やけにへりくだって言うところに「逃げ道」を用意しているのがちらちら見える。もっと堂々と、私はこれをやろうと思うとか、やりますとか言えないのだろうか。参院選が始まれば、もう、いやになるくらいこの物言いが氾濫するに違いない。そんなに自信がないのだろうか。何を恐れているのだろうか。

2010/06/08

マクベスの森

 家の裏手に有名進学校がある。ポプラ並木に覆われているのだが、冬は葉っぱが全部落ちて、校舎の大部分が見える。それが春が過ぎ、あっという間に蒸し暑くなった最近は葉っぱが生い茂り、建物が見えなくなっている。いつの頃からか、我が家では「マクベスの森」と呼ぶようになった。
 
 今日見たら、森が4割がた出来上がって、見るからに頭の良さそうな生徒たちがいるであろう校舎の半分以上が隠れてしまっている。毎年の風景なのだが、今年はやけに未練がましくその光景を見つめてしまうのだ。 

 これで秋が来て、葉が落ち、ポプラの枝が天空に晒される頃には2010年も終わる。2000年が始まったとき、10年後の2010年という年をまったく想定しなかった。そもそも21世紀なんてまだまだ先のことだと思っていた。友人の子供たちはすっかり成長し、親はすっかり老い、家では85歳以上の老親を3人も抱えている。そんな日が来るなんて10年前には考えだにしなかった。 

 聡明な人間なら先のこともきちんと想定して日々を堅実に過ごしていくのであろうに、私ときたら、結局その日暮らしのいい加減さにくるまれている。「マクベスの森」はある意味恐怖の森だ。決して乗り越えることのできない時間という壁が急に胸に襲ってくるので、やりきれない。  

 関東地方もそろそろ梅雨に入るのだろう。

2010/06/06

彼らはどうした?

 4月末、ソウルであったKくんは、会った次の週に会社面接があると言っていた。うまくいったら連絡してねと言っておいたのだが、何も連絡なし。落ちたのかな。昨年9月に大学を卒業し、銀行に入ったものの、あまりに労働時間が長くてこれでは身体がもたないと、やめたとのこと。それからはアルバイトをしながら就職の機会を窺っていた。 

 残業がなくて、少なくとも週1回は休みたい。日本では当たり前のことが韓国ではまだまだそれを実現している人の方が少ない。とにかく世界一労働時間の長い国が韓国なのだ。週40時間労働(週休2日制)なんて夢のまた夢なのだ。だから過労死だって多いし、転職なんて当たり前の世界。

 もう一人Mくん。彼は過労で胃炎になり、しばらく故郷で静養したあと、元の会社に再入社(こんな言葉があるのかよくわからない)した。その後どうしているのか。お釈迦様の誕生日(今年は5月21日)をはさんだ連休も終え、ソウルの会社に復帰したはずなのだが、どうしているのかよくわからない。 

 日本は景気悪いけど、韓国は市場を最初から外国に求めているので、基幹産業は着実に伸びている。だから経済は上向いているのだが、会社単位で見ると、どこも超難関の就職市場となっている。  

 20代のKくんも30代のMくんもまだまだ未来は開けているのだが、世間はそれほど甘くない。気がかりな二人の青年の行方。そのうちわかったらまたここで紹介する。

2010/05/30

明日で5月も終わるね。

 4月は肌寒い日が続いたし、1年ぶりにソウルに行ったし、なんだか落ち着きのない日々だった。5月に入っても天候は安定しなかったし、雑誌の郵送に明け暮れているうちに、もう明後日から6月だ。なんだか早い。というより年々時が速く過ぎていくのかもしれない。 

 久しぶりに会った母は、順調に老け込んでいた。80歳を過ぎると、半年、いや3カ月で体力の衰えが目に見えてはっきりしてくると言う。そうかもしれない。そうかもしれないとすぐに理解できるほどこちらも年を取った。最近87年とか89年生まれの人と知り合う機会があったのだが、なんだか宇宙人のように思える。肌は確かにすべすべだし、余分な脂肪もついていないけど、頭の構造がどうなっているんだか、何を考えているのかおよそ見当がつかない。

 彼らにとっては1年が長いだろう。先のこともあれこれ深刻に考え込んだりしないだろう。自分の20代初めの頃を思い出そうとしても何も思い浮かばないところを見ると、きっと漫然と目前のことだけ考えて暮らしていたように思う。 

