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2010/05/30

明日で5月も終わるね。

 4月は肌寒い日が続いたし、1年ぶりにソウルに行ったし、なんだか落ち着きのない日々だった。5月に入っても天候は安定しなかったし、雑誌の郵送に明け暮れているうちに、もう明後日から6月だ。なんだか早い。というより年々時が速く過ぎていくのかもしれない。 

 久しぶりに会った母は、順調に老け込んでいた。80歳を過ぎると、半年、いや3カ月で体力の衰えが目に見えてはっきりしてくると言う。そうかもしれない。そうかもしれないとすぐに理解できるほどこちらも年を取った。最近87年とか89年生まれの人と知り合う機会があったのだが、なんだか宇宙人のように思える。肌は確かにすべすべだし、余分な脂肪もついていないけど、頭の構造がどうなっているんだか、何を考えているのかおよそ見当がつかない。

 彼らにとっては1年が長いだろう。先のこともあれこれ深刻に考え込んだりしないだろう。自分の20代初めの頃を思い出そうとしても何も思い浮かばないところを見ると、きっと漫然と目前のことだけ考えて暮らしていたように思う。 

 20代よりも80代の方が身近に感じられるということに愕然とする日曜日でした。

2010/05/15

5月2日日曜日 帰国

 6日目のソウルと言っても、今日は早朝に仁川に着いて、ただ成田に戻るだけの日だ。前日、ヒョッチャのご主人から「いくら早起きでも、万が一のことを考えてホテルにモーニングコールを頼んでおいた方がいい」と言われ、夜明けの4時にモーニングコールを頼んだ。

 結局ホテルからのベルがなければ起きられなかったところだ。ソウル6日間の疲れが溜まっていたのだろう。スーツケースは前の晩にふらふらになりながら(オリンワンジャの話を聞くのにくたびれた模様)パッキングしておいた。乾燥防止用の化粧水だけはリュックサックに入れて、つけていた下着も丸めてリュックへ。頭はボーっとなっている。仁川行き始発リムジンは4時50分。7時から有効の朝食券は無駄になるだけ。スーツケースがやけに重たく感じる。買い物はほとんどしなかったし、増えた印刷物は李氏の博士論文ぐらいなのに、重たく感じる。それだけ私が疲れていたということか。 

 空港は7時過ぎから開く店ばかりなので、全体にどんよりと暗く、その中でようやくチェックインを済ます。ただし、化粧水が100ミリリットル以上だから機内持ち込み禁止だと言われ、しかたなくリュックに入れて、リュックごと預けた。これがまずかった。 

 リュックの外側ポケットには成田に着いてすぐに使えるようにとチェーン付の財布を入れておいた。大金はショルダーバッグの封筒に入れておいたが、リュックの財布には、パスモ、デパートのカード、数千円が入っていたと思う。 

 成田に着いて、手荷物を受け取り、すごい速さでリムジンバスの受付に走る。箱崎行きはあと2分で出るというので、その便にしたものの、なんとリュックのポケットにあるはずの財布がないではないか。やられたと思った。急いでショルダーの中の封筒をまさぐって一万円札を出し、事なきを得た。同じポケットの奥に入っていたショッキングピンクの小銭入れはそのまま無事だった。自販機で緑茶を買うことができた。

 手荷物受け取り所に戻ったところで財布が見つかるとも思えない。仁川でやられた可能性もある。成田の可能性はうすい。わざわざチェーンを外して財布を抜き取り飛行機に乗せたんだろうなあ。大金が入ってなくてよかったし、デパートのカードがインターナショナルではないものだったので、これまたよかった。帰りにデパートに寄り、紛失届けを出すつもりだ。 

 化粧水の容器は100ミリリットル以下にしよう。財布は預けてはいけない。勉強になりました。 

 P.S. 携帯の写真で仁川で1枚、成田に着いてリムジンで1枚セルフ写真を撮ったのだが、表情がまるで違うのには我ながら驚いた。前者は緊張に満ちた顔、後者は晴れやかな顔をしているのだ。財布を盗まれたにもかかわらず、これ以上ないという喜びに満ちているのだ。1年ぶりに一人でソウルを訪れ、無意識のうちに顔を硬直させながらソウル市内を経巡っていたに違いない。本人は楽しい気分のつもりでも実際の顔は緊張でこわばっていたのだ。

2010/05/14

5月1日土曜日 3)

