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2009/03/13

スパイの存在。

 TVに映る金賢姫と拉致被害者対面の様子を見ながら、いろいろと考えるところがあった。

 金賢姫という人物も、考えてみれば実に数奇な運命の持ち主だ。休戦状態にある韓国と北朝鮮との緊張関係を嫌というほど思い出させてくれる。1987年に151名もの韓国人乗客を爆死させた実行犯が、死刑にもならずに韓国で生きて来た、いや、生きて来させられたと言った方がいいかもしれないが、とにかく、個人の意思とは関係なく、国家の意思で生かされてきたわけだ。

 工作員とか、スパイなんて、冷戦時代の映画や、ナチス関係の映画に出てくる、スリルとサスペンスの申し子以外の何者でもなかった。ナチ抵抗運動での、緊張を強いられるスパイ活動、007の痛快な物語などで見たり聞いたりしてきたとしても、それはあくまで自分とは直接関係のない「お話」や過ぎ去ってしまった歴史上の存在に過ぎなかった。

 南北分断という現在進行形にある韓国人にすれば、工作員、スパイ、間諜は驚くほど身近な存在なのだ。12年前に私たちがソウルに滞在していたときも、ソウル大学のある有名な教授が、実は北から送り込まれていた工作員だと判明したという事件があって、知り合いの韓国人がかなりショックを受けていた。

 教育というものは恐ろしい。1999年に映画「シュリ」が大ヒットして、韓国で初めて北の工作員の日常生活が明らかにされるまで、韓国人の多くは「北の人間には角が生えている」「北の人間は人間の形をしているが、本当の人間ではない」などということがまことしやかに信じられてきたそうだ。だから「シュリ」は、韓国ではかなりエポックメイキングな映画になったという。

 「北の人間も同じ人間だったんだ。自分たちと同じように恋もするし、悩みもする。何だ、角なんか生えていないじゃないか」、こういった反応が当時韓国で爆発的な大ヒットを記録する背景にあったという。日本でもほぼ同時期にヒットしたが、それは噂に聞いていた南北の対立の裏舞台が映画化されたからであって、韓国で人々がこんな反応をしていたなんて想像もしなかった。

 「角が生えている」と言えば、韓国での反日教育も似たようなものだったらしい。「自分たちが大陸から伝えた文化の恩恵を受けているくせに、日本人はその恩を仇で返した、鬼のような存在だ。同じ人間とは思えない」、こういったふうなステレオタイプの日本人像を小さいときから植え付けられていた世代が実際にあったのだ。そしてこの事実がそれほど昔の話ではないということに驚くのだ。

 「生まれた時代が悪いのか、それとも俺が悪いのか」という70年代に流行った歌の一節ではないけれど、いつの時代に生まれたかということがその人の人生を大きく左右するということは確かにある。インターネットの普及で、国境などとうに消えてしまった現代に生きていることのありがたみを思わざるを得ない。

 子供の数が減ったのに、ちっとも余裕の感じられない昨今の教育界だが、爆弾で死ぬ恐怖にも見舞われず、軍隊に行く必要もなく、生きて行かれる日本人の子供たちはとりあえず幸せだと言わざるを得ない。引きこもりや、自殺が増えているし、子供たちの目を見ても、ちっとも生き生きしていない様子を電車などで見かけるけど、命の保障をしてもらって、十分な教育を受けさせてもらっているのだから、それ以上を望むのは贅沢というものだ。

 ただし、管理教育の中でどこまでその子独自の自発性や独創性が発揮できるかは、別の問題である。

2009/03/11

あなたは何型?

  人間にもアナログ型とデジタル型があるような気がする。デジタル型は二進法で展開する。ある意味、単純なのだが、実は融通性が要求される。一方、アナログ型はあらゆる現象に柔軟に対処するべくその受け皿は複雑怪奇にならざるを得ない。

 早い話が、私はデジタル型の人間だ。構造は単純なのだが、思考に融通性がある。0 or 1の2つに一つの選択をほとんど何も考えずにパッパッと処理していける。間違えたら、また元に戻って、やり直せばいいだけの話だ。試行錯誤型の人間にはうってつけのタイプだと言えるかもしれない。マニュアルの類を読むのが好きでない。目の前の現象をtrial and errorで何とか処理していく。哲学用語で言えば、演繹法ではなく、帰納法だ。まず一般論があるのではなく、「個々の特殊な事柄から一般的原理や法則を導き出す」と言うことだ。

 だから、書店に並ぶHow to 物にほとんど関心が持てない。あくまで「私」という観点から出発して、あちこち衝突しながら自分なりにマスターしていくというのが好きだ。これは能力の問題ではなくて、好き嫌いの問題なのだと思う。