 20代よりも80代の方が身近に感じられるということに愕然とする日曜日でした。

2010/05/15

5月2日日曜日 帰国

 6日目のソウルと言っても、今日は早朝に仁川に着いて、ただ成田に戻るだけの日だ。前日、ヒョッチャのご主人から「いくら早起きでも、万が一のことを考えてホテルにモーニングコールを頼んでおいた方がいい」と言われ、夜明けの4時にモーニングコールを頼んだ。

 結局ホテルからのベルがなければ起きられなかったところだ。ソウル6日間の疲れが溜まっていたのだろう。スーツケースは前の晩にふらふらになりながら(オリンワンジャの話を聞くのにくたびれた模様)パッキングしておいた。乾燥防止用の化粧水だけはリュックサックに入れて、つけていた下着も丸めてリュックへ。頭はボーっとなっている。仁川行き始発リムジンは4時50分。7時から有効の朝食券は無駄になるだけ。スーツケースがやけに重たく感じる。買い物はほとんどしなかったし、増えた印刷物は李氏の博士論文ぐらいなのに、重たく感じる。それだけ私が疲れていたということか。 

 空港は7時過ぎから開く店ばかりなので、全体にどんよりと暗く、その中でようやくチェックインを済ます。ただし、化粧水が100ミリリットル以上だから機内持ち込み禁止だと言われ、しかたなくリュックに入れて、リュックごと預けた。これがまずかった。 

 リュックの外側ポケットには成田に着いてすぐに使えるようにとチェーン付の財布を入れておいた。大金はショルダーバッグの封筒に入れておいたが、リュックの財布には、パスモ、デパートのカード、数千円が入っていたと思う。 

 成田に着いて、手荷物を受け取り、すごい速さでリムジンバスの受付に走る。箱崎行きはあと2分で出るというので、その便にしたものの、なんとリュックのポケットにあるはずの財布がないではないか。やられたと思った。急いでショルダーの中の封筒をまさぐって一万円札を出し、事なきを得た。同じポケットの奥に入っていたショッキングピンクの小銭入れはそのまま無事だった。自販機で緑茶を買うことができた。

 手荷物受け取り所に戻ったところで財布が見つかるとも思えない。仁川でやられた可能性もある。成田の可能性はうすい。わざわざチェーンを外して財布を抜き取り飛行機に乗せたんだろうなあ。大金が入ってなくてよかったし、デパートのカードがインターナショナルではないものだったので、これまたよかった。帰りにデパートに寄り、紛失届けを出すつもりだ。 

 化粧水の容器は100ミリリットル以下にしよう。財布は預けてはいけない。勉強になりました。 

 P.S. 携帯の写真で仁川で1枚、成田に着いてリムジンで1枚セルフ写真を撮ったのだが、表情がまるで違うのには我ながら驚いた。前者は緊張に満ちた顔、後者は晴れやかな顔をしているのだ。財布を盗まれたにもかかわらず、これ以上ないという喜びに満ちているのだ。1年ぶりに一人でソウルを訪れ、無意識のうちに顔を硬直させながらソウル市内を経巡っていたに違いない。本人は楽しい気分のつもりでも実際の顔は緊張でこわばっていたのだ。

2010/05/14

5月1日土曜日 3)

 オリンワンジャは、チャンシキさんに2度ほど会っている。1度は2008年の年末に私たち夫婦と会って、いっしょにサムギョプサルを食べたことがある。2度目は翌年の春、オリンワンジャが出張で大田に行ったとき、チャンシキさんを呼び出してお昼をご馳走したことがあるとチャンシキさんから聞いていた。それほど社交的ではないのに大田で再会した話を聞いて、意外な感じがした。  

 今回もチャンシキさんと朝から会うという話を電話ですると、「それじゃ、お昼を3人で食べるのもいいんじゃないかな」と言ったのである。にもかかわらず、彼は午前中に登場しなかった。前日に晋州からバスでソウル入りしたことは知っているし、何よりも彼は元来時間にルーズな方なので、たぶん午後になってからでないとソウル駅に現れないだろうと踏んでいた。 

 思ったとおり、姿勢の悪い歩き方でソウル駅の1階にある現代百貨店のロビーにやってきた。昨年6月に会ったときより太った感じだ。それを言うと、「顔だけ太ったんです」とブスッとした表情で答えた。唇に吹き出物も出来ていて、身体の調子が悪いのが一目でわかる。チャンシキさんとも軽く挨拶を交わしただけ。「とにかくお昼をたべなきゃね」私たちは先ほど食べた韓式レストランに彼を連れて行った。ピピンパプをすごい速さで食べていく。「おいしかった?」と聞くと、「まずい」のひと言。

