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2009/02/20

人工授精。

 自分の子供が欲しいというのは、生物学的に見て、当然の欲求だろう。人によっては「あなたの子供を産みたい」とか、「君の子供が欲しい」などと言ったり、思ったりするのだろう。 

 遺伝子というのは、基本的に利己的遺伝子の複製のために存在する。子供と親は別の人格だと主張しても、やはり自分の子供は自分以外の何者でもない(と、想像する)。  

 すべての親は、親バカである。もちろん例外は存在するけど、それは表現力の差であって、自分の子供を殺めてしまう親にとっても、子供は自分と一体視してしまう存在なのだ。生物の本質が自己複製だとするなら、自己愛のない人は存在しない。 

 男性の力がどんどん萎えてきているそうだ。精子も脆弱になり、このまま行くと男性は滅んでいくとか。人類は滅びの方向へ向かっているのだ。その方が地球の環境のためにはいいかもしれない。人類発生以来、どれほど地球が傷ついたことか。その地球だって限りがある。人類が滅びるか、地球が瓦解するか、どちらが先か。

 滅びの美学からすると、人工受精というのは、神をも恐れぬ不遜な行為に思えてしかたない。無神論の立場から見ても、この世には説明のできない、人智を超えた何者かが存在するように思えるのだが、生命という、神聖であらゆる不思議の連続の賜物を、人工的に操るといのはどうしてもいただけない。  

 不妊に悩む女性は多い。このストレス社会だもの、順調に妊娠できずに絶望する人もあるだろう。でも生命はやっぱり授かり物という感じがする。動物だってそうだ。人工授精、人の手が加えられた牛や馬の誕生は、どう見ても、則を越えているという気がする。狂牛病だって、不遜な人間が作り出してしまったようなものだ。 

 人工授精によって生まれた子供の追跡調査がどうなっているのかよく知らないが、排卵誘発剤など、その副作用はすぐには現われなくても、何代か後に出現する恐れだって考えられる。そういうことをすべて覚悟した上で、女性は子供を産むのだろうか。それほどやむにやまれない要求なのだろうか。私は密かに心配している。  

 先日、新聞に載っていた14人(8人+六つ子)の人工授精児の母親の写真、ちょっとぞっとしてしまったのだ。

2009/02/19

어린 왕자 M君

 楽天のブログでたびたび登場していたM君。今年の7月で就職して丸3年を迎える。ソウルに行くたびに会うのだが、私はなぜか彼の動向が気になる。元気に働いているだろうか、社長によくしてもらっているだろうか、ガールフレンドは出来ただろうか。時折送られてくるM君のメールや、私の韓国語のブログの安否掲示板に残った彼のコメントに一喜一憂したりしている。 

 沖縄に出かけている間にM君から安否掲示板に連絡があった。

 「携帯にも自宅にも電話したけど、応答なし。すぐに電話下さい」とある。携帯に着信記録はない。国際電話カードの番号もメモして出かけなかった。しょうがないので、「身体の具合でも悪いのか、帰宅したら、連絡するけど」と彼のブログの安否掲示板にメモを残した。 

 実は1月末に、M君から珍しく長いメールをもらっていた。「呼吸しても苦しい。左わき腹を下にして横になると、痛くて眠れない。声も思うように出ない。近所の内科に行ったが、どこも異常なし。ソルラルで実家に戻ったとき、行きつけの病院で検査を受けたが、やはり異常なし。今は少し落ち着いてきたけど、この先どうなるかわからない。状態が悪くなれば、連絡も思うようにできないから、メールを送りました」。 

 私は非常に驚いたが、検査の結果に異常がなかったのだからひとまず安心した。ストレスから来るものだろうか、いずれにしろもう少しきちんと検査して、少しよくなったら連絡するようにと返事した。 

 M君は、肋骨を折っていたのだ。手術も無事済み、2日後には退院できるというときに安否掲示板にメモを残したのだった。肋骨骨折だったなんて、そりゃー痛かっただろう。それにしてももっと早い時期にX線撮影でわからなかったのだろうか。 

 今心配しているのは、彼の勤務のことだ。手術を受けるときの社長の態度があまりにもひどかった、人間味に欠けていた、だから僕はすごいショックを受けている、転職する。7月を待って、どこかよそに移るというのだ。この不況下に、3年も勤め上げた会社を辞めて行く所があるのだろうか。  

 韓国の労働現場は、はっきり言って前近代的だ。労働組合がある会社は限られている。労働者の権利よりも経済発展最優先で今まで突っ走ってきた。一流企業とされているサムソンには労働組合もないし、その人間性を抑圧したような会社組織は皆の知るところである。 

