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2025/08/10

2025年8月6日 広島平和記念式典での広島県知事、湯崎英彦氏のあいさつ文

  広島平和記念式典でのあいさつで一番まともな挨拶だと思ったのに、毎日新聞に掲載されなかったので、ここにコピーを載せました。

【全文】知事あいさつ「核兵器廃絶という光に向けて這い進む」

  草木も生えぬと言われた75年からはや5年、被爆から3代目の

駅の開業など広島の街は大きく変わり、世界から観光客が押し

寄せ、平和と繁栄を謳歌しています。しかし同時に、法と外交

を基軸とする国際秩序は様変わりし、剥き出しの暴力が支配する

世界へと変わりつつあり、私達は今、この繁栄が如何に脆弱なも

のであるかを痛感しています。


  このような世の中だからこそ、核抑止が益々重要だと声高に叫

ぶ人達がいます。しかし本当にそうなのでしょうか。確かに、

戦争をできるだけ防ぐために抑止の概念は必要かもしれません。

一方で、歴史が証明するように、ペロポネソス戦争以来古代ギリ

シャの昔から、力の均衡による抑止は繰り返し破られてきました。

なぜなら、抑止とは、あくまで頭の中で構成された概念又は心理、

つまりフィクションであり、万有引力の法則のような普遍の物理

的真理ではないからです。


  自信過剰な指導者の出現、突出したエゴ、高揚した民衆の圧力。

あるいは誤解や錯誤により抑止は破られてきました。我が国も、

力の均衡では圧倒的に不利と知りながらも、自ら太平洋戦争の端

緒を切ったように、人間は必ずしも抑止論、特に核抑止論が前提

とする合理的判断が常に働くとは限らないことを、身を以て示し

ています。


  実際、核抑止も80年間無事に守られたわけではなく、核兵器使

用手続の意図的な逸脱や核ミサイル発射拒否などにより、破綻寸

前だった事例も歴史に記録されています。


  国破れて山河あり。

  かつては抑止が破られ国が荒廃しても、再建の礎は残っていま

した。

  国守りて山河なし。

  もし核による抑止が、歴史が証明するようにいつか破られて核戦争

になれば、人類も地球も再生不能な惨禍に見舞われます。概念として

の国家は守るが、国土も国民も復興不能な結末が有りうる安全保障に、

どんな意味あるのでしょう。


  抑止力とは、武力の均衡のみを指すものではなく、ソフトパワーや

外交を含む広い概念であるはずです。そして、仮に破れても人類が存

続可能になるよう、抑止力から核という要素を取り除かなければなり

ません。核抑止の維持に年間14兆円超が投入されていると言われて

いますが、その十分の一でも、核のない新たな安全保障のあり方を

構築するために頭脳と資源を集中することこそが、今我々が力を入れ

るべきことです。


  核兵器廃絶は決して遠くに見上げる北極星ではありません。被爆で

崩壊した瓦礫に挟まれ身動きの取れなくなった被爆者が、暗闇の中、

一筋の光に向かって一歩ずつ這い進み、最後は抜け出して生を掴ん

だように、実現しなければ死も意味し得る、現実的・具体的目標です。


  “諦めるな。押し続けろ。進み続けろ。光が見えるだろう。

そこに向かって這っていけ。”(THE NOBEL FOUNDATION, 

STOCKHOLM, 2017 広島県による翻訳※)


  這い出せず、あるいは苦痛の中で命を奪われた数多くの原爆犠牲者

の無念を晴らすためにも、我々も決して諦めず、粘り強く、核兵器

廃絶という光に向けて這い進み、人類の、地球の生と安全を勝ち取ろ

うではありませんか。


  広島県として、核兵器廃絶への歩みを決して止めることのないことを

誓い申し上げて、平和へのメッセージといたします。


令和7年8月6日
広島県知事湯崎英彦

2025/06/20

戦勝国の傲慢

  第二次世界大戦の戦勝国、イギリス、フランス、アメリカ。これらの国はこの大戦に対して、何も反省しなかった。戦争は負けた国だけが謝罪、反省するべきだと考えているのだろうか。戦争に勝とうが負けようが、戦争を始めたこと自体に問題があるのにね。

 大戦が始まる前に、パレスチナとイスラエルの両方に建国を約束するという愚挙に出たイギリス。1948年のイスラエル建国以来、現在に至るまで殺戮が執拗に繰り返されているヨルダン川西岸、ガザ地区。パレスチナはいまだに国として認められていない。

 イスラエルはホロコーストをすぐに持ち出して被害者意識を全面に出すが、ホロコーストを実行したのは、ドイツだし、長年にわたりユダヤ人差別を黙認してきたのはヨーロッパ諸国だ。紀元前から平和に暮らしてきたパレスチナの人々が一体何をしたというのだろう。

 パレスチナとイスラエルの両方にいい顔したイギリスは、事の重大さに身震いしたことはないのだろうか。イギリスのせいでイスラエルが認可され、それ以来殺戮が繰り返さているというのに。

 そしてフランス。イスラエルの核開発を援助したと言われている。

 そしてアメリカ。イスラエルに武器を供与し続け、自国は何の被害も受けずにユダヤ資本とユダヤ票欲しさにイスラエルの後ろ盾になって久しい。イスラエルは、まるでUSAの第一番目の州みたいなものだ。 