 さてそれからはチャンシキさんが日本語学校の先生に本を頼まれていたというので永豊文庫に向かう。天気もいいし、日を浴びながら3人で歩いていった。チャンシキさんはその間じゅう日本語で私に話しかける。私も始めのうちは日本語で答えていたけど、日本語をまったく解さないオリンワンジャがかわいそうなので、日本語の問いかけに韓国語で対応することにした。それでもオリンワンジャのご機嫌は麗しくならない。困ったもんだ。 

 永豊文庫でチャンシキさんが本を探している間に私たちは地下のカフェで待つことにした。オリンワンジャと二人きりになったところで、開口一番「彼女はいつまで僕たちにくっついてくるのか」と言った。「えっ、だってお昼を3人で食べようと言ったのは君じゃないの。最初は彼女とは朝食だけ付き合うことにして、午後の時間は君のために空けておいたのよ。なのに連絡もないし。そもそも晋州にいたから今回はソウルにやってこないかもしれないと思ってたのよ。昨日、こちらからたまたま電話したら、『今、晋州からソウルに向かっているバスの中です』と言うじゃない。私はてっきり晋州で引き続き休養するのかと思ったわよ。連絡を密にしないから、一体何を考えてどうしようとしているのかわからないじゃないの」  

 文句を言っても始まらないので、彼の希望通りチャンシキさんが戻ってきてから私ははっきり言った。「実はオリンワンジャが相談事があって、この後は二人きりになりたいと言っているの。申し訳ないけど、ここで別れましょう」 

 チャンシキさんは、「いいですよ。元々朝食だけでもご一緒できればいいと思っていたんですもの。お昼まで一緒にいられてよかったです」私は彼女のスナップ写真を1枚撮ったが、その表情はちょっと無理して笑っているように見えた。  

 で、結局午後2時半から夜9時半までオリンワンジャと付き合う事になった。彼は仕事の件、身体の不調、近い将来のことなどいろいろと考えていることをしゃべった。寡黙な技術者の彼が将来のことも考えて営業部門の勉強もするつもりだと言ったのが心に引っ掛かる。今年の7月で入社丸4年になる外資系会社も今は一時退職して静養休暇を取っている。来週再入社して営業畑で修業することはもちろん社長も承知している。ただ、この社長が今ひとつヒューマンではないのが気になる。英語ぺらぺらで、韓国支社を立ち上げた実力者には違いないのだが、人徳がないようで、いつまで経っても彼の右腕となる社員を育てることができないようだ。彼自身に魅力がないようにも思える。 

 「夏休みはがまんして貯めておいて、10月になったら母さん(私のこと)のところに行くから」 

 そんなことよりも胃腸と肝臓の調子を何とかしなきゃね。こちらとしては快癒を祈るばかりだ。

2010/05/13

5月1日土曜日 2)

 ソウル駅を知らないタクシーの運転手さんはいないから、チャンシキさんが言うには、来るときの半額で駅に着いた。ソウルも東京と同じで、どのタクシーにもナビゲイターがついているが、迷うときは迷うのだ。  

 11時着のKTXに乗っている崔先生に電話を入れてみる。どうも眠っていたらしく、いつになく力のない声に驚く。しばらくして彼から電話が入り、今約束のカフェに向かっているところだと言う。彼とも約1年ぶり。いつもニコニコとした人当たりのいい雰囲気はそのままだが、開口一番「乗り物に乗るとすぐに寝てしまうんですよ」と先ほどの不機嫌な声について釈明した。パンソリを専門にしている20代後半の女性を連れている。崔先生にはいつも連れの女性がいる。会うたびに違う女性である。いつだったか、故郷が同じ尚州(サンジュ)だとういうソウル在住の有閑マダムと登場したときにはちょっと呆れてしまった。この女性、ゴルフマニアらしく、サングラスに、胸が深く空いたブラウス姿で、女の私でも思わず胸の谷間を覗き込んでしまったことを思い出す。崔先生の人脈の広さには驚くばかりだった。 
 
 パンソリの女性は、やはりソウルで約束した女性の大学の先生とこのカフェで落ち合っていた。しばらくぶりだったらしく抱き合って再会を喜んでいた。その先生は中国の朝鮮族出身の人で、ソウルで大学に就職したらしい。私が晋州で時々声を掛け合っていた朝鮮族の博士課程の人になんとなく面立ちが似ていた。それはきっと化粧っ気のない素朴な雰囲気がするからかもしれない。ソウルの女性は化粧が濃いものね。 