 韓国には、M君が勤めているような零細企業が多く、そのほとんどは従業員というより、社長の下僕のような扱いでこき使う。残業手当も有給休暇も、ない。年俸制だが、この3年間昇給の話はなかったそうだ。  

 100年に一度の世界恐慌の今、経済発展、景気回復云々よりももっと大切なことを振り返る時期なのではないか。危機はチャンスだと、いろいろ工夫している企業も出てきた。停滞の中で生き延びる方法はいくらでもあるのではないか。コンピューターの発達で、人員削減はこの先も続くだろう。コンピューターにできないことは、たくさん残されている。闇雲に数字だけを追いかけるのはもういい加減にやめにしたらどうだろう。 

 ということでM君の近い未来をじっと見守るしかない。私は優等生やエリートよりも、M君のように非力で要領が悪いが、感性の鋭いところがある人間に魅力を感じる。어린 왕자 頑張れ。

2009/02/17

閉店した永東汗蒸幕(チムジルバン)





 久しぶりに「ソウルナビ」を覗いてみた。ソウルについてのあれこれ、最新情報も含めてけっこう充実した情報を提供してくれる老舗のサイトだ。ホテルやオフィステルの宿泊予約を時々利用することがある。旅で一番値の張る宿泊費をあらかじめ支払って出発できるので、けっこう重宝している。もちろんソウルナビ価格で安い。宿泊先と、直接電話で交渉しようとしたら、ソウルナビを通さないとダメだと言われたほど、このサイトの影響力は大きいのだ。
 

 円高ウォン安で、サイトは相変わらずの活気である。卒業シーズンを控えて各種エステや汗蒸幕の案内も一昔に比べたら随分盛り沢山になってきた。12年前に友人から紹介を受けて時々通っていた江南の永東汗蒸幕(ヨンドン・ハンジュンマク)、あれどうなったんだろうと検索してみたら、ソウルナビのサイトからは見つけられなかった。

 そこは、汗蒸幕の草分け的存在で、日本人にも人気があった。多くのリピーターで賑わっていた頃を知っている私としては、腑に落ちない。ネイバーの検索にかけたら、なんと、2007年に閉店したと出た。とうとう閉店したのね。  

  12年前当時も、IMF金融危機で韓国経済はどん底だった。ウォン安を狙って、外国からの観光客が殺到し、特に日本からは、韓流のその前を行く韓国パイオニアのアガシやアジュモニたちが大挙してソウルに来ていた頃だった。  

   永東汗蒸幕は女性専用でまだ新しく、その清潔さが日本人好みで、よもぎ蒸し、人参湯、フェイス・マッサージ、全身マッサージetc. と、ストレスの溜まったOLたちにとっては極上の癒し施設だった。でも、当時から経営者が何人も代わったり、従業員や、垢すりのアジュモニたちとの間に金銭トラブルが絶えなくて、ここもいつまで持つだろうと、密かに案じていた。  

   でもとにかく、2007年まで続いたんだね。後続の汗蒸幕もソウルのあちこちに誕生したようだが、永東汗蒸幕の閉店は、韓国フリークにとって、一つの時代の終焉を意味するような気がしてならない。当時、韓国ドラマなど一つも知らなかった女性たちが、汗蒸幕を通して、なまの韓国に出会ったわけだ。挨拶程度の韓国語だけで、裸の付き合いをしたようなものだ。それから12年。韓国と、韓国フリークの変貌ぶりには眼を見張るものがある。 

 今では韓国ドラマに接して、本格的に韓国語を学ぶ人が増え、サブカルチャーからアカデミズムまで、韓国に遊学、留学する日本人の数は想像をはるかに超えた。愚かな政治家の一言より、映画やTVドラマの影響がいかに強いかということだ。 

 飛行機でたった2時間ちょっとの隣国は、そうは言っても、「近くて遠い国」ということには変わりはない。

沖縄で撮った写真(順不同)

         糸満市にて

         ハイビスカス(沖縄ワールドにて)



         移設された民家(沖縄ワールドにて)