 オリンワンジャは、チャンシキさんに2度ほど会っている。1度は2008年の年末に私たち夫婦と会って、いっしょにサムギョプサルを食べたことがある。2度目は翌年の春、オリンワンジャが出張で大田に行ったとき、チャンシキさんを呼び出してお昼をご馳走したことがあるとチャンシキさんから聞いていた。それほど社交的ではないのに大田で再会した話を聞いて、意外な感じがした。  

 今回もチャンシキさんと朝から会うという話を電話ですると、「それじゃ、お昼を3人で食べるのもいいんじゃないかな」と言ったのである。にもかかわらず、彼は午前中に登場しなかった。前日に晋州からバスでソウル入りしたことは知っているし、何よりも彼は元来時間にルーズな方なので、たぶん午後になってからでないとソウル駅に現れないだろうと踏んでいた。 

 思ったとおり、姿勢の悪い歩き方でソウル駅の1階にある現代百貨店のロビーにやってきた。昨年6月に会ったときより太った感じだ。それを言うと、「顔だけ太ったんです」とブスッとした表情で答えた。唇に吹き出物も出来ていて、身体の調子が悪いのが一目でわかる。チャンシキさんとも軽く挨拶を交わしただけ。「とにかくお昼をたべなきゃね」私たちは先ほど食べた韓式レストランに彼を連れて行った。ピピンパプをすごい速さで食べていく。「おいしかった?」と聞くと、「まずい」のひと言。

 さてそれからはチャンシキさんが日本語学校の先生に本を頼まれていたというので永豊文庫に向かう。天気もいいし、日を浴びながら3人で歩いていった。チャンシキさんはその間じゅう日本語で私に話しかける。私も始めのうちは日本語で答えていたけど、日本語をまったく解さないオリンワンジャがかわいそうなので、日本語の問いかけに韓国語で対応することにした。それでもオリンワンジャのご機嫌は麗しくならない。困ったもんだ。 

 永豊文庫でチャンシキさんが本を探している間に私たちは地下のカフェで待つことにした。オリンワンジャと二人きりになったところで、開口一番「彼女はいつまで僕たちにくっついてくるのか」と言った。「えっ、だってお昼を3人で食べようと言ったのは君じゃないの。最初は彼女とは朝食だけ付き合うことにして、午後の時間は君のために空けておいたのよ。なのに連絡もないし。そもそも晋州にいたから今回はソウルにやってこないかもしれないと思ってたのよ。昨日、こちらからたまたま電話したら、『今、晋州からソウルに向かっているバスの中です』と言うじゃない。私はてっきり晋州で引き続き休養するのかと思ったわよ。連絡を密にしないから、一体何を考えてどうしようとしているのかわからないじゃないの」  

 文句を言っても始まらないので、彼の希望通りチャンシキさんが戻ってきてから私ははっきり言った。「実はオリンワンジャが相談事があって、この後は二人きりになりたいと言っているの。申し訳ないけど、ここで別れましょう」 

 チャンシキさんは、「いいですよ。元々朝食だけでもご一緒できればいいと思っていたんですもの。お昼まで一緒にいられてよかったです」私は彼女のスナップ写真を1枚撮ったが、その表情はちょっと無理して笑っているように見えた。  

 で、結局午後2時半から夜9時半までオリンワンジャと付き合う事になった。彼は仕事の件、身体の不調、近い将来のことなどいろいろと考えていることをしゃべった。寡黙な技術者の彼が将来のことも考えて営業部門の勉強もするつもりだと言ったのが心に引っ掛かる。今年の7月で入社丸4年になる外資系会社も今は一時退職して静養休暇を取っている。来週再入社して営業畑で修業することはもちろん社長も承知している。ただ、この社長が今ひとつヒューマンではないのが気になる。英語ぺらぺらで、韓国支社を立ち上げた実力者には違いないのだが、人徳がないようで、いつまで経っても彼の右腕となる社員を育てることができないようだ。彼自身に魅力がないようにも思える。 

 「夏休みはがまんして貯めておいて、10月になったら母さん(私のこと)のところに行くから」 

 そんなことよりも胃腸と肝臓の調子を何とかしなきゃね。こちらとしては快癒を祈るばかりだ。

2010/05/13

5月1日土曜日 2)

 ソウル駅を知らないタクシーの運転手さんはいないから、チャンシキさんが言うには、来るときの半額で駅に着いた。ソウルも東京と同じで、どのタクシーにもナビゲイターがついているが、迷うときは迷うのだ。  