 カフェで少しおしゃべりをした後、総勢5人で早めの昼食をとる。崔先生の驕りだ。なんだか申し訳ない気がした。私は出来たての雑誌10部を先生に渡した。写真を見て即興で詩を書いてもらうページを担当してもらったのだが、デザインの関係で写真が泣き別れになってしまい、先生は「これはちょっとなあ」とご機嫌ななめ。「私のせいではなく、今回のデザインを担当したT氏に文句言って下さい」と言うと、「もう忘れました。いいです。」とちょっとおどけた後で「うちに戻って見たら、また腹が立つような気がする」と小さな声で言った。  

 12時半から始まるセミナーの会場はソウル駅からタクシーですぐらしい。彼らは食後時機に向かい、私はまたチャンシキさんと二人きりになった。本当はオリンワンジャが来ることになっていて、昼食も一緒にするはずだったのに。何度か電話を入れると、「今、バスで向かっています」と答えたきり、一向に姿を現さない。(つづく)

2010/05/12

5月1日 快晴の土曜日 1)

 大田(テジョン)からKTXに乗ってソウルまで1時間くらい。今朝は私と朝食を食べるということで作春会って以来、約1年ぶりにチャンシキさん(ニックネーム)がやって来る。8時過ぎに今ソウル駅ですと電話があったので、地下鉄はやめてタクシーでオフィステルまで来るように言った。麻浦警察署(マボキョンチャルソ)を目印に、オフィステルの電話番号も教えた。運転手さんと相談しながら来るだろう。  

 「今オフィステルのロビーです」私は急いで食券を2枚持って、9階から降りて行った。昨年より少しやせた感じだ。春らしいピンクの花柄模様のワンピースにジーンズのジャケットを羽織っている。日本語能力試験も、あれ以来、2級、そして1級まで取って、その不断の努力には驚くばかりだった。 

 ホットサンドイッチとコーヒーを飲みながら、彼女はずっと日本語をしゃべっている。昨年に比べると格段の進歩が見られる。今は銀行の契約行員をしながら、早朝も日本語レッスン、銀行が終わった後もまた日本語レッスンに励んでいると聞いて、大いに感心する。  

 「1級の試験が思ったより成績がよくなかったので」とのこと。少しでもブラッシュアップしたいという意欲に満ちている。学院の担当教師も「日本に留学したらどうか」と勧めるらしい。私もそれに関して何度か相談メールをもらっている。要は留学して日本語を磨くのか、あるいは日本語を使って何か専門の勉強を始めるのか。私は1カ月くらいの語学短期留学を勧めてみた。 

 語学はある程度マスターしたら、その先、何をするかが問題になる。翻訳・通訳の専門家になるための勉強をするのか、あるいは日本の大学で歴史や現代文学を学ぶのか。彼女はまだその具体的なことを想定しているというわけではなさそうだ。今のところは単に日本語を駆使するのが楽しくてしかたないという印象を受けた。 

 朝食後、オフィステルの部屋に連れて行って、少し話をし、またソウル駅へ。11時に知り合いと待ち合わせているのだ。そのことはあらかじめ言ってあったので、ソウル駅から来て再びソウル駅に行くことも彼女は厭わなかった。「給料日を指折り数えるよりも」私に会う日を指折り数えていたと言われ、少々照れてしまった。さてタクシーに乗ってソウル駅に行ったが…(つづく)

2010/05/10

4月30日金曜日

 昨日で著作権に関する問題があらかた片付いたというか、残部100部に関して正誤表を入れるのを頼める雰囲気ではなかったので、あの韓国語版は韓国語版としてあれで終わりにしようと思った。
 知的所有権に関する意識がまだまだ低く、今はその加害者が中国に移っているようだが、10年前から多少権利意識が出てきたとはいえ、市場やミレルオーレなどの小売店が集まったところに行くと、いまだに日本の雑誌に掲載された有名ブランドのバッグや財布の偽物が堂々と売られているのだから何をかいわんだ。

 今日と明日の土曜日は緊張も解けて久しぶりの人々に会う日に当てられてうれしい。お昼は雑誌7号までの表紙を担当してくれたAくんに会いにホンデーイック(弘益大学入り口)のLomo Shopへ行った。相変わらず軽いノリの好青年だが、最近失恋したばかりでかなり傷ついた模様。

