ソウル在住の地方出身者はいつものように、渋滞もなんのその故郷に帰る。ソルラルは秋夕(チュソク)に比べると、やや規模が小さくなる感じだ。同じ名節(ミョンチョル)でも、やはり最大の祭りは秋夕だ。
もう何年前になるだろう。ヒョッチャの息子ウォニがまだ小学生だったから8年ぐらい前か。ソルラルの頃、私はソウルにいたことがある。短期の韓国語レッスンのため、冬の2カ月、クリスチャン専用のゲストハウスに滞在していた。私自身はクリスチャンではないが、ヒョッチャの紹介で一日2万ウォン、食事付きという破格値で滞在できたのだ。
そこは、世界各国へとミッションで渡っている韓国人伝道師や、牧師などが一時帰国の際に利用する所だ。ケニア、インドネシア、USA、北欧、中国etc.本当に多様な国から戻ってきた人々と知り合うことになった。もちろん共通語は韓国語である。当時はまだ聞き取りが完全ではなかったので、私のために英語で説明してくれる人もいた。あの頃は苦手な英語でも十分通用するほど韓国語の方はいまひとつだったのだ。
ソルラルの連休はさすがに人がいなくなる。皆親戚や知り合いの家に呼ばれるので、ゲスト・ハウスはがらんとしてくる。私はヒョッチャから自宅に招かれていた。朝早くから来るように言われていたのだが、もたもたしていると電話がかかってきて、「何をしている? 早く来て、料理の手伝いをしてちょうだいな」
で、結局、料理の準備がほぼ終わった頃に彼女の家に到着した。ソウル中心部から地下鉄で40分ぐらいかかって、そこからマウル・ポスに乗り換えていく。けっこう遠いのだ。同じ市内でも、彼らはそこを市内とは言わない。
午後から牧師の兄弟がやってきて、ヒョッチャが用意した手料理を食べる。私は皿洗いを専門に手伝った。一緒にこちらへ来て食べればと言われたが、話題もないし、何より世間話をするほど韓国語ができない。当時はそうだったなあと今にして思うのだ。
お客が帰ったあと、娘のヘスクとウォニからセベの挨拶を受ける。このとき私は初めてセベ(お年玉)を彼らに与えた。二人とも外国人に新年の挨拶するのをとても恥ずかしがって、なんだかへらへらしながらやっていた。へらへらしていたけど、私はうれしかった。親戚の子供みたいな気がした。
その後、ヒョッチャ一家は牧師のお父さんの家に新年の挨拶に行くため、私はヒョッチャの実家に預けられた。ヒョッチャのご両親とは顔なじみなので、別に緊張することもなく、ここでもトックをいただきながら、お父さんの流暢な日本語を聞いていた。そのうち眠たくなり、昼寝までさせてもらった。
新春といってもまだまだ外は凍てついていた。その日の晩は別の家族からも自宅に招待されていたので、夕方戻ってきたヒョッチャたちに挨拶して、またゲスト・ハウスに戻っていった。泊まらないで帰るので、ヒョッチャは残念がったが。
遠い日のことになってしまったが、既に21世紀にはなっていた。なのに、かなり昔のことのように思えてならない。その後、2年余りの留学を体験したから余計そう思えるのかもしれない。当時は雑誌も2号をやっと出したばかりだった。
中年になってからの語学習得はやはりかなりの努力を要するものだ。記銘力の衰え、老眼の始まりもそれに追い討ちをかける。若い頃のようにスラスラ、スイスイと語彙力がアップしていかない。それを補うものは詰まるところ、洞察力と想像力である。一つの外国語を習得していく道のりは長いが言語、その国の文化を知り、そして何よりも、多くの友人を得た。これほどやりがいのある勉強があるだろうか。
ソルラルが過ぎれば、陽射しはますます伸びてゆく。2月に入ったら、沖縄旅行も控えている。あちらは梅も菜の花も咲いたらしい。飛行機で3時間。ソウルより遠い沖縄だが、わくわくする。
0 件のコメント:
コメントを投稿