            首里城 裏門


            博物館に行く道


         沖縄県立博物館


         首里城 守礼門


         沖縄そば店

         福州園         


         那覇市国際通り

2009/02/15

燃ゆる陽 by Tingara            

燃ゆる陽            作詞作曲/米盛つぐみ

燃ゆる陽 異国の風を揺らし
流れは 遥かに 時を変える

南洋 挑む古の民
遠洋 長く果てなくても

幾度も幾度も 寄せては返す
それでもそれでも 夢を見る

燃ゆる陽 旅立つ船を照らし
願いは 遥かな みるやかなや
燃ゆる陽 雲間に 光の路
天まで 遥かに 愛を放つ

斜陽 家路急ぐ群れ鳥
陰陽 深い記憶の底

幾度も幾度も 寄せては返す
それでもそれでも 恋をする

燃ゆる陽 すべての胸に宿る
思いは 遥かな みるやかなや

 沖縄ミュージックグループ Tingaraは、ボーカリスト 米盛つぐみと、 三線 演奏者イシジマ ヒデオのデュオ。沖縄のSENSだと言えばわかりやすいだろうか。1998年に誕生。インディーズ(独立系、自主販売)系のミュージシャンは沖縄に溢れるほどいる。全国展開している沖縄出身の歌手も多い。キロロなどはその代表格だろう。沖縄方言(琉球語)が入った歌は、心地よく、なんとなく意味もわかる。そのメロディーは、沖縄の音階に沿ったもので、叙情的でやはり心地いい。

 沖縄にはこのほかにも琉球Under Groundなどインディーズ系のグループが多い。沖縄はインディーズの宝庫である。

みるやかなや=未来の 原鄕。 神が住む所、あるいは先祖が暮らす所。


2009/02/13

琉球王国といってもねぇ~。

 沖縄盛衰の歴史を目の当たりにして、いろいろ考えることが多い。中継貿易で栄えたということは、あっちの物をこっちへ、こっちの物をあっちへ中継して商売したということで、琉球の特産物を育ててきたということではない。サトウキビ、沖縄の塩...などと思い浮かべながら、今の沖縄は、結局、観光でしか食っていかれないのかと思うのだ。 

 中国(当時の明)にも薩摩藩にも忠誠を誓い、過酷な台風シーズンに耐えながら、航海し続けた海の男たちと、その帰りをひたすら待っていた女たちの物語を想像すると、琉球王国という王国の限界を感じる。そして、なぜ王族は、もう少し知恵を働かせて生き延びる術を生み出すことができなかったのか、朝貢、つまり捧げ物に神経を遣い過ぎて、琉球庶民のことまでちゃんと考えていなかったのではないか、あるいはそんな余裕すらなかったのかと考え込んでしまう。 

 沖縄ワールドで見た、紅型(びんがた)、ガラス細工、シーサーの焼き物、黒糖などは、特産物にしてはパワーがなく、紅型(染物)、織物などは当時、王族たちの着物に使われることはあっても、手工業として発達するほどの規模ではなかった。 

 明治以降、突然、日本の一つの県にされてからは、沖縄のアイデンティティーはいよいよ薄まり、沖縄色を捨てて、ヤマトンチュー(大和=日本)に同化していくことに力が注がれていった。そうしなければ、生き延びられなかったのかもしれないが、なんとかならなかったのかなあ。 

 で、結局、日本の犠牲になって、唯一の地上戦の舞台となり、20万人の人が戦死する。戦後は27年間に及ぶUSAの支配だ。1972年に本土復帰となるが、それ以降37年、沖縄は南の島の観光地として何とか生きているという感じがどうしてもしてしまう。

2009/02/12

寒い東京。

 2/11、5泊6日の旅を終えて、東京に戻ってきたのだが、寒い。8℃ぐらいまでしか上がらないと沖縄で聞いていたが、約1週間、亜熱帯気候に身を晒していたから、身体がすっかり亜熱帯性に変貌してしまったのだろうか。東京の冬の寒さがこれほど身に染みるとは。

 東京の冬は湿度が下がるといっても、ソウルに比べれば、高い。12月にソウルに行ったとき、ちょうどその日の羽田は20℃という異常気温だった。ソウルはマイナス7℃。その差27℃だ。それなのに思ったほど寒く感じなかった。冬は、湿度が高いほど、寒く感じる。夏は湿度が高いほど、暑く感じるけど、冬は湿度が低いほど、寒さは和らぐのかもしれない。 

 カラッとした寒さと、じめっとした寒さ。どちらが肌にこたえるかと言えば、じめっとした寒さの方が身に染みる。おまけに日本にはオンドルがない。東京は零下まで下がらなくても、思いの外寒いのだ。

 前回、沖縄バスのことを書いたが、バス会社の名前が違っていたかもしれない。那覇バス、琉球バスがあることを帰る日になって、気がついた。9日月曜日のことは追って書くことにする。