 お昼をご馳走するからと1時頃店を出て、適当な食堂に入る。そこでハルモニプルコギ定食をご馳走した。日本語がすっかり上手になっていたので、韓国語しゃべったり、日本語で会話したりした。

 「ずいぶん流暢になったね。元々語学の才能があるのかもしれないわね。フランス語だってできるし」と言うと、「フランス語は全部で十ぐらいしか知らない」と謙遜した。失恋ですっかりやせてしまったが、少しずつ本来の明るさを取り戻してたくましくなってほしい。

 夕食はW夫妻と大学路で。トルソッパプの定食をご馳走した。東京に5年も滞在し、ご主人は東京大学で博士の学位をとった。夫人は韓国に戻ってから博士論文の準備中だが、久しぶりの韓国の学界に少々疲れを覚えているようだ。彼女はいつ会っても高校生みたいに若々しい。舅と姑の世話をしながら、娘も育てている。Wくんが早く正式に就職できるようになればいいのにと思う。

 食後のコーヒーは1956年から続いているカフェへ。天井が低いが、70年代を思い出させるような雰囲気でソウル市内で50年以上も続いているカフェは珍しく、こちらまで懐かしい気分になった。もっともW夫妻は70年代が始まる頃に生まれたのだ。年齢のことなど考えずに和気藹々とした関係がもてるのはいい。

 ちょっと前まで「東大門運動場」という駅が最近「東大門歴史文化公園」という駅名に変更した。
トンデムンウンドンジャンで5号線に乗り換えることが多かったので、長い名前の新しい駅名はどうもなじめない。

 彼らと別れて、明日5月1日に会うことになっている人々のことを考えながら、いつものように9時過ぎのニュースを聞きながらベッドに入った。

2010/05/05

快晴の江南(カンナム)そして出版稼業の難しさについて

 オフィステルに9時過ぎに着く。金くんとは11時くらいに会って、江南午後1時のアポイントメントに合わせて彼の車で行くことになっていたが、2時間近くも早く着いたので、彼に電話してみる。 

 金くんは元々私の本の読者で2008年に初めて会ったのだが、およそ韓国人らしい雰囲気がほとんど感じられない好青年だった。日本のどこにでもいる性格の良さそうな人だ。約束時間もきちんと守るし、メールを出せば、やはりきちんとした返事をくれる。当たり前のようなものだが、韓国では珍しいタイプに見える。 

 「今、出かける準備をしていますので、できるだけ早く伺います」とのこと。友人宅で歓待されたので、その分けっこう疲れていたし、日本語ができる人が一人もいなかったので久しぶりに話す韓国語もちょっとモタモタした。でも時間が経つにつれて相手に合わせて早口で対応できるようになったのには自分でも驚いた。なまじ日本語が一切通用しない環境の方が覚悟と諦めがついて韓国語の世界にすんなり入っていけるのかもしれない。

 鮮やかな青いネクタイに紺系統のスーツに身を包んだ金くんが現れた。へやースタイルも短く刈り込んでいて何よりもそのネクタイがよく似合っていた。私にとっては息子のような存在だが、実際にこんな息子がいたら頼もしく思うだろうなあと思った。  

 運転振りは慎重で、車庫入れも上手だった。ローファームの近所で軽く昼食を済ませ、いよいよ弁護士事務所(ローファーム)のビルへ乗り込んだ。約束時間通り相手の弁護士さんが登場。彼は私の友人のJ氏の大学の後輩に当たる。とても感じのいい方で、分厚い法律の本を手に、著作権関係のページをあれこれ見ては、適切な説明とメモまでして下さった。金くんがいてくれたおかげで専門用語もすんなり通じた。大体の話が終わったので、お礼を言って部屋を出た。エレベーターまで見送って下さった。 

 昼下がりの江南は人も車も多く、久しぶりだったからか、以前より高層ビルディングがかなり増えているように見えた。歩いている人々も江北とはちょっと違った雰囲気でエリートたちも多いのだろう、私の知り合いにはいないタイプに思えた。

 午後4時、出版社の社長現れる。10年前に私と契約書を交わした社長は昨年亡くなられたとのこと。7人兄弟の一番上が前社長で、現社長は末の妹さんだった。子供服製造の仕事を20年も続けてきたキャリアウーマンで、顔はやはり前社長に似ていた。昨年から債務整理に追われ、慣れない出版業界で頼りになる職員もいない中、ほぼ孤軍奮闘してきたらしい。 