 家人は私とは対照的に演繹派である。コンピューター一つとっても、ソフトをやたら買い揃えて、ああだこうだと機械と格闘している。私から見ると、ご苦労様の一言だ。材料をきっちり揃えて料理するというやり方に私は親しめない。

 ましてやMacはハードとソフトが一体化され、一つの世界がすでに構築されているものだ。これにWindows方式を当てはめようとするのは、土台無理がある。寄せ集めのソフトにメーカー各社が作ったハードを対応させて稼働する従来のやり方がMacに当てはまる訳がない。

 もちろん基本は押さえておく。でもその後はMacに寄り添って素直に展開していけばいいのだ。どうも家人のやり方は気に入らない。当分いざこざが続くような気がする。まあ、そのプロセスを楽しめがいいのだ。

2009/03/08

明日からパソコンが変わる。

 2000年から始めたパソコンはWindows一点張りだったが、明日からいよいよMacの世界だ。キーボードやマウスの使い方が微妙に違うらしいし、ソフトも一体となったマッキントッシュの世界、楽しみでもある。長い間使っていたOutlookとも Explorerともお別れだ。 

 グラフィック分野に比重が置かれているので、今後、写真の処理なども楽しめる。Macに切り替えた理由の一つにWindowsのソフトがそっくりインストールできるようになったということも大きい。Macを使い込めるようになるまで、時間を要するだろうが、次元の異なったインターネットの世界を楽しみたいと思う。

2009/03/05

Seoul 1997 その2

 あの当時、携帯もパソコンもなかった。その代わりにあったのが、BB(ビッピー)。今、BBのこと覚えている人がいるだろうか。呼び出しベルのことだ。小さな画面に相手の電話番号が表示され、街を歩いていてこれが鳴ると、急いで公衆電話ボックスに入り、暗証番号を押して、先方のメッセージを確認したり、先方に直接電話をかけたりしていた。持ち歩きの留守番電話と言ったらわかりやすいだろうか。グリーン色のマッチ箱ぐらいのBBを腰に下げて、私はソウルの街を歩き回ったものだ。 

 4月に撮った写真がどういうわけか、黄ばんで見える。ペンタックスのフィルムカメラで距離も絞りも勘案しながら撮影したのに、どういうことか。決して安くないレンズがとうとうイカレタのかとがっくりきた。そのうち、原因は黄砂にあるということに気がついた。中国から黄砂が直接やってくる。黄色い煙が舞い上がり、ケナリの真っ黄色もかすんでしまうほどだ。 

 今、私の必須アイテムになってしまった、ノートブックパソコン、デジタルカメラ、携帯電話、この3つが一切なくても、それなりに生活を楽しんでいた自分がいた。しょっちゅう連絡を取り合わなくても、友人関係は良好だったし、撮影したフィルムを預けて、それが出来上がるまでの時間を楽しんだし、ブログやメールがなくても、日記や手紙があった。日本までの航空便は今よりずっと時間がかかり、急ぎの用事はFaxでやり取りもした。 
 
 軽い気持ちでキーボードを打つ代わりに、ボールペンと修正液で書いた手紙をどれだけたくさん出したか知れない。計り知れない数の写真を撮ったが、フィルム1本に納得のいく写真が数枚あればいい方だった。失敗すれば、簡単に削除できるようになった分、写真1枚の重みがなくなった。  

 手間暇かけていくということから遠ざかってしまったことを思うと、12年という歳月の中で失ってしまったものが何だったのかと考えないわけにいかない。いずれにしても言えることは、筆まめな人は、筆まめだし、筆不精の人は手段が簡易化されても、筆不精のままだということだ。

2009/03/04

閑話休題、タイミングの話。

 タイミング。自分にとってタイミングのいい人と悪い人っているよね。これはもう、縁がある人、ない人と言ってもいいんじゃないかと最近思うのだ。タイミングの悪い人は、驚くほど悪い。いい人は感心するほどいい。タイミングの悪い人は知らず知らずのうちに削除の対象になっていく。

 削除。随分残酷な響きだ。でも人生の半分以上をとっくに過ぎた私としては、削除せざるを得ない。新しい出会いが次から次へと訪れるからだ。新陳代謝していくしかない。 

 メールを出して、1週間以上も梨のつぶての人って、よくいるよね。でも、手書きの手紙でさえ、出した翌日には着く世の中、電信メールの有効期限は20分だと、アメリカのビジネスマンなら言うだろう。アメリカ式はオーバーだとしても、何のためのメールなんだろう、急いで返事が欲しいから、メールにするんでしょうが。「打てば響け」の感覚で言えば、すぐに響かなきゃアウトだね。  

  メールにモタモタしている人は、実はほかのことでもモタモタしている。メールの賞味期限は最大限譲って、3日だと私は思う。それだけ現代人は気が短くなっているのかもしれない。