 11時着のKTXに乗っている崔先生に電話を入れてみる。どうも眠っていたらしく、いつになく力のない声に驚く。しばらくして彼から電話が入り、今約束のカフェに向かっているところだと言う。彼とも約1年ぶり。いつもニコニコとした人当たりのいい雰囲気はそのままだが、開口一番「乗り物に乗るとすぐに寝てしまうんですよ」と先ほどの不機嫌な声について釈明した。パンソリを専門にしている20代後半の女性を連れている。崔先生にはいつも連れの女性がいる。会うたびに違う女性である。いつだったか、故郷が同じ尚州(サンジュ)だとういうソウル在住の有閑マダムと登場したときにはちょっと呆れてしまった。この女性、ゴルフマニアらしく、サングラスに、胸が深く空いたブラウス姿で、女の私でも思わず胸の谷間を覗き込んでしまったことを思い出す。崔先生の人脈の広さには驚くばかりだった。 
 
 パンソリの女性は、やはりソウルで約束した女性の大学の先生とこのカフェで落ち合っていた。しばらくぶりだったらしく抱き合って再会を喜んでいた。その先生は中国の朝鮮族出身の人で、ソウルで大学に就職したらしい。私が晋州で時々声を掛け合っていた朝鮮族の博士課程の人になんとなく面立ちが似ていた。それはきっと化粧っ気のない素朴な雰囲気がするからかもしれない。ソウルの女性は化粧が濃いものね。 

 カフェで少しおしゃべりをした後、総勢5人で早めの昼食をとる。崔先生の驕りだ。なんだか申し訳ない気がした。私は出来たての雑誌10部を先生に渡した。写真を見て即興で詩を書いてもらうページを担当してもらったのだが、デザインの関係で写真が泣き別れになってしまい、先生は「これはちょっとなあ」とご機嫌ななめ。「私のせいではなく、今回のデザインを担当したT氏に文句言って下さい」と言うと、「もう忘れました。いいです。」とちょっとおどけた後で「うちに戻って見たら、また腹が立つような気がする」と小さな声で言った。  

 12時半から始まるセミナーの会場はソウル駅からタクシーですぐらしい。彼らは食後時機に向かい、私はまたチャンシキさんと二人きりになった。本当はオリンワンジャが来ることになっていて、昼食も一緒にするはずだったのに。何度か電話を入れると、「今、バスで向かっています」と答えたきり、一向に姿を現さない。(つづく)

2010/05/12

5月1日 快晴の土曜日 1)

 大田(テジョン)からKTXに乗ってソウルまで1時間くらい。今朝は私と朝食を食べるということで作春会って以来、約1年ぶりにチャンシキさん(ニックネーム)がやって来る。8時過ぎに今ソウル駅ですと電話があったので、地下鉄はやめてタクシーでオフィステルまで来るように言った。麻浦警察署(マボキョンチャルソ)を目印に、オフィステルの電話番号も教えた。運転手さんと相談しながら来るだろう。  

 「今オフィステルのロビーです」私は急いで食券を2枚持って、9階から降りて行った。昨年より少しやせた感じだ。春らしいピンクの花柄模様のワンピースにジーンズのジャケットを羽織っている。日本語能力試験も、あれ以来、2級、そして1級まで取って、その不断の努力には驚くばかりだった。 

 ホットサンドイッチとコーヒーを飲みながら、彼女はずっと日本語をしゃべっている。昨年に比べると格段の進歩が見られる。今は銀行の契約行員をしながら、早朝も日本語レッスン、銀行が終わった後もまた日本語レッスンに励んでいると聞いて、大いに感心する。  

 「1級の試験が思ったより成績がよくなかったので」とのこと。少しでもブラッシュアップしたいという意欲に満ちている。学院の担当教師も「日本に留学したらどうか」と勧めるらしい。私もそれに関して何度か相談メールをもらっている。要は留学して日本語を磨くのか、あるいは日本語を使って何か専門の勉強を始めるのか。私は1カ月くらいの語学短期留学を勧めてみた。 

 語学はある程度マスターしたら、その先、何をするかが問題になる。翻訳・通訳の専門家になるための勉強をするのか、あるいは日本の大学で歴史や現代文学を学ぶのか。彼女はまだその具体的なことを想定しているというわけではなさそうだ。今のところは単に日本語を駆使するのが楽しくてしかたないという印象を受けた。 