 前社長は本を売ることよりも、本を作ることが好きだったみたいで、28年間の出版業の間になんと680冊以上の本を作ったとのこと。680冊という数字を聞いて私は気絶しそうになった。出版界は慢性の不況が続いている。インターネットでも手軽に本が読めるようになった時代に、彼はコツコツと本を作っていったのだ。在庫も相当なもので、田舎の別荘に大きな倉庫を作ってそのまま置いているそうだ。売れなければ断裁するのが出版界の常だが、本を愛するあまり1冊も断裁せずに28年間抱え込んできたという印象を受けた。営業部員が一人もいなく、インターネット上にサイトを持っているのでインターネット決済でビジネスを細々と続けてきたという感じだ。子供服の妹にしてみれば、唖然とするばかりだっただろう。  

 ところで10年前に1000部出した私の本は900冊まで売れたそうだ。思いの外売れていたので少々驚いたが、今となっては誤訳の多いものが900冊も世に出たことに複雑な思いがする。作者の良心としては、残りの100冊に対して修正表を差し込んでほしいところだが、今更そんなことを頼む相手でもないし、あの本は原書(日本語)がけっこう売れたので、韓国の研究者は、韓国版よりも原書を手に入れて参考にしているという話も聞いた。 

 今や遅しという感もあるが、韓国でも口述筆記の大切さが叫ばれ、多くの民俗学関係者(歴史専門家というより)が口述筆記のために日本と韓国を行ったり来たりするようになった。あと20年早かったら充実したものになったのになあと私なぞは思うが、全然やらないよりはいい。若手研究者に期待するしかない。

2010/05/04

ソウル5泊5日

 昨日、ソウルから戻ってきた。帰る日が仁川発朝8時の飛行機だったので、その日は4時起きでホテルにもモーニングコールを頼んでおいた。朝型人間と言っても、さすがに外国で数日を過ごすと早起きが困難になる。毎朝大体7時過ぎまで起きられなかった。

 外国語を駆使して弁護士さんに会ったり、出版社の新米社長に会ったりと、人見知りする性質(たち)ではなくとも、無意識に神経を遣っているらしく、オフィステルに戻ると、ぐったりする。今回は幸い、同行してくれる83年生まれの若者がいたので、オフィステルから江南のローファームに行くときもオフィステルに戻るときも彼が運転してくれる車に気楽に乗っていればよかった。どれほど助かったか知れない。しかも彼は昨年の秋、法科を卒業しているので、法律の知識もある。目下求職中だが、来週には望んでいる会社の面接があるとのこと。どうか無事合格しますように。 

 27日の火曜日にソウルに到着した日とその翌日は冷たい雨が降り、気分も少し停滞気味だったが、29日に友人宅からオフィステルに移動する日は、朝から快晴で、オフィステルまで車で送って下さった友人のご主人と、今のソウルや韓国の経済の話や、高齢者に対する福祉政策のことなどいろいろと話すことができてうれしかった。 

 29日以降についてはまたの機会に書く。

2010/04/22

またも氷雨、そしてタマラ・ド・レンピッカ

 「奢れる者は久しからず」シリーズもちょっと飽きてきちゃって、まだ外務省、防衛省などを残したままになっているが、今はちょっと遠ざかりたい心境。この粘りのなさが私の最大の難点であることは誰よりも自分でわかっている。  

 渋谷の文化村ミュージアムで5月9日までやっているタマラ・ド・レンピッカ展を覗いてきた。グリーンのドレスに身を包んだ本人の肖像になんか魅力を感じたのよね。あのグリーンがよかったのか、彼女の豊満な肉体がよかったのか。彼女は1898年、ロシアに生まれ、後にアメリカに亡命して1980年に亡くなった。彼女の遺志によりその遺灰は火山の上に撒かれたらしい。どこの火山で誰に託したのか忘れてしまったが、そんなことより亡くなった後まで自分の身の振り方を指示して死んでいったということに私は惹きつけられる。 

 結婚も2度ぐらいしたようだし、娘も一人産んでいるみたい。数え切れないほどの肖像画を頼まれ、彼女特有の筆裁きでなかなかいい味を出している。 

 写真の時代を迎えてからは彼女自身が写真のモデルとしてよく登場するようになる。自分が一番美人だと思っていたんだろうなあと、独特のポーズと焦点不明のやるせない視線にこれまた釘付けになったのだ。  

 結婚、同棲と多くの男性との暮らしがあったようだが、アールデコのワンピース姿の彼女からは生活感というものがまるで感じられない。たぶん、相手の男性は料理好きだったのではないかと思える。そして娘だ。 