 メールの返事がまともにできないのなら、パソコンに向かう必要はない。パソコンに向かう時間があるなら、メールにまともに対処せよと言いたい。調子狂うんだよね。こっちが出したのも忘れた頃に、来る返事。飛脚の時代でもあるまいに。  

  ということで、時間間隔の違いから縁遠くなっていった人は数知れない。それでもタイミングの妙にいい人はいるもので、削除したとたんに私の画面に登場したりして、苦笑するしかない。  

2009/03/03

1997 Seoul その1

 そうなのだ。12年前の4月、私たちはほとんど知り合いのいない韓国という国の首都に降り立った。もちろん保証人の先生はいたが、彼は友だちでもなんでもないし、家人が1,2度会っただけの人だった(今では全く音信不通)。海外赴任のサポートなんてものは一切なかった。ガイドブックの類も一切ない。会社勤めでなかったから、組織ぐるみの背景やサポートもあるはずがない。ないから自分たちで解決していくしかなかった。 

 韓国語がほとんどできないという、今思うとぞっとするような条件の下、子供が言葉を一つ一つ覚えていくように、見知らぬ国の見知らぬ生活習慣に慣れていくしかなかった。12年前はやはり若かった。怖いもの知らずだった。 

 アルファベットならまだ推測がついた。漢字ならすぐに想像できた。でもあのヘンテコリンなハングルの渦の中、ドライ・アイになりながら、時間をかけて、あちこちの掲示板や表示板の文字を解読していくしかなかった。 

 水も違う。電圧も違う。見た目は似ていても、風俗習慣、初めて眼にするもの、耳にするものばかりで、最初の1カ月がものすごく長かった。1カ月経って、日常生活のリズムがつき始めた頃、私は夜、大声で泣いた。ようやくここまで漕ぎ着けた喜びと、誰もこの苦労をわかってくれないだろうというほんの少しの絶望感がないまぜになったような気分だった。  その頃のことを思い出すと、もう前世の出来事のように思える。何代か前の世代が仕出かしてくれた歴史の遺産は重くのしかかってくるし、厄介な国に来てしまったなあという思いと、それにもかかわらず韓国人の情の深さに触れて、このままこの国に永住してもいいかも、などと家人と話したものだ。それほど私たちは韓国に魅了された。言葉を換えて言えば、母国日本に嫌気がさしていたと言った方がわかりやすいだろうか。 

 韓流などという言葉が出てくるなんて夢にも思わなかったあの年の春は、黄砂とともに過ぎていった。折りしも、あのノストラダムスの大予言が取り沙汰された1997年のことだった。

この12年。


 昨日はつかの間の晴れ間だった。風が冷たいのに、光が妙に明るすぎて「春は名のみの風の寒さよ」という歌の通りだなあと思った。春の不安定な陽気がどうしても好きになれない。かと言って、安定した気圧を望むと、それはすなわち太平洋高気圧の天下だ。苦手な夏が来ることは、まだ考えないようにしている。

 今週はずっと天気が悪い。今日の午後には雪が降るという。沖縄の陽光を浴び、仙台の雪雲を見上げ、東京に戻ると、ずーっと寒く暗い天候が続いている。こんなときはたまった紙類の処分をしよう。BGMはやはり沖縄音楽だ。気分だけでも南の島。

 ふいに思い出す時がある。ソウル滞在時代お世話になったアパートの警備員のアジョシのことだ。彼らとは当時会って以来、会うこともなくなった。どこかで生きているだろうとは思うが、この経済恐慌の中、どこでどうしているだろう。 

 友人や知り合いとは携帯やメールアドレスがあるからいつでも接触できる。でも彼らとは連絡の手段もない。実は毎日の生活で彼らほど世話になった人たちはいないのだ。言葉も碌にできなかった私たちに本当によくしてもらったという思いしかない。 

 あれから12年の歳月が流れた。言葉も随分通じるようになったし、読み書きも格段に進歩した。今、彼らと会って話ができたらどんなにいいだろう。安東の方言が強いアジョシの言うことも、江原道訛りが残ったアジョシの言葉も全部聞き取って、こちらの言いたいことも全部言えただろうに。 安東アジョシの息子はまだ音楽をやっているだろうか。江原道アジョシの子供たちはみんな独立したんだろうなあ。もしかしたら、孫だってできたかもしれない。 

 この12年は私にとって、疾風怒濤の12年だったと言ってもいいだろう。初めての外国生活、韓国語との格闘、雑誌の発行、留学生活、祖母、叔父、父の死。12年の間に得たものと、失ったものは思いの外大きい。これからの12年がどうなるか皆目検討がつかない。でも、引き続き、私は韓国と関わっていくだろうと思う。情熱を注げる対象を中年になって得たこと、一体誰に感謝したらいいだろう。