 現在、中東で続いている虐殺は第二次世界大戦での戦勝国の傲慢が引き起こしたようなものだ。イスラエルの自衛権ばかり認めて、イランには容赦がない。

 そして日本。イスラエルのイラン攻撃に「遺憾」を表明したものの、G7の中でその存在感はほとんどない。

 21世紀も4分の1が過ぎているというのに、ウクライナ侵攻、ガザ虐殺に加えて、イスラエルのイラン攻撃が続く。愚かな欧米、非力な日本。戦争する暇があったら、地球温暖化に対処してなけなしの知恵を出し合う方が先なのに。

 

2025/04/14

不可解なNHK国会中継

  NHKの国会予算委員会のTV中継でいつも思うのは、野党の質問の途中で中継が終わることだ。このところ、れいわ新選組や、共産党の質疑が途中で切れたり、ほとんど見られなかったりすることが多い。

 なぜ、スポーツ中継時のように「サブチャンネル」に移行しないのだろうか。国民から受信料を徴収して成り立っているNHKなのだから、国会中継をきちんと放送することは当然の義務である。インターネット中継を見れば、事は解決するかもしれないが、中継をしておいて、途中でやめてしまうというのは、無責任極まりないと思う。

 私は仕方なく、NHKに問い合わせた。「なぜ、サブチャンネルで続きを見せてくれないのか」と。1か月近く経つのに、いまだに何の返事もない。

 別件で問い合わせをしたときは、送信後、数時間で丁寧な返信をくれたこともあったので、なしのつぶての扱いに、正直言って怒っている。

 MLBや、サッカーなどのスポーツ中継よりも、国会中継は私にとって大切だ。サブチャンネルの切り替えが技術的に困難なものとも思えない。いまだに返事ができない理由がどこにあるのか、早く知りたいものだ。

2025/04/08

被爆者の声〝奪われた命〟(3)/馬野和道さん


 2007年撮影。馬野和道先生。偶然、見つけた動画。
 馬野先生は、私が広島市立吉島小学校1、2年生のときの担任の先生だった。父の転勤で転校したため、馬野先生とも広島とも別れてしまった。たった2年間だったが、いつまでも忘れられない先生だったので、90年代に何度かお会いする機会を持った。先生は、1929年生まれなので、現在どうしていらっしゃるかと思っていたら、この動画で、78歳の折の先生にお会いすることができた。
 小学校時代も、大人になってからお会いしたときも、一度も原爆の話はされなかった。こうして、初めて先生の原爆の話を聞いたのだから、今後、私なりに何か出来ることがあるのではないかという思いが強くなった。

2025/04/07

腹の立つ日本語

  「心に刺さる」

 「心に残る」ということを言いたいのだろうが、「刺さる」というのは、本来、「とがった物の先が何かの表面を突き破って、中に入ること。例 とげが刺さる」(三省堂「新明解国語辞典」)ということだ。とげが刺さったら「痛い」、刺さったら困るという気分などどこかに消えてしまい、「感動」したり、「印象に残る」とか、「心に残る」というつもりで使う人が増えてきた。誹謗中傷や、特定の人の言葉が「刺さって」、心が傷ついた、というのなら、まだ理解できるが、「心に刺さって」感動し、今後の行動にまで影響してくる、となると、やはり首をかしげたくなる表現だ。

 「真摯に」

 政治家や、不祥事を起こした当人、会社の人間が謝罪の折に頻繁に使うが、いまだかつて「真摯」であったためしはない。安倍政権の頃から乱用されてきた記憶がある。「真摯に逃げ切る」という意味合いまであるのだろうか。

 「多大なご心配とご迷惑をおかけした」

 これも謝罪の折に枕詞のように使われるが、迷惑かけられたけど、心配なんかしてないよ、といつも思うのは私だけだろうか。

 「遺憾に思う」

 本来は強い非難の表明のはずなのだが、そういう雰囲気は微塵も感じられない。「上から目線」の無意味な言葉にしか思えない。

2025/04/05

今日で2月も終わり(2021年2月28日の日記)

  毎日新聞の夕刊、俳人、石寒太さんの「こころの歳時記」というコラムがある。毎回、1つの俳句を簡単に鑑賞するものだ。先日、取り上げていたのは、中村草田男の次の句。

   ひた急ぐ犬にあひけり木の芽道

 春の兆しの中、急ぎ足でやってくる犬と出会ったというだけの句だが、犬の様子が眼前に生き生きと思い浮かぶ。この犬から、私は昔飼っていた犬を思い出した。

アパマンカレー?(2021年10月21日の日記)

  久しぶりに郵便局に行ったら、窓口にレトルトのアパマンカレーが並んでいた。

 なに?、これ!

 アパマンといえば、帽子をかぶった女社長が右翼が喜びそうなことを主張しているホテル業界のことだ。郵便局はいつからアパマンと仲良くしてるのだろう、びっくり。

 民営化したのね。だからなのか、窓口の仕事の遅いことといったら、これまた驚くほどだったのだ。