 この娘が生きているとして80代だ。どこでどうしているのか、愛憎相半ばだったであろうはずの母に対してどういう思いを抱いて年老いていったのか。とても興味がある。タマラ自身も娘との時間を過ごすよりは、娘をモデルにした絵画の時間をより好んだそうだ。まあ、自分勝手な者だよね、芸術家って。でもあこがれるな。

2010/02/24

奢れる者は久しからず その①

 これは2010年2月24日に公開したブログです。

 私は運転免許を持っていない。夫も持っていない。友人たちの間でも珍しい存在と言われている。大概どちらか一方が持っているか、夫婦で2台も車がある輩もいて、びっくりしたりする。

 したがってマイカーなどという実に面倒なものがないおかげで、駐車の手間もいらない。公共の乗り物に乗るか、テクテク歩くだけである。田舎暮らしや、地方の僻地でもあるまいに、都心に暮らしてどうして必要なのか理解に苦しむ。

 時々、幹線道路を有閑マダムと思しき女性やヤング・ママ(古いね。この表現)が外車や大型国産車にたった一人で乗って運転してるのを見かける。どこへ行くのか知らないけれど、あっけにとられて、私は信号をただ待つのみである。外車はとんでもない大きさ。たまに暴力団のボスかもしれない怖いその手のおっさんが2名か3名ぐらいで乗っているのをバスの中から見かけることもあるが、先のマダム、たった一人で、ガソリンを消耗してCo2を排出し、優雅に走り去るのである。エッセイストの佐藤愛子だったら、怒りの一撃でもくれてやるところじゃないかと私は心中、ひとりほくそえむ。

 (最近の佐藤愛子も85歳は過ぎたから、とんとそのエッセイを読んでないが、50代過ぎた頃のものを読むと、毎日社会に対して怒っているのだ。そのエネルギーたるや、すごい迫力なんだけど、30年前の50代はやけにお婆さんみたいなのでびっくり。最近の50代は若いよね。榊原郁恵も50をとうに越したのだ。相変わらずキュートだ。ほんと、タレントは若い。

 話が横に逸れた。トヨタの話だ。
 リコール問題で今喚問されている社長の態度。どう見ても「奢れる者は久しからず」という『平家物語』の一節を思い出してしまう。

 愛知県の豊田市。「企業城下町」としてずいぶん羽振りのよい時代が続いていたのに、「下請けイジメ」ではかなり有名な企業だったよね、トヨタ

 最近の派遣切り、求職難、大卒、高卒の就職氷河期(私のときもそう言われていたっけ、その昔)。一体この30年で氷河期が何回あったことか。いつも今が最低の時期とマスコミは騒ぐ。常套句なのか、マス・メディアのボキャブラリーが貧弱、貧相なのか。とにかく知恵がないよね。インテリを気取るジャーナリストさんたち! もっと本を読んでお勉強してほしい。そこの若者、インターネットでアダルト・サイトばかり見ていないで、ちょっとは読書に励みなさいな!(だんだんプチ佐藤愛子になってくる)。

 いっそのこと、技術大国の日本で部品をぜ~んぶ作って、USAに持って行き、現地で組み立てればいいのに、などと単純に私などは思うのだが、USAは部品の90%を米国内で作ることを法律上、日本に強制しているのである。現地法人の社長も対応が遅いことこの上ない。かなりアホな面構えだった。大量のアメリカ人失業者が出る州では沈黙しているか、日和見状態で静かにしている。ずるいね、USA!って。

 足の短い日本人と、180センチなぞざらにいる米国とでは、アクセルやブレーキまでの長さ一つとっても違うじゃないの? リコールされるトヨタトヨタだが、米国のわがままにも腹が立つ。ヨーロッパでもリコールが上がっている。もしかして倒産したりして。まさかね。でもJALの株が一枚1円になって会社更生法,つい最近のことだしなあ。

 最近傑作川柳に、

  株主は折鶴折るしかない株券
(TBSラジオ、荒川強啓の月~金帯ワイドニュースの時間に設けられた川柳最高賞)
註:鶴はJALのトレードマーク。

というのがある。最近ロゴを変えて失敗したんじゃないの? どう見たって、鶴のマークに日の丸の大赤字だよ。

 天下のトヨタ。ここぞとばかりのUSAのGM(日本で言えば、日本政府+JALみたいな関係)が漁夫の利を得たりなんかして……。

 「下請けイジメ」のトヨタ、車だけはもちろん武器まで造って密かに輸出する日産。どういうルートなのか皆目わからない。こういうのを「死の商人」って言うんだよね。技術で定評のあるあのホンダでさえ、リコールを受け始めているという話。ああ何をか況や。