 朝食後、オフィステルの部屋に連れて行って、少し話をし、またソウル駅へ。11時に知り合いと待ち合わせているのだ。そのことはあらかじめ言ってあったので、ソウル駅から来て再びソウル駅に行くことも彼女は厭わなかった。「給料日を指折り数えるよりも」私に会う日を指折り数えていたと言われ、少々照れてしまった。さてタクシーに乗ってソウル駅に行ったが…(つづく)

2010/05/10

4月30日金曜日

 昨日で著作権に関する問題があらかた片付いたというか、残部100部に関して正誤表を入れるのを頼める雰囲気ではなかったので、あの韓国語版は韓国語版としてあれで終わりにしようと思った。
 知的所有権に関する意識がまだまだ低く、今はその加害者が中国に移っているようだが、10年前から多少権利意識が出てきたとはいえ、市場やミレルオーレなどの小売店が集まったところに行くと、いまだに日本の雑誌に掲載された有名ブランドのバッグや財布の偽物が堂々と売られているのだから何をかいわんだ。

 今日と明日の土曜日は緊張も解けて久しぶりの人々に会う日に当てられてうれしい。お昼は雑誌7号までの表紙を担当してくれたAくんに会いにホンデーイック(弘益大学入り口)のLomo Shopへ行った。相変わらず軽いノリの好青年だが、最近失恋したばかりでかなり傷ついた模様。

 お昼をご馳走するからと1時頃店を出て、適当な食堂に入る。そこでハルモニプルコギ定食をご馳走した。日本語がすっかり上手になっていたので、韓国語しゃべったり、日本語で会話したりした。

 「ずいぶん流暢になったね。元々語学の才能があるのかもしれないわね。フランス語だってできるし」と言うと、「フランス語は全部で十ぐらいしか知らない」と謙遜した。失恋ですっかりやせてしまったが、少しずつ本来の明るさを取り戻してたくましくなってほしい。

 夕食はW夫妻と大学路で。トルソッパプの定食をご馳走した。東京に5年も滞在し、ご主人は東京大学で博士の学位をとった。夫人は韓国に戻ってから博士論文の準備中だが、久しぶりの韓国の学界に少々疲れを覚えているようだ。彼女はいつ会っても高校生みたいに若々しい。舅と姑の世話をしながら、娘も育てている。Wくんが早く正式に就職できるようになればいいのにと思う。

 食後のコーヒーは1956年から続いているカフェへ。天井が低いが、70年代を思い出させるような雰囲気でソウル市内で50年以上も続いているカフェは珍しく、こちらまで懐かしい気分になった。もっともW夫妻は70年代が始まる頃に生まれたのだ。年齢のことなど考えずに和気藹々とした関係がもてるのはいい。

 ちょっと前まで「東大門運動場」という駅が最近「東大門歴史文化公園」という駅名に変更した。
トンデムンウンドンジャンで5号線に乗り換えることが多かったので、長い名前の新しい駅名はどうもなじめない。

 彼らと別れて、明日5月1日に会うことになっている人々のことを考えながら、いつものように9時過ぎのニュースを聞きながらベッドに入った。

2010/05/05

快晴の江南(カンナム)そして出版稼業の難しさについて

 オフィステルに9時過ぎに着く。金くんとは11時くらいに会って、江南午後1時のアポイントメントに合わせて彼の車で行くことになっていたが、2時間近くも早く着いたので、彼に電話してみる。 

 金くんは元々私の本の読者で2008年に初めて会ったのだが、およそ韓国人らしい雰囲気がほとんど感じられない好青年だった。日本のどこにでもいる性格の良さそうな人だ。約束時間もきちんと守るし、メールを出せば、やはりきちんとした返事をくれる。当たり前のようなものだが、韓国では珍しいタイプに見える。 

 「今、出かける準備をしていますので、できるだけ早く伺います」とのこと。友人宅で歓待されたので、その分けっこう疲れていたし、日本語ができる人が一人もいなかったので久しぶりに話す韓国語もちょっとモタモタした。でも時間が経つにつれて相手に合わせて早口で対応できるようになったのには自分でも驚いた。なまじ日本語が一切通用しない環境の方が覚悟と諦めがついて韓国語の世界にすんなり入っていけるのかもしれない。

 鮮やかな青いネクタイに紺系統のスーツに身を包んだ金くんが現れた。へやースタイルも短く刈り込んでいて何よりもそのネクタイがよく似合っていた。私にとっては息子のような存在だが、実際にこんな息子がいたら頼もしく思うだろうなあと思った。  