 資源のない日本がこの先、生き残っていくには、高い技術力(High Quality)と信頼性(After Care)しかなかったのにね。

 景気の二番底が叫ばれ、あんなに大騒ぎした半世紀ぶりの政権交替も、政治家と金の問題で自民党55年体制と一体どこがどう違うのか、私には皆目わからない。自民党を支持してきた人々に聞きたいところだが(寡聞にして周囲にいない)、ようやく先進国並みに2大政権時代が幕を開け、本当の意味での民主主義がいよいよ始まるのではないかと多少わくわくしてみたりしたんだけど、ね。

 まあもう少し10年くらいは様子を見ないと。野党も与党も育たないよ、こんな中途半端じゃ。野党というものが育たない国だね。

 共産党だけがこれみよがしに正論を吐いてインテリ面して自己防衛に終始している。まさか自民党一党独占時代に戻って(あるいは自公で仲良く政教分離をごまかそうとしても)、私ゃ、ちっとも面白くないくそまじめの日本、特に東京なんかに暮らし続けたくない。かといって急に農作業するほど知識もない。どうするか。亡命か移民か。

 夏の参院選、どうなるか。長い目で見るか、またゼネコンと組んだ昔の田中角栄の「日本列島改造論」(=自然破壊=改悪化)の下、経済右肩上がりを望むのか。
 いずれにしても日本人の民度がひたすら問われるだろう。


 明日はJALについて、「奢れる者は久しからず その②」を書こうかなと思う。ああ、エネルギー切れ。

2010/01/14

ハイチの大地震

 カリブ海に浮かぶハイチで大地震が起きて、犠牲者の数が10万人以上との報道を耳にした。

 今度の日曜日。阪神淡路大震災から15年を迎える。15年経っても人々の傷は癒えないだろうと想像する。 

 今年に入ってから残虐な犯罪が毎日のように起こり、思わずTVを消してしまう。TVのコメンテーターっていう人々、正直言っていらないと思う。新聞の記事をネタにどこの局もほとんど同じ話題で大騒ぎ。 

 今年は自分の目で見て、耳で確かめることがどのくらいできるだろうかと自問してみた。何よりも自分なりに考えてみるということ、忘れたくない。

2010/01/12

漂流してきたアザラシの赤ちゃん

 北極から大寒気団が降りてきて、北半球は大部分凍りついている。 
  
 昨日のラジオでの話。アザラシの赤ちゃんが流氷に乗って千葉県の南房総に漂着したという。北海道あたりではよくある話らしいが、随分はるか南方までたどり着いたものだ。生後数カ月らしい。  
 
 アナウンサーが「お母さんから離れてかわいそうに」と言うと、このアザラシを預かっている鴨川シーワールドの人がこう言った。「アザラシは生後1カ月で親離れするんです。その点は問題ないんですが、かなり衰弱しているのでしばらくうちで預かって、獣医さんの診断を仰いでから、放流(海に戻す)するか、シーワールドで育てるか決めることになっています」とのこと。

  生後1カ月で親離れするというのに驚いた。人間の親子関係を考えるとなんともたくましくもさっぱりした関係だ。子供も中高年になると、老いた親を哀れんだり、疎ましく思ったりすることがある。親の方は子供がいくつになっても愛情を注ぐというのに。つくづく人間は厄介な存在だと思った。

2010/01/05

1月5日火曜日

 1/1が金曜日だったから、今年の三が日は韓国でもちょうど三連休となった。旧暦で正月を祝う習慣が根強く残っているから、いつもだと1/1だけ休んでその翌日から出勤するのでヨーロッパの新年と同じような雰囲気だと思えばいい。年末年始の長い休みもない。これは日本特有のものだね。 

 昨日ソウルは41年ぶりの大雪に見舞われた。20数センチも積もり、交通は麻痺。ナルリガナンダ(大騒ぎになる)。仕事にならなかった人もいたらしい。雪の翌朝は道がピンパンキル(氷板)と化し、私も危なっかしい足取りでく歩いたことなど思い出した。

 韓国の知人から「昨年よりももっと深刻な社会状況になる」とメールをもらう。日本もそんな感じだ。派遣村の人々の群れ、超就職難の高卒、大卒者…。  あんまり希望が持てないなあ。ちなみに韓国の旧正月の休みは今年、2月13日から15日の3日間だ。