 運転振りは慎重で、車庫入れも上手だった。ローファームの近所で軽く昼食を済ませ、いよいよ弁護士事務所(ローファーム)のビルへ乗り込んだ。約束時間通り相手の弁護士さんが登場。彼は私の友人のJ氏の大学の後輩に当たる。とても感じのいい方で、分厚い法律の本を手に、著作権関係のページをあれこれ見ては、適切な説明とメモまでして下さった。金くんがいてくれたおかげで専門用語もすんなり通じた。大体の話が終わったので、お礼を言って部屋を出た。エレベーターまで見送って下さった。 

 昼下がりの江南は人も車も多く、久しぶりだったからか、以前より高層ビルディングがかなり増えているように見えた。歩いている人々も江北とはちょっと違った雰囲気でエリートたちも多いのだろう、私の知り合いにはいないタイプに思えた。

 午後4時、出版社の社長現れる。10年前に私と契約書を交わした社長は昨年亡くなられたとのこと。7人兄弟の一番上が前社長で、現社長は末の妹さんだった。子供服製造の仕事を20年も続けてきたキャリアウーマンで、顔はやはり前社長に似ていた。昨年から債務整理に追われ、慣れない出版業界で頼りになる職員もいない中、ほぼ孤軍奮闘してきたらしい。 

 前社長は本を売ることよりも、本を作ることが好きだったみたいで、28年間の出版業の間になんと680冊以上の本を作ったとのこと。680冊という数字を聞いて私は気絶しそうになった。出版界は慢性の不況が続いている。インターネットでも手軽に本が読めるようになった時代に、彼はコツコツと本を作っていったのだ。在庫も相当なもので、田舎の別荘に大きな倉庫を作ってそのまま置いているそうだ。売れなければ断裁するのが出版界の常だが、本を愛するあまり1冊も断裁せずに28年間抱え込んできたという印象を受けた。営業部員が一人もいなく、インターネット上にサイトを持っているのでインターネット決済でビジネスを細々と続けてきたという感じだ。子供服の妹にしてみれば、唖然とするばかりだっただろう。  

 ところで10年前に1000部出した私の本は900冊まで売れたそうだ。思いの外売れていたので少々驚いたが、今となっては誤訳の多いものが900冊も世に出たことに複雑な思いがする。作者の良心としては、残りの100冊に対して修正表を差し込んでほしいところだが、今更そんなことを頼む相手でもないし、あの本は原書(日本語)がけっこう売れたので、韓国の研究者は、韓国版よりも原書を手に入れて参考にしているという話も聞いた。 

 今や遅しという感もあるが、韓国でも口述筆記の大切さが叫ばれ、多くの民俗学関係者(歴史専門家というより)が口述筆記のために日本と韓国を行ったり来たりするようになった。あと20年早かったら充実したものになったのになあと私なぞは思うが、全然やらないよりはいい。若手研究者に期待するしかない。

2010/05/04

ソウル5泊5日

 昨日、ソウルから戻ってきた。帰る日が仁川発朝8時の飛行機だったので、その日は4時起きでホテルにもモーニングコールを頼んでおいた。朝型人間と言っても、さすがに外国で数日を過ごすと早起きが困難になる。毎朝大体7時過ぎまで起きられなかった。

 外国語を駆使して弁護士さんに会ったり、出版社の新米社長に会ったりと、人見知りする性質(たち)ではなくとも、無意識に神経を遣っているらしく、オフィステルに戻ると、ぐったりする。今回は幸い、同行してくれる83年生まれの若者がいたので、オフィステルから江南のローファームに行くときもオフィステルに戻るときも彼が運転してくれる車に気楽に乗っていればよかった。どれほど助かったか知れない。しかも彼は昨年の秋、法科を卒業しているので、法律の知識もある。目下求職中だが、来週には望んでいる会社の面接があるとのこと。どうか無事合格しますように。 

 27日の火曜日にソウルに到着した日とその翌日は冷たい雨が降り、気分も少し停滞気味だったが、29日に友人宅からオフィステルに移動する日は、朝から快晴で、オフィステルまで車で送って下さった友人のご主人と、今のソウルや韓国の経済の話や、高齢者に対する福祉政策のことなどいろいろと話すことができてうれしかった。 

 29日以降についてはまたの機会に書く。